ロビン

真白燈

前編

 

 ロビンを初めて見たときのことは、今でもよく覚えている。


 さらさらと風になびくライトブラウンの髪に深い緑の瞳は若葉を連想させ、日の光を浴びながらとても綺麗に輝いていた。


 その今まで見たことのない美しさに、わたしは一瞬呆けたように彼を見た。

 一方の彼も、子どもがこんな森の中にいることにとても驚いたようだった。


「お嬢ちゃん、こんなところにいたら危ないぜ」


 わたしは一緒に森へ来ていたおじいさんとはぐれてしまい、途方にくれていたところだった。もう二度と誰にも会えないと思っていたところ、こうして人に出会えたことで安心したわたしは状況を説明する前に涙があふれてきた。そして一度こぼれた涙はなかなか止めることが難しかった。


 ロビンは初対面の子どもにいきなり泣かれ、ぎょっとしたように目を見開いた。そして慌てて屈みこみ、わたしと同じ目線になって優しい声で必死に慰めようとした。勝気そうな目じりを困ったように下げていたのが今でも印象に残っている。


「ああー…怖かったんだな、もう大丈夫だから。俺がお嬢ちゃんの家まで連れて帰ってやるから」

「ひくっ……本当?」

「ああ、本当だ。だからもう泣きなさんな」


 ほら、捕まりな、と彼は歩き疲れたわたしを背中におぶってくれると、おじいさんを探し始めた。


 幸いにもすぐにおじいさんと再会することができた。おじいさんはロビンを見ると強張った顔をして、それは彼をどこか恐れているようにも見えた。だが迷子だったわたしを助けてくれたことを知ると、慌てて何度もお礼を述べたのだった。


「感謝してもしきれません。どんなにお礼をすればいいか……」

 おじいさんの大変恐縮した様子にロビンが鬱陶しそうに手をふった。

「いいって、それよりじいさん、これからは気をつけろよ」


 じゃあな、と立ち去ろうとしたロビンのマントをわたしはとっさに掴んだ。怪訝そうに彼は振り返ったが、どうしてもまだ彼に伝えなくてはいけないことがあった。


「お兄さん、ありがとう」

 ふっと彼は笑った。

「もう、じいさんとはぐれんなよ」

「うん。……また、会える?」


 こらっ、と慌てて止めるおじいさんにわたしは少しひるんでしまったが、どうしてもまた彼と会いたかった。ロビンは片方の眉を上げ、やれやれと肩を竦めた。


「……機会があったら会えるかもしれないな」

「本当? わたし、待ってるね」


 ばいばい、と手を振るわたしに彼は照れくさそうに微笑むと、颯爽と森を駆け抜けていった。彼が身につけていたマントがひらりとはためき、わたしは目に焼き付けるように彼の後ろ姿を見つめていた。


 それが、ロビンとの出会いだった。


***


 わたしはあの日からロビンに会うために何度も森へと足を運んだ。彼は危ないから一人で来るなと何度も注意したし、おじいさんもロビンと会うことをあまり良く思っていないようだった。だが、まだ幼かったわたしがそれを守るのは難しく、彼に会いたいという気持ちから何度も一人で森へと足を運んだ。


 今日もおじいさんの目を盗んでわたしは元気よく森へと駆けだす。


「こんにちは、お兄さん」


 ロビンは仁王立ちになってわたしを待ち構えていた。


「こんにちは、お嬢ちゃん。今日は道に迷わなかったかい?」

「うん。もう、すっかり覚えたよ」

「そうか、それはよかった……じゃねえよ!」


 ロビンが急に大声を出したので、わたしはビクッと肩を震わせた。いったいどうしたのだろう。


「いや、もう子ども相手だからと、手加減していたが、もう、限界だ!」


 きっと、ロビンはわたしをにらんだ。もし、わたしがもう少し大きければ、彼が怒っているのだと理解できただろう。だがわたしは、彼が面白いことをしてくれるのだと思い、きらきらした表情で彼を見上げた。その表情に、彼はうっ、と一瞬怯む。だがすぐに、だめだ、だめだと首を振った。


