天上の銀の卵、雪

多々良

第1話 天上へ

 空は、暗い金属で閉ざされていた。


 時間を知る方法はない。

 永遠に暗い。

 動かない満月がうっすらと輝く、その方向が東だと定められていた。

 金属の空の下に、人間がぎっしりと詰め込まれた、生ぬるく蠢く都市がある。


 都市には、何本も天に届きそうなビルディングがあった。

 時折、ビルのてっぺんで、ぼわりとキノコのようなスモークが上がる。中で宴が行われているのだ。スモークは、化学薬品でピンクや水色にちらちらと光る。

 地上では、その間もドウドウと喧噪が続いている。

 首都高速は、今夜もぎっしりと渋滞していた。ヘッドランプとテールランプが、分裂する蛇の形に、都市の果てまでうねうねと続いている。

 地上と、ビルのてっぺんとの間には、距離がある。

 地上と、その下の地表との間にも、距離があった。

 地“上”と、地“表”は、違う階層である。地上は、働く階層。地表はその下にある、住んだり食べたり休んだりする階層である。

 二つの階層を結ぶエスカレーターは、首都高速以上にいつも、首都高速以上にぎゅうぎゅうに、渋滞していた。

 一日の三分の一ほどを、移動に費やすさなくてはならない人々もいた。けれども、分けたほうが効率的であろう、ということになっていた。

 地上に住むのは、一部の富裕層だけだった。それ以外の労働層は地表に住んだ。

 閉ざされた空は、地表と地上の、さらに上にある。

 東にかかった、永遠に動かない満月のその上に、“天上”と呼ばれる空間があった。

 満月と地表とのあいだには、ケーブルが通されており、そのケーブルには昇降用のリフトがかかっていた。

 今日は、季節を知らせるイベントとして、雪が降る日だ。リフトに乗って、天上へ向かう人々がいる。

 下降するリフトには、誰も乗っていない。






 男は、心もとない気分で、リフトに揺られていた。

 天上と呼ばれる空間のことは、労働層なら誰もが知っており、そこに行くためにリフトに乗らなくてはならないことも知っていた。

 だが、いざ乗ってみると、心もとないものだった。

 生まれて初めて“風”らしきものを感じている。この街での風といえば、唸りをあげる大小の機械が生み出す排気だけだ。

 大きな空気の流れは感じたことがない、今以外は。

 身体にあたる生ぬるい空気が、ずんずん自分の後ろへ、後ろへと流されていく。吐いたばかりの息も、すぐに後ろへ流されてしまい、体の周囲にはうっすらと冷たい、逆らえない空気の動きばかりがあった。

 男はとても驚いていた。

 心底ふるえていた。

 風を感じたのも初めてならば、こんな小さな乗り物で宙に浮いたことも初めてで、こんな高さに身を置いたのも初めてだった。

 男は、係員の言いつけを破って、そろそろと視線を下ろしてみた。

 くたびれた革靴の遥か下を、窓が、看板が通り過ぎ、オフィスビルの窓とも壁ともつかない鏡のような壁面が、するするとすぐ傍まで近づいては遠ざかっていく。

 高度があがる度に、視界が開けた。

 ほとんどの建物が足の下に来てしまうと、眼下は光の海と見えた。

 首都高速の曲線、地表へ続くエスカレーターの出入り口の赤ランプ、地上と地表の境界に格子上に広がる鉄骨、その隙間から満点に輝く白や黄色の光が見える。

 工事現場らしき青い回転灯。

 巨大な獣のようにそびえたつオフィスビル。

 鱗のように、その表面をびっしりと覆う窓。

 遥か地平線の彼方まで、暗色に閉ざされた空を、遠く近くに支柱が支えている。

 鉄道の低く重い唸り、ぐんぐんと遠くなる車のサイレン、クラクション。

 男は、声もなく見入った。

 リフトに乗った誰もが、これを見てきたのだと思った。

 ひたすらに、圧倒される。ひたすらに美しい。

 どうして見てはいけないのだろうと、痺れる頭で男は考えた。やがて浮かんできた答えは、帰れないからだろう、というものだった。

 暮らしてきた都市がある。

 帰れない。

 リフトは上昇していく。

 厚く、暗灰色に塗られた一面の空。

 薄い金色に輝く満月に向かって、リフトは上昇していった。

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