第3話 姉の声
「世界規模で広がっているカラスの襲撃に、各国では対策に頭を悩ませています」
室内のテレビには黒煙の上がっている家から血まみれでぐったりしている白人男性を抱える救助隊員が映り、次いで右上にイギリスBBCとテロップされたスタジオが映し出され女性キャスターが英語で喋り始めた。
字幕を読んでわかったのは多数のカラスの襲撃によりイギリスではもう二百人以上が死んでいる、ということだった。
同じように報道している中国の中央テレビやアメリカのCNNも映され、カラスによる世界的被害を報じていた。
それを側らのイスに座り、一緒に見ていた琴音さんが鼻を鳴らしてこう言った。
「十日間意識が戻らなかったあんたは知らないだろうけど、この一週間日本でもカラスに襲われて死ぬ人間がどんどん増えているんだ。口ばしで首を貫かれて死んだり、集団で突かれて穴だらけになって死んだりね。今じゃみんなカラスを見ただけで逃げ出す始末さ。そんなのにあんたの母親、付き添いをあたしに押し付けて京都旅行だってさ。昔から気に入らないババアだったけどここまでバカとはね」
言い終えて、悪口相手の娘の前であらいけない、といった風に舌を出して笑ったので顔がほころんでしまった。
本っ当にそうだよね! という強い思いを押し殺しながら。
飛び下りで出来た怪我は多数の打撲に両足首骨折、右大腿部の複雑骨折、肋骨四本の骨折など計二ヶ月の入院生活と教えられた。
そしてこの一週間、病室に顔を見せたのは事情聴取に来た警察と義父の賢三で、尚美に遼は一度も顔を見せなかった。
琴音さんは毎日お昼近くになると病室へ顔を見せた。
そのうちマルセイユというスナックで働いているということがわかった。
お客さんの要望でアニメのコスプレもするという。
「全然マルセイユじゃないよね、っていうかビッグサイト?」
眉間にシワをよせる琴音さんに笑い声をあげたが、怪我の傷に響いたので苦痛の声に変わってしまった。
慌てて謝る琴音さんに思い切って姉のことを尋ねたが、やんわり話をそらされてしまった。
入院三週目、ようやく起こせるようになった上半身をクッションに預け、差し入れで読んだ漫画の感想を琴音さんに話していた時だった。
「悠、あんたあの家で何かされた?」
唐突に琴音さんが尋ねてきた。
突然のことに戸惑い、押し黙るが「家の話題って一回もしてないよね、その話題になりそうになると顔色変わるし。まあ、あの性悪女が義理の母親じゃ大体のこと想像できるけどさ」と言い、琴音さんがおどけた顔を近づけた。
ぽつりぽつりと私は話し出した。
女王が尚美、サッカー王子は遼、この両名による奴隷制度のことを。
風邪をこじらせても薬のひとつも与えられなかったこと、姉が稼いだバイト料を奪われたこと、そして遼にレイプされそうになったことを。
最後の方は涙を流し、しゃくりあげながら話した。
それを琴音さんはゆっくり頷きながら真剣な眼差しで聞いた。
「このこと、誰にも話さないでください」
琴音さんから受け取ったティッシュで涙を拭きながら言うと「話しゃしないよ、じゃあまた明日来るわ」にっこりと琴音さんは笑い、額に当てた人差し指と中指を悠に向けた後、部屋を出て行った。
飛び下りから一ヶ月と二十八日は退院した。
両手の松葉杖を使いながら迎えに来た琴音さんの車に乗り込む。
行き先は琴音さんの住むマンションだ。
ラジオからはカラスの襲撃による死者が全世界で十万人を超えたと報じているが耳には届いてなかった。
姉の死を琴音さんから知らされたのは一週間前だった。
私をかばうよう抱きしめて背中から落下した姉は即死だったという。
そのおかげで私は奇跡的に頭部や内臓の主だった箇所に怪我無く助かったのだ、という医者の言葉も添えて伝えられた。
「生きなくちゃね」