「そんな表情しても、だめなもんはだめだからな! 毎日毎日、森をうろつくからよお、放っておくわけにもいかねえから、なんだかんだ探すことになって……おかげでこっちはろくに仕事もできねえ。俺は子守してんじゃねえぞっ」


 わたしはロビンは元気だなあと思いながら聞いていた。今思い出すと、本当に彼には申し訳ないことをしたと思うけど、わたしはとにかく彼が怒っていようが彼が律儀に構ってくれることが嬉しくて、もう来るなと言われても何度も足を運んでしまうのだった。

 

 わたしの執念深さに根負けしたのか、いつの日からかロビンはわたしが森へ通わせないようにすることをあきらめたようだった。代わりに、待ち合わせの場所と日時を決めて、それ以外の日には絶対一人で来てはいけないと約束させられた。


「いいか? しばらくして俺が来なかったら、その日は無理だってことだから、すぐに帰るんだ。いいな?」


 ロビンはわたしにそう、きつく言い渡した。


「うん!」


 わたしはとにかく彼に会えることが嬉しくて、元気よく返事をする。ロビンは本当にわかっているのか、と疑わしそうにわたしを見たのだった。

 

***


 許可をもらったわたしはロビンと会う約束の日を心待ちにして早くその日にならないものかとそわそわしていた。我慢できずに約束ではない日にも森へと行ったことは秘密だ。


 ロビンはわたしにいろんなことを教えてくれた。彼は文字の読み書きもできるらしく、わたしにも本を持ってきて、読み書きを教えてくれた。それから、森で動物を仕留めるコツや怪我した時の応急手当のこととか。


 でも、ロビン自身についてはほとんど何も知らないままだった。

 そのことに気づいたのは、ある日、ふと気になったことを聞いてみた時だ。


「そういえば、ロビンって本当の名前なの?」


 ロビンと呼んでくれと言ったから、そう呼んでいたのだけれど、本当は違うのだろうか。わたしが尋ねると、彼はしばらく迷うそぶりを見せた。


「いや……違う」

「そうなの?」


 ああ、と煮え切らない態度にわたしは不思議に思った。何かを隠しているようで、さらに重ねて尋ねる。


「そういえば、ロビンて、どこに住んでいるの? 普段わたしと会う以外に何しているの?」


 次々と疑問に思っていたことを口にしていき、わたしはロビンのことをほとんど何も知らないことに気がついた。これではいけないとわたしは教えてくれるよう、しつこく彼の膝をゆすった。


 最初はのらりくらりとかわしていたロビンも、あまりのわたしのしつこさに観念したのか、しぶしぶと言った様子で口を開いた。


「……絶対に誰にも言わないか?」


 予期せぬ重い口調と真剣な表情にわたしはびっくりした。もしかして聞いてはいけないことだったのだろうか。そう思い始めると、しつこく聞いて悪かったなという気持ちになり、わたしは遠慮するようにロビンを見上げた。


「言わないけど……でも、ロビンが言いたくないなら、やっぱり無理して言わなくていいよ」


 彼がどんな名前であろうが、事情があるにしろ、わたしにとってロビンはロビンだ。たとえ本当のことを教えてもらっても、これからもわたしがロビンを好きなことは変わらない。


 ロビンは急に大人しくなったわたしの態度がおかしかったのか、からかうように言った。


「おいおい、さっきまでの威勢のよさはどこにいったんだ?」

「だって、ロビンが急に真面目な顔するから……聞いちゃだめなことだったのかなって。ロビン、言いたくないなら言わなくていいよ。わたしはロビンがどんな名前でも、生まれでも気にしないから」


 わたしの言葉にロビンは鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情をした。何かおかしなことを言ってしまっただろうかと不安になって、ロビン? と呼びかける。彼はようやく我に返ったようにはっとした。そして目を細めながら優しい声で言ったのだった。


