第1章 

第1話 レポートは消えてくれ

「なにここ……?」


 周囲を見回して男は呟いた。

 目に映るのは真っ白な世界。

 何もなかった。

 何度瞬きしようが、その風景が変わることはない。


「んん……?」


 寝ぼけているのか?と、頭に手を当てる。

 白一色の世界ではあったものの、時間が経つにつれ慣れてくるようで、一面の白い世界にも僅かにだが、境界があるのが見えてきた。

 線を視線で繋いでいく。辿って行くと境界は男を囲うように配置されていて、その場所が8畳程度の部屋になっていることを知った。


「――テレビもねぇ、スマホもねぇ、そもそも家具がどこにもねぇ……か」


 どこかの昭和歌手の歌をアレンジ。歌っている場合じゃないことは、男にも分かっていた。


「ワンチャン……ないか」 

 

 服の軽さから予想はついているが、ダメ元で触った胸や腰のポケットには何もない。

 持ち物なし。ここまで何もないと、服を着ているだけマシと思うべきか。

 お気に入りの白いシャツとジーパンだけは確かにここにある。


「ったく……んだよこれ、幻覚? お薬に手を出した覚えはないんだけど」

 

 殺風景な部屋で一人呟く。

 妙な寂しさが男を包む。

 こうも白いだけの部屋に立たされていると、自分が異質な存在に思えて仕方ない。


「……くそ」


 とにかくなにかに触れられないかと手を振るが、その手は何も掴むことはない。

 男の記憶が確かなら自分の隣にはテーブルがあったはずだった。

 だが今は何もない。あの時、机の上にあったレポートも消えている。


「……いや、レポートは消えてくれ――」

「こんにちは!」

「はぇぁっ?!」


 背後から突如話しかけられ、飛び上がる。

 男が恐る恐る振り返ると――


「んな……」


 男はそれ以上の言葉を失った。


 そこに立っていたのは女性。

 綺麗な女性だった。

 腰まで伸ばした金色の髪を揺らし、水色の瞳でこちらを見ていた。

 

「……ぇ」

  

 男は彼女の微かに浮かべた笑みだけで、全身が焼かれるかのように火照ってしまった。

 慌てて目を逸らした。彼女の服が目に入る。

 材質はわからないが、透明感のある白色の布がたなびいている。どこかファンタジーで見た神官の服装を思わせる。各所に見える金色の装飾などまさにそれだ。

 

「あ、その――」呆気に取られていた男は思い出したかのように声を出す。


 女性は次の言葉を待つように男を見つめてきた。

 やっぱり綺麗だ。見ただけで緊張する。

 息を整え。あれこれ考えて。

 焦った末に導き出した、会話に困った時の必勝法。


「良い天気ですね……」

「……え?」


 上を見上げる女性。


「……」


 男は肩を落として、女性を真似て上を見上げる。

 白い天井が見える。空見えねぇわ。

 焦っているとはいえ、どうして天気の話題が出たのか。

 どれだけ女性への耐性が低いことか。

 男は気恥ずかしさに身悶えながら、苦笑いをこぼした。



 無理はない。

 何を隠そう、男はコミュ症であった。



**********************************



「レポート終わらん……」


 シャーペンを机に放り出すと、渡将斗ワタリ マサトはスマホ片手にベッドに転がった。

 親元を離れ、一人暮らしを始めてもう3年になった。大学生活は慣れたが、友人と呼べる友人はできていない。

 将斗の思い描いていた大学生のイメージは、レポートとは無縁の、ナイトプールかカラオケで仲間内みんなで飲み明かし放題オールナイトだった。

 現実は一人部屋でちまちまとレポートを進めている。一体何が悪かったのか。

 外見は悪くない。背は175cm、体重は62kg。適度な運動をしているから太ってはいない。一般的な、いわば普通の男性だ。

 これといって特徴がないのだが、挙げるとすれば目に覇気がないことくらいだろうか。高校卒業時点ではまだ少しキラキラしていたが、今では見る影もない。

 

 光を失ったのは、逃れられないイベント――『就活』があるからだ。大学のオリエンテーションで配られたパンフレット。『就活に備えよう!』とデカデカと印字されたそれを見てから、日を追うごとに光が失われていった。