琴音さんがさらりと言った。
重い響きがこもったその言葉。
それが底なし沼に首まで沈んだ私が掴んだ木の枝であった。
琴音さんの住んでいる三LDKは十階建てマンションの三階にあり、中に入ると自分の部屋に通された。
日当たりのいい六畳のロフトでクローゼットもあり、既にベッドまで置かれていた。
大した荷物もなかった為あっさりと引越しは終わり、私はベッドの上に寝転がった。
夕方になり琴音さんはシチューとパンを用意して出勤したので、三LDKには私だけ。
退屈なときは退屈で、忙しいときは忙しい病院生活から開放され、安堵の溜息を吐き出すと、尚美と遼の顔が浮かびあがってきた。
思い出したくも無いあの連中、姉と私を追い込んだあの連中は今もぬくぬくと暮らしているのだろう。
思考停止状態から抜け出た今、自分でも驚くほどドス黒い怒りがこみ上げてきた。
そこへ、もう関係ない、というもう一人の自分の声がした途端、姉の顔が浮かんできた。
今この安住の地へ来れたのも姉のおかげなのだと思うと、悔しさと悲しみの底なし沼へまた沈み始めた。
それに目を閉じて歯を食いしばる。
ここで沈んでしまったら、二度と這い上がれないだろう。
生きなくちゃね、という枝を両手でしっかり掴み、腕に力を込めた。
もう姉におんぶで抱っこな生活は戻って来ないのだ。
そのとき、不意に自分の名を姉に呼ばれた気がした。
体を起こすと、ベッド脇のガラス戸に目をやった。
その方角から聞こえたような気がしたので、松葉杖を手に取って起き上がるとガラス越に外を眺めた。
ベランダから十メートル離れて電線が見え、そこにカラスが一羽止まっていた。
カラスは身動ぎせず、じっとこちらを見ている。
私はそのカラスに違和感を覚えた。
小学生の時分、家でインコを飼い、学校ではウズラの世話をしていたが鳥というのは寝ているとき以外、落ち着き無く辺りを見回したり、毛づくろいをしたりとなにかしら動いているもの。
だがそのカラスは置物のように動かず電線に止まったままで、しかもその目は明らかに自分を見ているのがわかった。
そのとき頭の中で姉の笑い声が聞こえた気がした。
幻聴? そう思いながら首を左右に振る。
そこで雑音のようなカラスの鳴き声とは違う、澄んだ甲高い鳴き声が聞こえてきた。
驚いて外に目をやると、カラスが翼を広げてこちらに飛んできた。
そして数メートル手前でくるりと左に旋回、視界から消えた。
言いようのない恐怖を覚えた私は布団の中に潜り込んだ。
まだ薄暗い明け方、マンションの扉がガチャリと開く音で目が覚めた。
鍵を閉める音、そして危なっかしい足取りで歩く足音が廊下からリビングへ移ると「うぁ~」という声と共にソファーへ座り込む音。
松葉杖をつきながらリビングを覗くと、ソファーでだらしなく両足を広げた琴音さんが眠りこけていた。
石油ファンヒーターのスイッチを入れ、自分のソファーの上にあるタオルケットを手に取り、タバコの臭いに顔をしかめながらいびきをかいている琴音さんの上に掛けた。
そして再びベッドへ戻ると電線のカラスを思い出した。
カラスは死んだ魂を連れてくる、という話を漫画雑誌のオカルトコーナーで読んだことがある。
自分を呼ぶ声や笑い声、あのカラスが姉の魂を連れてきたから聞こえたのか?
バカげている、自分はまだ姉の死を受け入れられていない。
だからそんな幻聴が聞こえるのだ。
布団の中に顔を潜り込ませた。
だが、もしあの声が幻聴ではなかったら、頭の中で勝手に聞こえているのであれば――私は精神がおかしくなってきているのかもしれない。
布団越しに郵便配達のバイク音とカラスの鳴き声がくぐもって聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます