第11話 生贄の選別
鬱々とする日々が続く―――働いて寝るだけの疲れ果ててしまう人生から抜け出せたと思えば、違う形の疲れ果てるだけの人生が待っていた―――。
――倉重が美弥を妻に選んだ理由が、今は明確にわかる。
日々の生活で、自分の意にそぐわない事は、たとえ些細なことでも倉重の精神の均衡を乱す。それを正さなければならない。不満や怒り、苛立ち、そういった精神の汚物を誰かにそっくりそのままなすりつけることで、自分の精神バランスを平衡に戻す。
さらにそこから、自分に関わる全ての人間を愚痴とともに貶めることで、自分が高みにいるような気になる。
その倉重の
美弥に身寄りがなかったのは、倉重にとって好都合だったのだろう。頼るところも帰るところもない。邪険に扱ったところで、怒鳴り込んでくることもない。逃げ場のない生贄として、とことんまでしゃぶり尽くせる――。
身寄りがないと告げたときのあの驚きの表情は、望外の悦びを隠すためだったのかもしれない――今になって美弥は思う。
いつも疲れた雰囲気を漂わせ、どこか無機質に黙々と働く見るからに冴えない幸薄そうな女。
声をかけ、話を聞いてみれば、見たまんま不遇の輪の中を延々と回り続ける日常を送り、自己主張も無いに等しい。
まるで沈みかけのボートで大海を孤独にあてどなく漂っているようだ。押して押し捲り、うまく糸を垂らせば縋りつく――。縋りついたなら、じっくりと生贄として役立たせよう。倉重が考えたのは、そんなところか―――。
あの男にとって大事なのは、自分がどうあるか、自分が世間からどう見られるかということだけだ。有名大卒のエリートサラリーマン、一度は結婚に失敗したが、年若い善良そうな妻と幸せに健全に暮らす男。倉重が求めたのは、その体裁だ。美弥に対してだけではなく、すべての対人関係はそのためだけにある。そこに人の情や思いやりといったものは存在しない。
前の奥さんのことはよくは知らない。性格の不一致で別れたとだけ聞いていた。倉重と性格が合う女がいるなら、一度見てみたいと美弥は思う。
結婚して2年経った今では、倉重は美弥のその全てを否定するようになった。
ニュースで若い女性の自殺や非正規職の雇い止めによる大量失業などが報道されるたび、「おまえも俺が結婚してやらなかったら、こんなことになってたんだぞ」と得意気に言う。なぜこの日本で自殺や大量失業が相次ぐのかということは考えず、弱者の悲哀も絶望も汲み取らず、ただ蔑んでいるのが伝わってくる。どこまでも絶望的に想像力が欠如しているのだろう。
口を開くのも物憂く、美弥は少女の頃からのように感情を遮断し、茫漠とした世界に入り込んでいく―――。
だが、茫漠とした中に、思う――。
話さないままに結婚したことに良心が咎められ苦しんだ事もあったが、やはり正解だった。こんな男に伝える必要などなかった。
14歳で強姦された痛みも、あの事も―――と。
それと同時に、慣れ親しんできたはずの茫漠の只中で、なにか違和感のようなものが混じっているのを今日も感じた。最近はいつもそうだ。
それは―――遮断しきれない静かで強い怒りの感情だった―――。
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