「そうか……ありがとうな。普段何しているとかは答えられねえけど、本当の名前なら教えてもいいぜ」

「……本当にいいの?」


 無理していないだろうか。そう心配した気持ちが顔に出ていたのか、ロビンはからりと笑った。


「別に、たいしたことじゃねえよ。あんまりいい思い出がないから、黙っていただけさ」


 いい思い出がないのならば、なおさら聞かない方が良い気がしたが、ロビンはもう教えると決めたようだ。


「お嬢ちゃんには知っていて欲しいしな。俺の本当の名前を」


 そうして彼はわたしの耳に口を寄せ、そっと本当の名を教えてくれた。

 わたしは宝物のありかを教えてくれるような、そんな素敵な気持ちでいっぱいになった。


「……素敵な名前だね」

 だがロビンは自嘲するように笑った。お世辞だと思ったのかもしれない。


「でも、わたしはロビンっていう名前はもっと素敵だと思う」


 ロビンはしばらく何も言わないまま黙り込んだ。わたしは彼の耳が赤いことに気づいて口もとに笑みを浮かべる。


「……それはどうも」

「うん。どういたしまして」


 照れているロビンが可愛く思えて、わたしはクスクスと笑いながら言った。それをロビンが目ざとく見つけ、にらんだものの、わたしはちっとも怖くなかった。ロビンも自分の迫力のなさを理解しているようで、悪態をついた。


「まったく……末恐ろしいお嬢ちゃんだな」


***


 生い茂る草木を上手く横切りながら、わたしは森を歩いていた。心が弾むのは、大好きなあの人に会えるからだ。


 今日は何をして遊ぼうか?

 魚釣り?

 追いかけっこ?


 ロビンとやりたいことは山のようにあった。わたしはうきうきしながら約束の場所へと急ぐ。いつもはしないのだが、なぜか今日は近道をしようという気になり、いつもは通らない道に足を向けた。


 しばらく歩くと、木々の間から、目当ての人物が目に入った。

 あ、ロビンだ! と思い、わたしはすぐに声をかけようとしたその口をとっさに手でふさいだ。ロビンが誰かと、いや綺麗な女の人と彼はいたのだ。


 とっさに木陰に隠れると、そっと二人の様子を覗き見た。女の人は綺麗な衣服を着ていて、わたしが今までに見たことのある女性の中でも一番の品のよさを漂わせていた。ロビンに笑いかける顔は、花がほころぶように美しくて、ロビンもそんな彼女を優しく見つめていた。


 ――嫌だ。


 とっさにそう思い、わたしはそっとその場をあとにした。音をたてないように身を引き、もう彼らから見えないという十分な距離まで来ると、自分のなかにあるよくない気持ちを打ち消すように突然走り出した。途中肌が小枝に引っかかって鈍い痛みを感じたが、気にしなかった。


 もうこれ以上走れない、と体が限界を訴えて、わたしはようやく立ち止まった。はあはあと下を向きながら呼吸を整える。


 足元の水溜まりに浮かぶ自分の姿が目に入った。癖のある髪に、ぼろぼろの衣服をまとう痩せた自分の姿が惨めだった。こんなみすぼらしい格好では、ロビンが振り向くはずがない。


 あの女の人が羨ましかった。彼と釣り合うものを備えていて、気にかけてもらえる。恋人として見てもらえるのだ。自分はせいぜい妹ぐらいだろう。


 虚しくて、こんな調子でロビンと会ってしまえば泣いてしまいそうで、わたしはそのままとぼとぼと家へ帰っていった。おじいさんがどうかしたのかと心配して声をかけてくれたけど、なんでもないと首を横にふって遊び疲れただけだと、早々にベッドに入った。


***

 

