第1話 始まり
不愉快な雨。
赤子のように、それは延々と泣き止まぬ。
梅雨時期のこの季節ならよくあることだが、三日三晩続くそれに、
最初は浮かれた声も、今は怨嗟となる。
曇天の空に日はなく、時の変化に気づけばすでに夕刻。
逸る気持ちを抑えながらも、帰り支度に急く学生服姿の若人達。
短い黒髪に端正な顔立ち。銀の眼鏡の奥には優し気な瞳。
年頃の若い男の方では体格はしっかりしている。
周りに対する愛嬌もよく、人に好かれる人望もある。
放課を知らせる鐘の音を聞くや否や、荷物を鞄にまとめ、外へ出た。
愛用の黒い傘を差し、一人駅の方へ徒歩で向かう。
事情により杉山は、自身が通う高校へは電車で通学している。
勿論、電車を使わない近場の高校を選択する手もあった。
だが、そこは複雑な事情が絡み、都合の良い『虹の浦高等学校』へと進学をした。
普段から人気の少ない通りを越え、駅に辿り着く。
利用する駅は小さな無人の駅で、改札を抜ければすぐにホーム側へ出られる。
杉山自身、この駅を利用する人間を自分以外見た事がなかった。
だが、その駅の入口に珍しく先客がいた。
それは猫だった。
――いや、正確には猫のような少女だった。
ショートヘアで顔にはあどけなさが残る。女性としては未成熟な体。
自身の通う高校の紺のブレザーを纏っていなければ、中学生はおろか、小学生でも通用しそうな体躯。
ビニール傘をさして、両膝を曲げて抱える姿勢で座っていた。
口には魚……ではなく、何故かどら焼きを咥えて。
少女の正面には犬が礼儀正しく座っていた。
その毛色は白一色で、狼にも似た顔立ちの犬であった。
少女は犬の背中を擦ったり、頭を撫でたりして可愛がっていた。
その、微笑ましい光景に目を奪われる杉山。
暫くそれを傍観していると、杉山の存在に少女が気づく。
しゃがんでいた姿勢を崩し、ゆっくりと立ち上がる。
立った背丈は百五十あるかどうかの低さ。少女は杉山をじろり、と睨むように視線を送る。その眼は少女には不釣り合いな意思の強い眼であった。
少女に一体何を言われるのか警戒する杉山。だが、少女は一言も発することなく杉山の方を見て黙っていた。
よく見れば、彼女の口が微妙に動いていることが杉山は分かる。
もごもご、とゆっくりと動くそれは、どうやら口に咥えているものを咀嚼しているようだ。
少しずつ、咥えていたどら焼きが形を失い、最後に口いっぱいに頬張りゴクリと飲み込んだ。
「……何だ? 見世物じゃないぞ」
芯の通った張りのある声。
その容姿からは到底想像できない大人びた声が少女の口から発せられる。
ムスッとした少女の表情から、杉山の事を快く思っていない事が感じ取れる。
「気を悪くしたなら謝るよ。この駅で他の人と出会うのは中々珍しくて。そっちの犬は君のペットなのかな?」
少女の隣にいる犬に目線を送る杉山。犬は少女の傘の下で動く気配はない。
「キリ」
「え? キリ?」
「犬の名だ。こいつの事を私は『キリ』と呼んでいる」
キリ、と少女が呼ぶと、犬はワン、と鳴く。
少女の声に直ぐ反応を示す辺り、賢そうではあると杉山は感じていた。
「もし、よかったら少し触らせてもらっても良いかな?」
「構わない」
犬の視線までしゃがみ込み、その毛並みを触ろうと手を伸ばす。
だが、自分を利用して少女と仲良くなろうという、浅ましい考えを見破られたのか、キリは杉山が伸ばした手の甲を引っ掻いた。
「――――っ!」
「キリ! 何をしてる!」
痛みから思わず手を引っ込める杉山。少女もまたキリの思いがけない行動に、その声が強く出る。
少女は杉山に寄り添い、心配そうに見つめる。
「手を見せてみろ。傷口は?」
「ああ、大丈夫。ちょっと引っ掻かれただけだよ」
杉山の右手の甲を少女はグイ、と引っ張る。
四本に連なる引っ掻き跡が残っており、かすり傷程度ではあるがその傷口からは血が滲んでいた。
それを見た少女は何を思ったのか、自分の右手の人差し指と中指を舌で舐める。
唾液で濡れたその指は、蜜を塗ったように妖艶に輝く。
それをあろうことか、杉山の傷口に塗り付けた。
思いがけない少女の行動に、杉山は頭が真っ白になっていた。
「この程度なら唾でもつけておけば治る」
「あ、ありがとう……」
咄嗟に出た礼の言葉。
杉山の手は痛みとは別で焼けるように熱いのを感じていた。
不思議な少女であった。
「あの、名前を……名前を聞かせてくれないかな?」
杉山から発せられる声は、懇願というより要求に近いものだった。
本人は自覚していないが、彼女をもっと知りたいと脳が働きかけていた。
「人に名を尋ねるのであれば、まず自分から名乗れ」
「ああ、これは申し訳ないね。僕は杉山。杉山彰人だ」
「九条。
素っ気ない返事。
九条綾の名前を聞いて、必死に杉山は自分のクラスはおろか、同年代の他のクラスメイトの名前を片っ端から思い出していく。
ただ、どうしてもその九条という人間に思い当たる節が無かった。
「あのさ、よかったら何処のクラスなのか教えてもらえないかな」
少女は杉山の問いに答えない。
じっと、杉山を見据えたまま少女は黙り込んでしまう。
杉山はハッと我に返る。
自分の行動があまりにもがっついていたので、少女が気分を害してしまったのではないかと。
愚かな自分の行為に杉山が反省をしていると。
「いいのか?」
少女が問いかけてきた。
その漠然とした問いに、杉山は何を言っているのか分からなかった。
スッと、少女は駅の方を指さす。
そこには先ほどまで無かった電車の姿。
話に夢中で電車が来ていたことに気づいていなかった。
「君は……九条さんは乗らないのか?」
「ああ。私は乗らない」
今来ている電車を逃せば次の電車が来るまでは数時間先になる。
だが、今目の前に居る少女とまだ話をしていたい。
二つを天秤にかけ、どちらにするか杉山が迷っていると。
「行け」
少女は言う。
まるで杉山の心の中を覗いたかのように。
続けて少女はこう言った。
「どうせすぐ会える。そういう、運命だから」
その言葉が杉山の背中を後押しした。
曇った顔は笑顔に変わり、九条に別れの言葉を告げて杉山は電車に乗り込んだ。
乗った後も、杉山は駅のホームにいる九条を電車が出るまでの間、その姿を見ていた。
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