 今では大学3年生となり、徐々に就活に取り組み出す頃という刻一刻と迫り来るリミットが絶望の拍車をかけている。


 手っ取り早い話、さっさと調べるなり動けばいいのだが――彼は特に何もしていなかった。

 いや、何かしようとはした。当然何度も考えた。

 だが決められなかった。

 進路を決められなかった。

 彼自分のやりたいことが見つからなかったからだ。

 

 小学生に上がる前、ランドセルは青色が良かったが、皆黒色だったので黒にした。

 親がスポーツができた方が良いというので、テニスを始めた。テニスだったのは両親がテニスファンだったからだろう。

 読書感想文が嫌いだった。課題図書には何とも思わなかったが、とりあえず感動したと書いておいた。例文から引用したそれなりの文章を添えて。

 「あいつ感じ悪くね」と友達に聞かれた。別に何とも思っていなかったが「だよなー」と言っておいた。

 「文系より理系の方が良いんじゃない?」と親に言われた。理系科目はどちらかといえば得意な方だったから、進路は理系にした。

 「SEってブラックらしいから、情報より、工業行った方が良くね? 工学部だな」誰かが言っていた。大して変わらないだろとは思いつつも、ブラック企業は怖いので取り敢えず工学部に進んでおいた。


 そんな周りに任せっきりで、自分で決めてこなかったツケが今になって回ってきていた。

 将斗には、この先の人生を選ぶことができなかった。

 目的がないから、就職先について調べる気力が湧かない。そもそも何から調べればいいかもわからず、検索サイトのトップページから先へ進んだことはなかった。


 「……やりたいことってなんだよ」


 『なりたい自分になろう!』寝そべった将斗の視界の端に、机の端で落ちそうになっている就活のパンフレットが見えた。

 大学3年も終わり頃だ。残された時間はもう1年しかない。

 その状況に将斗は「自主性って大事なんだな」と、他人事のように捉えていて、現実逃避しながらスマホを眺める日々を過ごしている。今日も変わらずその日々の再現を始める。

 そんな危機感は無い癖して、ニートになるのだけは避けたいと願っていた。親戚の目が冷ややかになる気がしたからだ。一人暮らしする時に妙に期待されて送り出されたからだろう。期待を裏切ることになる。


「あー……やめやめ、休憩だ休憩」


 打ちかけの『就k』を消し、お気に入りのネット小説の集まるサイトを開く。

 そんな時ふと窓の外から、子供たちが遊ぶ声が聞こえた。

 将斗は、俺にもああやって公園で遊ぶ時代もあったなと目を瞑った。


――お前らの中の一人は俺みたいになるんだからな? 気をつけろよ子供たち


 自重気味に心の中で語ると、一人で「フッ」と笑った。

 その時だ。

 「あっ」――ふと気を抜いた瞬間スマホが滑り落ち、頭上から落下してきた。

 痛いだろうと反射的に目を瞑る。だが、一向に痛みが訪れない。

 不思議にも思う彼が目を開けると――



**********************************



 ――というところまでは覚えていた。


「いや全然分からん。どういう経緯で……?」

「突然すみません。驚いたでしょう?」

「い、いえそんな」


 頭を下げる女性に、慌てて手を振る。

 慌ててしまうのは、彼女の所作の一つ一つには気品を感じさせるものがあり、住む世界が全く違うように思わされたからだ。

 失礼があってはいけない。

  

「あのここって――」姿勢を正し、将斗は恐る恐る尋ねた。「一体どこですか? あなたは?」

「私は神様です」

「あ、そうですか神様。なるほど……」


 ?