 次の日、朝早くに目が覚めた。窓から降り注ぐ陽の光を見ていると、昨日の憂鬱な気持ちが優しく溶けていくようだった。


 昔、まだお母さんが生きていたころ、辛い時があったらおひさまの光をたくさん浴びなさいって言ってくれたことがあった。その時のわたしは本当かなと半信半疑だったけれど、今はその言葉が本当だったのだと知る。


 ――気にしても、仕方ないか。


 そう思い、元気よくおじいさんに挨拶をして朝ご飯を食べ終わると、森へと行くために外へ飛び出した。今日は何をして遊ぼうか。そんなことを考えていると、森へと続く入り口の前に誰かがいることに気づいた。その姿を見てわたしは目を丸くする。


「ロビン!」


 昨日のことが頭をよぎったけど、すぐに彼がここに来てくれたことが嬉しくて駆け寄った。体当たりするように彼に抱きつくと、目を輝かせて聞いた。


「おはようロビン! こんなに朝早く、どうしたの?」

「いや、なに、ちょいと近くまで寄ったもんでね。そのついでだよ」


 こんな村外れの場所に用事とはいったいなんだろうかと不思議に思ったけど、彼はいろんなことをしているから、すぐにそうかと納得した。


「そうなの? でも嬉しい」

 わたしの言葉に彼は気まずそうに頭を掻いたが、やがて観念したようにわたしの頭を撫でてくれた。


「あー……昨日は何かあったのか? いつもは、迷惑がっても来るじゃないか」

「ロビン、待っていてくれたの?」


 わたしはてっきりあの女の人とそのまま仲良くやっているのかと思っていた。でも、彼はあの後別れて待っていてくれたのだろうか。だとしたら悪いことをしてしまった。


「そりゃ、まあ……あんた約束したら絶対来るから、急になにも言わず来なかったら、何かあったのか心配するだろ」

「ロビン……」


 わたしが驚いたように、彼をまじまじと見つめると、照れくさいように彼は、あーっと誤魔化すように声を出した。


「それで、何かあったのか?」

「……ううん」

 彼はきゅっと眉根を寄せた。

「本当かぁ?」


 わたしは絶対にロビンと女の人が一緒にいたことを知られたくないと思って、懸命にとぼけたふりをした。


「本当だよ。昨日は遊び疲れて、そのまま眠っちゃったの」

 ふうんと彼はまだ疑わしそうにわたしを見ていたけど、しぶしぶ納得したようだ。

「ま、そういうことにしておくか」


 わたしはほっと胸をなでおろし、話題を変えるように話をふる。


「ね、ロビン。今日はずっとここにいるの?」

「そうだなあ。まあ、いてもいいかな」


 やったあとわたしは両手をあげて喜んだ。昨日会えなかったぶん、今日はめいいっぱい彼と遊ぼうと思った。

 ロビンはわたしのはしゃぎぶりを呆れたように見ていたが、すぐに用事を思い出したように小屋の方を見た。


「ああ、そうだ。じいさんにちょいと渡したいものがあるからそれからでもいいか?」

「うん。いいよ」


 おじいさんは、ロビンから重たそうな袋を渡された。その中には食料やら銃など細々した、わたしたち庶民にはなかなか手に入れることができないようなものがどっさりと入っていた。わたしはおじいさんがてっきり喜ぶものだと思ったが、彼は顔をしかめてそれらをロビンに突っ返した。


「……わたしにはそれを受けとることはできません。どうか、あなたが使ってください」

「あんたも頑固だねえ。なら、この子ためだと思えばいい」


 そう言うと、おじいさんはますます眉間にしわを寄せたが、ロビンの態度が変わらないとわかると渋々とその荷袋を受け取った。そしてどこか憐れむような眼差しで、ロビンに言ったのだった。


