第2章

第7話 渦巻く不安



 式もあげず、誰かにあいさつするわけでもなく、ただ婚姻届を出し、倉重との暮らしが始まった――。


 ――結婚当初、倉重はまるで結婚のお披露目をするかのように美弥をなじみの飲食店やスーパーなど生活圏のいたるところに連れまわった。部下たちを食事に呼んだこともあった。

 

 たとえば新婚の男が美人の新妻を人に見せたいというのは、美弥にもわかる。でも、見るからに凡庸で次に会っても忘れられているような顔の自分が連れ回されるのは気恥ずかしかった。引き合わされたほうも、おざなりの褒め言葉を探すのに苦心するというものだろう。

 


 そして、倉重は夜は毎日のように美弥の体を求めた。


 

 朝――倉重より早く起き、化学調味料を使わずに削り節やにぼしでダシをとった味噌汁に焼き魚や玉子焼きを用意した。

 薄い食パンとコーヒーだけが朝食だった美弥にとって、それだけで贅沢な食事だった。


 倉重を送り出してから、リビングと3部屋をそれぞれ念入りに掃除する。

 それから夕食の献立を考えて買い物に出かけ、少しでも喜んでもらえるように工夫して料理を作った。

 

 経験したのことのない穏やかな日々だった。それまでの自分の生活とあまりにもかけ離れていて、うまく実感として捉えられないほどに――。

 

 こんな穏やかな暮らしがずっとできるのかな……、リビングでひとり、美弥はつぶやいた。

 




 長く不遇にいた人間は、打って変わった恵まれた環境を手にしても、まず感じるのは幸福ではなく不安やとまどいだ。自分がこんな幸福を手にしてよいのか、その資格はあるのか、そしてこの幸福は続くのか……そんなふうに考えてしまう。



 何かが起こり、いつかまた、あの慣れ親しんだ不遇に舞い戻ってしまうんじゃないか―――。

 根強い不安がまるで自己の存在を主張するかの如く、美弥の胸の中に居座っていた。



 そして、それはやはり訪れた―――。




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