第25話 互いの茫漠



 ―――優里はその後も、初めて美弥の部屋に来た時と同様に、いつも自分の美貌をできる限り隠すような装いをしてきた。


 美弥はそれを、ある種可愛らしくもおかしくも思ってきたが、いつしか笑えなくなった……。

 これは、美しすぎるが故に受けてきた謂れなき排除や攻撃を避けるために選んだ、哀しい習性なのではないか……そう思った。



 女の嫉妬は年齢を問わない。物心ついたばかりの幼い子ですら、自分では嫉妬と知らないままに嫉妬が滲み出た行動をする。長ずるにつけその表現は、どんどん巧妙になり、時に陰湿に、時にあからさまに、時には激情を伴うものになる。

 そして――その情動は死ぬまで続く。



 四六時中一緒にいるわけではないから断定はできないが、優里があの隠そうとしても隠せないほどの美貌を、そして均整の取れた蠱惑的ともいえる肢体を、思うままに開放するのは撮影の時だけなのではないか―――。


 その美貌ゆえに優里は、良くも悪くも周りから排除され続けたのかもしれない――。

 なぜか確信めいて、そう思うようになった――。





 ―――優里が美弥の部屋に来るようになって、半年ほどが経ったある日のことだ。


 いつものように遊びにきていた優里に、美弥は不意にあの出会いの時の話をしたくなり、スタジオで話しかけてもらったのが本当にうれしかった――と伝えた。

 

 すると優里は、どこか照れくさそうに「なんかね、本を読んでる美弥ちゃんの姿を見た時に、直感的に私と同じ世界にいる人だって気がしたの」と言った。



 美弥と同じ世界―――自ら出来る限り感情を遮断した茫漠たる世界、この乾いた味気ない世界に優里もいる……。

 スタジオで初めて話した時に、美弥が、優里もまた茫漠の世界の住人ではないかと感じたのは間違いではなかった。そして優里もまた、美弥の中の茫漠を見て取っていた。

 

 

 また優里の過去の苦悩が垣間見える―――。



「優さんは、今日も『春の嵐』持ってるんでしょ?」美弥がそういうと「もちろん」と優里は、バッグからヘッセの『春の嵐』を取り出し手にとった。


「もうボロボロだね……。勝手にページが開いちゃう。このページの文章が特に好きなの」と言いながら、美弥に開いたページを見せた。

 幾度となく繰り返して開いたのであろうそのページの数行には、鉛筆で何重にも傍線が引かれていた。



 

 ―――いったいどこが悪いんです?

 ―――どこもかしこもです。私は生きることも死ぬこともできません。すべてが誤りで愚劣です。



 その文章が目に入ったとき、美弥は言葉を失った――。

 それから絞り出すように「……わかる、すごく、わかる……」とつぶやいた。


 すると優里は「……そっかあ、やっぱ美弥ちゃんにも響いちゃうかあ」と、好きなものを共有できる悦びと共に、この文章が響くことに困りもしたような顔を見せた。


 美弥は、「でも優さんみたいな綺麗で賢い人が、全てが誤りで愚劣なんて……」そう言うと、優里は少し目を伏せ、一瞬過去の記憶を辿るような表情を見せたが、すぐにそれを押し隠すようにして言った。


「私は……私を私として受け入れてくれる場所がずっと見つからなかったから……」、そう言った。


 

 その言葉には色々なものが含まれていただろう――。


 

 

 しかし、優里はそれ以上は語らなかった――。

 美弥も聞かなかった。聞けなかった。優里のようには、うまく話せない。聞くこともできない。

 

 優里の過去は何も知らない。なにがあって、どんな生き方をしてAVにたどり着いたのか――。ほとんどの女性が関わることのない、この世間から奇異に見られさえする職に――。


 

 どんな理由であれ、彼女が美弥と同じ茫漠の世界の住人ならば、そこに辿りつくまでに、のた打ち回るような苦悩があったはずだ。その果てに、ようやく辿りついた世界だ。そこに軽々しく立ち入ってはならない。彼女が決して美弥の茫漠の世界に安易に立ち入ってこないように――。


 仮に聞いたところで、ようやく自分の茫漠と折り合いをつけ、浮き草のように頼りなく世間を漂っているだけの自分に何ができようか――。美弥はそう思った。



 ―――気がつけば、二人して黙り込んでいた。

 束の間、二人は互いにそれぞれの茫漠の世界に入りこんでいたのかもしれない――。

 沈黙の密度が深まっていく――。


 ――その沈黙を破ったのは優里だった。


「あっ美弥ちゃん、ごめん……。明日の台本覚えるのすっかり忘れてた……。帰って覚えなきゃ……」


 どこか唐突とした印象を受けたが、駅まで送るという美弥に、「今日はタクシーで帰るから大丈夫」と微笑み、やんわりといった。

 

 その微笑みの中、美弥を一瞬見つめた瞳が、どこか思わしげだったのを後になって思い出す――。



 それが優里を見た最期だった―――。




 優里は自ら命を絶った―――。





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