「あなたがしていることは……」

「おいおい、そんな話お嬢ちゃんの前でするなよ。それにあんたが心配せずとも、俺はこの子に教えるつもりはねえよ」

「……そうですか」

「ねえ、なんのお話しているの?」


 わたしが我慢できずにそう聞くと、二人は顔を見合わせてしばし黙った。だがすぐにロビンがいたずらっぽく笑った。


「なんでもないさ。ほら、遊びに行くんだろ?」


 わたしは遊びに行くという話に興味が移り、ロビンの手を引っ張って、早く外に遊びに行こうとせかした。

 結局その話はそれっきりとなり、二人がなんの話をしているのかわたしが知ることはなかった。


 ただ、扉を開けて振り返ったさい、おじいさんが心配したような面持ちでわたしがロビンと出ていくのを見ていたのは、ほんの少しだけ気になった。


 森でいつものようにロビンと遊んだ後に、疲れたので少し休憩することにした。大きな木を背もたれに、わたしとロビンは腰を下ろした。さわさわと揺れる風が心地よい。


「お嬢ちゃん、これやるよ」


 ロビンはそう言って、わたしの手のひらに何かをそっと落とした。それは銀色の指輪だった。光にかざすとキラリと輝き、何か、文字のようなものが彫ってあったが、わたしには読めなかった。


「うわあ、素敵……でもこんな高価なもの本当にもらっていいの?」

「ああ、いいぜ」

「ありがとう、ロビン。大切にするね」


 ロビンがわたしにくれたものが宝物のようで、わたしは一生大切にしようと思った。でも、どこでこんな素敵なものを手に入れたのだろう。


「それは内緒だ」

 ロビンはうっすらと微笑んで、わたしの頭を撫でてくれた。


***


 ロビンと一緒にいることはとても楽しかった。でも、時々彼はびっくりするくらいひどい怪我をしていることがあった。その時のロビンはわたしに弱みを見せたくないのか、帰ってくれと冷たくあしらった。


 だがわたしはそんな彼をどうしても放っておくことができず、無理やりわたしの家に引っ張っていくか、おじいさんを連れてきて、彼の怪我を見てもらった。


「ロビン、じっと寝てなきゃだめだよ」


 その日もわたしの家に連れてこられたロビンがベッドに寝かされていた。今日の怪我は一段とひどく、顔には殴られたようなあざ、そしてお腹のあたりには刺し傷が痛々しく残されていた。こんな重傷であっても彼は何でもないと言い張るのだから本当に困ったものだ。


「まったく……頑固なお嬢ちゃんだなあ」


 はあ、とため息をつくロビンの顔はまだどこか青ざめているように見え、わたしは不安でたまらなかった。


「だって……心配だもの。放っておけば、ロビンが」


 死んじゃいそうで、という言葉を言うつもりが、本当にそうなってしまいそうで、わたしはその言葉を飲み込んだ。代わりにロビンの手をそっと握りしめた。


「ロビン……危ないこと、しないでね」

「そいつは、難しい約束だな」

「お願い」


 わたしが必死に頼むと彼は観念したように言った。


「わかった、わかった。なるべくそうするから、その顔はやめてくれ」


 きみも孫の前では形無しだな、とおじいさんが包帯を変えながら言った。わたしがどういう意味? とロビンに聞いたけど、彼はぶすっとした顔のまま教えてくれなかった。


***


 ずっとこんな毎日が続くものだと思っていた。だが、わたしの運命は大きく変わることとなった。


 ある日、おじいさんが苦しそうに顔を歪め、胸を押さえて座り込んだのだ。わたしはびっくりして、慌てて助けを呼びに小屋を飛び出した。助けを求める相手は一人だった。


「おじいさんがっ」


 わたしの真っ青の顔を見てすぐにただ事ではないと判断したのだろう。彼はすぐに小屋へと向かって走り出した。わたしも必死で彼の後を追いかけた。


「駄目だ」


 ロビンの抑揚のない声が部屋に響いた。彼は、うずくまるように座っていたおじいさんを横に寝かせると、さっと立ち上がった。わたしはのろのろと顔を上げる。


「……村の連中を呼んでくる。弔ってやろう」


 わたしはただこくりと頷いた。ここで待っていろとロビンはわたしに言い渡すと、また小屋から出ていった。わたしは言われたとおり、その場に立ちつくしていた。いったいこの先何をすればいいか全くわからなかったからだ。物言わぬおじいさんの亡骸が恐ろしく、今はただロビンが一刻も早く戻ってきてくれることを願った。