「ん?」

「どうかされました?」


 どうかしてるのはあなたでは、と言いたい気持ちを抑え将斗は作り笑いで返す。

 今、目の前にいる綺麗な御人が、たった一言で精神異常者へジョブチェンジを果たしたのだ。

 初対面で自分のことを神と名乗る奴がまともなわけが無い。

 すぐに逃げ出したい。

 だがこの白い空間のどこに出口があるのか。それは急に現れた彼女しか知り得ないことは明白で、下手に動けなかった。


――なんだこの女。すんごく怖ぇ。めっちゃ帰りたい。今日び神名乗るやつとかどこの異世界転生だよ。


 異世界転生モノは急に主人公が神様の前に召喚されてしまう展開が腐るほどある。腐るほどだ。

 将斗は何回か自分がその主人公になる妄想をしたことがある。

 もしかしたら自分も腐るほどの中の一人に大抜擢されたんじゃなかろうか……などとふざけたことを考えていると、「すみません」と、自称神が口を開いた。


「時間もないので、単刀直入に申し上げさせていただきます」

「あっ、はい」

「これからあなたには別世界へ行って私の願いを叶えてきてもらいます」

「異世界転生じゃねぇか!」


 この流れはもう異世界転生しかない。

 もしくは異世界転移。


――きたきたきたきた。超やばい。え、俺? 俺が転生しちゃうのか?


 将斗は急激に胸を高鳴らせる。なにせ彼はレポートほったらかしにネット小説――の中でも異世界転生を読み漁るほどの異世界転生マニア。

 興奮しないわけがない。


――待て待て待て落ち着け、まだ早まるな。まだ慌てるような時間じゃない。異世界転生なんてあるわけない……でも話だけ聞いとくか。うん、話だけ聞こう。悪い話じゃないし。どうせ出られないだろうし。


「ちなみに、あなたはさきほど死にました」

「え……」


 神様は実に淡々とした口調で大事なことを告げてきた。


「死……、え……と、スマホが落ちてきたとこまでは覚えてますけど……」

「はい、そのスマホが運悪く頭へ当たって、ポックリと……」

「ポッ……」


 将斗は理解できず、脳内で宇宙が広がり始める。


「俺のスマホで? スマホで死んだの俺? 落ちてきただけで? スマホ死?」

「そうですね。私の力で殺傷力を引き上げました」

「殺傷……ガチですか?」

「ガチです」


 将斗は何とも言い難い気持ちになった。

 信じて送り出した男がスマホ程度で死んだなどと聞いたら、親族たちがどう思うのか。恥ずかしくもあり、申し訳なさもある。

 ただその情報はまだ不確定のものだ。


 仮に死んでいるとしても、今ここにいる自分はなんなのか。

 彼女の話すことは証拠がないから信憑性に欠ける。異世界転生であるなら両手をあげて喜びたいところだが、スマホで死んだと言われるとどうも乗り切れない。

 しかしながら、興奮から早打つ自分の心臓の鼓動はずっと聞こえている。


「もしかして怒っていらっしゃったり……?」

「い、いえ全然。むしろちょっと嬉しいくらいです」


 本当なら、の話だ。


「ですよね! そう言ってくれる人をわざわざ選んだんですから」


 将斗の答えを聞くなり、彼女は嬉しそうな顔をした。


 なんとなく、夢では?と思って頬を抓る。ちゃんと痛みがあった。現実だということは確かだ。

 まだ信じ切れてはいないが、もし本当なら、自分は今から神様の願いを叶えることになるのだろう。


――願いって何だろ……?


 異世界転生すると仮定するなら、世界を救え。魔王を倒せなどなど、目的は多岐に渡る。だから何を言われてもおかしくはない。

 願いを叶えるような超能力は当然ないから、基本的に肉体労働を強いられるはずだ。


――なんなら主人公最強系の転生であってくれよ……やるなら俺つえーをやりたいんだよ俺は


 将斗は今まで読んだあらゆる異世界転生モノを思い出し、その主人公たちと自分を重ね始める。

 例えば――

 強すぎる能力で周りを圧倒する自分。

 最難関ダンジョンに落とされるも這い上がってダークヒーローとして名を馳せる自分。

 陰ながら世界を守る自分。

 そんな色々な自分を想像した。

 

――もし世界最強とかになったらどうすっかな。俺なんかやっちゃいました? 的なやつやりてぇ〜。とりあえずパパッと世界救って、ど田舎の農場とかでハーレムでも作ってゆっくりするのとかいいかも……いや待て、女の子と話せるのか俺……?


 期待にどんどん胸を膨らませる。


――もし本当だったら、めっちゃ良いな……


「将斗さん、あなたには――」


 神様の何かを告げようとする雰囲気に、将斗は息を飲む。


――大体予想できる。異世界小説を片っ端から読破してる俺に抜け目はない。さあ来い。 


「――転生者からスキルを回収してきてもらいます」

「……はい?」

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