 ロビンと村の人たちがおじいさんの弔いを済ませ、ようやく小屋に帰ってきた時には、すでにわたしは心身ともに疲れ果てていた。ロビンはわたしのそんな様子に気づいたようで、わたしの方に近寄ってくる。


「大丈夫か?」


 淡々と聞く声に、彼の優しさを感じた。森で迷子になった時のような、いや、それよりもずっと途方に暮れた気持ちがわたしを襲う。


「ロビン……」


 掠れた声に、ロビンは何も言わずわたしを抱き締めてくれた。安心する温もりに包まれ、わたしは堪えきれずに声をあげて泣いた。


 おじいさんが死んでしまった。いつかお母さんが亡くなった時も辛くて仕方がなかったが、あの時はまだおじいさんがいることでなんとか耐えることができた。


 でも、もうわたしの家族は誰もいなくなってしまった。わたしだけになってしまった。おじいさんがいない寂しさと、これからは一人ぼっちだという怖さがわたしの胸を暗く支配する。


 どれくらい泣いていたかわからなかったが、ようやく落ち着くと、ロビンはわたしの目を見て安心させるように言った。


「なんとかしてやるから、心配するな」


***


 ロビンならきっとなんとかしてくれるとわたしは信じて疑わなかった。約束してくれた日から何日かが過ぎ、彼はわたしのところへまた戻ってきた。


 扉を開けて入ってくるなり、彼はわたしの肩を勢いよく掴んだ。その力は痛いくらい強く、わたしは少し怖くなった。


「ロビン?」

「お嬢ちゃん。あんたを引き取りたいと申し出てくれる人がいるんだ」


 ロビンはにこりとも笑わず、真剣な表情をしていた。そんな彼の顔を今まで見たことがなく、わたしは思わず一歩後退る。すると彼の後ろに控えていた人間の姿が目にはいった。


 ここらではめったに見たことがない上等な衣服を着ていた男性は、あきらかに村の人々とは違った。いつか森の中で見かけたお嬢さんと同じ品の良さが感じられ、わたしは彼がここにいることがひどく場違いに思えた。


 きちんとした身なりは、彼の人柄の良さを際立たせ、わたしが男性をまじまじと見ていたことに気づくと、彼はゆっくりと近づいてわたしと同じ目線で挨拶をしてくれた。


「こんにちは、お嬢さん」


 低いけれど、優しい声だった。どこか懐かしさを感じながらも、わたしはおそるおそる挨拶を返した。


「……こんにちは」


 わたしのぎこちない挨拶に気分を害したふうでもなく、男性は目元を和ませた。初対面の人間にむけるものとは思えない親しみにわたしはただ戸惑う。


「わたしはきみのおじいさんに昔ずいぶんと助けられてね。きみが困っていると知って、居ても立っても居られなくなったんだ」


 どうやらおじいさんはこの男性のお屋敷で昔従者として仕えていたらしい。だがやむをえない事情でお屋敷をやめることになってしまい、おじいさんは森で暮らすことになったそうだ。


 わたしは、そのやむをえない事情とやらが、なんとなくわたしか、あるいはわたしの両親に関係することだと思った。だがわたしにそれを尋ねる勇気はなかった。それに突然引き取るなんてことを言われて、わたしの頭の中は混乱していた。


 縋るようにロビンの方を見たが、彼は何も言ってくれなかった。男性はわたしがすでに行く気でいるものだと思い、話をとんとん拍子に進めていく。


「では、また明日の朝に改めて迎えに来るから、今日中に必要なものをまとめておいてくれ」


 では、失礼するよと挨拶し終えると、彼は帰って行った。ロビンが何か彼に言っていたが、わたしは聞いてはいなかった。


 男性がいなくなり、部屋はロビンとわたしの二人っきりになった。しんとした沈黙を壊すように、ロビンが明るい声で話し始めた。


「いやあ、よかったなあ。親切な人に養ってもらうことになって。あの男性はこの地域の地主さんでなあ、権力にかまけて威張ったりもしない。実に人のいい紳士だってもっぱらの評判らしい。じいさんもほっとしているだろうよ」


 わたしは返事をしなかった。ひどい、とただそう思った。


 ロビンはお別れのパーティーだと自ら持ち込んだ食料でそれなりに豪華な食事を振る舞った。あれこれと思い出話を語るも、わたしは少しも相槌を打たず、黙り込んでいた。そして食事もそこそこに、ふて寝するように布団の中にもぐり込んだ。


 そんなわたしの子どもっぽさにロビンは怒るかと思ったが、何も言わなかった。しばらくカチャカチャと彼が食事する音だけが響くも、やがてそれも鳴りやんだ。


 わたしがどうしたのかとじっと耳を澄ませていると、急に明るい光が目に飛び込んできた。ロビンがわたしのかぶっていた毛布を引っぺがしたのだ。ぎょっとしたようにわたしは態勢を起こすと、怒ったようなロビンの顔が目に入った。


「お嬢ちゃん、明日でもう俺たちはお別れなんだ。だからつまらない意地なんて張らずに仲良くするべきなんじゃないかい」


 ロビンが言っていることは正しい。わたしが間違っているのはよくわかる。でも今はそれがどうしようもなく腹立たしかった。


「いやだ。今はロビンの顔見たくない」


 そう言って、わたしは顔を見せまいと伏せた。泣いていたひどい顔を彼に見せたくはなかった。子どもっぽい自分が情けなかった。


「アリア」


 彼はそっと耳元で、そうささやいた。

 普段はめったに呼ぶことのない、わたしの名前を彼が呼んだのだ。

 わたしは思わず驚きで顔を上げてしまった。ニヤリと笑うロビンにしてやられたと思ったが、もう遅かった。


「おやまあ、ひどい顔だ」

「ずるいよ……いつも名前で呼ばないのに」


 ロビンに掌で転がされているようで、悔しくてまた涙があふれてくる。涙でぼやけた彼の表情は、少し困ったように眉を下げていた。まるで初めて森で会った時のように。


「そんなに泣きなさんな。せっかくの可愛い顔が台無しだぜ」


 優しく頭を撫でてくれる彼はいつもと変わらない。

 わたしがどこに行こうが彼にとっては痛くも痒くもないのだ。その事実にわたしはいたく傷つき、せめてもの対抗として我が儘を言った。


「わたし、お屋敷になんて行きたくない」


 わたしはずっと、森と一緒に生きてきた。これからもそうして生きていくつもりだった。今さらあんな立派な男性の娘として生きていく自信なんかこれっぽっちもなかった。


 なにより、ロビンと離れたくない。屋敷に行ってしまえば、もう頻繁に彼に会うことはできなくなるだろう。それが一番の理由でもあった。

 ロビンはずっと黙っていたが、ふいに言った。


「あんたはずっと森で生きてきたから確かに苦労はあるかもしれねえ。だがそれもすぐに慣れるさ」


 行かなければいい、という言葉を彼が言葉にしてくれることをわたしは心のどこかで期待していた。だから彼の言葉がショックで刃のようにわたしの心に突き刺さった。


「ロビンは……わたしがお屋敷に行ってもいいの?」

「それがあんたの幸せだと俺は思うよ」


 そんなことを聞きたいんじゃない。

 わたしの幸せはロビンと一緒にいることだ。


 そう言いたかったけれど、何を言っても今の彼にはわかってもらえないようで、わたしはただ泣くことしかできなかった。ロビンは最後まで困ったようにしてわたしを慰め続けた。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る