青春と幻想のストラトポーズ

失木各人

00/Preface:"中学期の終わり"

00/Sub:"ファーストフライト"

 初めて飛んだ日のことは、今でも鮮明に覚えている。

 母親に連れられて行った、まだ白い化粧をかぶった山が見下ろす、広い野外の。同じように初めて空を目指す、様々な種族の子供がいて、うまく飛び立つ子や上手く離陸できずに柔らかい土に頭をうずめて泣いている子がいた。

 母に手を引かれて助走路の端で順番待ちの列を並ぶ。周りが羽毛に覆われた翼を広げる中、自分の翼はなぜ鱗で覆われた硬質なものなのだろうか、と、疑問に思っていたのを覚えている。

 飛び立つもの、失敗するもの、そうやって列が縮んでいって、ようやく自分の出番。助走路の端に立ち、走り出す方向を見る。飛び方は母親に教わった。記憶は今や朧気だが、身体は覚えていた。

 助走路の端に立った監視員がホイッスルを吹いた。青空に笛の音が吸い込まれていく。

 離陸を許可するクリアフォーテイクオフ

 クラウチングスタートの姿勢をとる。翼を大きく広げ、力を流し込む。母は手出しせず、静かに右脇で同じように走り出す姿勢をとっていた。

 地面を蹴って駆け出した。どんどん向かい風が強くなり、翼が大気を受け止める。風を翼が受け止め、翼に揚力という魔法が宿っていく。隣を並走しているはずの母親のことも忘れて、無我夢中で大地を蹴って加速した。はじめははっきり見えていた周囲の景色は後ろに流れてブラシをかけたようにかすれた。離陸決心速度。越えられない線を越え、地上から空へとその身を投げ出した。

 大きく風を受けた翼をはためかせ、重力の鎖をほどいた。蹴っていた地面の感触は空気のように消え、視界が空で埋まっていく。尾でバランスを取りながら足をそろえ、空気を切り裂く一本の剣と化した。翼に込める力を増し、ぐんぐんと加速していく。右前を飛ぶ母親との位置を確認しながら置いて行かれないように、そして追い抜かさないように速度と高度を増していく。

 大丈夫ですか? 母が聞いてくるのに対し、頷いて答えた。上昇と加速を維持しながら右に旋回。母の翼の先端が雲の糸を引いた。自分は出ているのだろうか、確かめたかったが自分の翼を見る余裕などなかった。

 一八〇度旋回。上昇をさらに続ける。空の色が変わっていく、スカイブルーから、暗く、どんどん本来の色を取り戻して――




 ――対地接近警報GPWSが叫んだ。引き起こせプルアップ引き起こせプルアップ引き起こせプルアップ。目の前に迫る壁。急旋回。速度を殺さずに空気を切り裂く。自分の翼が見えない壁を滑るように大気を受け止めた。翼にかかる負荷、翼膜で鉄塊を受け止めたような感触。二〇Gを超えた。オーバーG、オーバーG、頭につけたヘッドセットが鳴らすシステムの警告を無視して、速度を維持したまま谷を縫うように高G旋回を繰り返す。翼が旋回のたびに、何度も白い減圧雲のベールを纏った。

 谷の先はカール地形、そして尾根。速度を維持したままピッチアップ。全身にかかるGを感じながら上昇。カールの谷筋の真ん中を貫くように、遷音速で飛びぬけた。尾根と入れ替わりで現れるのは、空。地平線近くはスカイブルー、頭上は飲み込むようなダークブルー。明暗のグラデーションは境目なく、雲をまばらに散らしながら全天を覆っていた。

 ピッチアップを続けていく。高度と速度が入れ替わっていく。足元に見えていた地面が頭上に、頭上に見えていた空が足元に。左に一八〇度ロールして再び天地が入れ替わる。インメルマンターン。先程まで飛びぬけていた山は今や眼下に模型のように広がっていた。

 右に九〇度近くロール。そのままピッチアップし、右に旋回する。すぐに左に一八〇度ロール、再びピッチアップ。一人でシザーズ機動を繰り返しながら、空に波模様を描いていく。七回ほど繰り返して、そこで大きく右に一八〇度以上ロールした。地平線は斜めに。右上は大地、左下は空。降下しながらピッチアップ。速度が増す。視界が大地で覆われ、再び空が視界の上から降りてくる。スライスバック。水平に戻るが、身体は右に斜めにロールしたままに。

 翼に霊力を籠める。弾かれる様に速度が増す。肌を撫でる大気の感触が変わっていった。スーパーソニック。超音速を維持したままロール角を垂直に静かに近づけ、緩やかに旋回、加速しながら旋回円の直径を増していく。大きな渦を巻くように、三六〇度旋回。旋回が終わると逆方向にロールし、今度は左に旋回して再び大きな渦を描くように旋回する。

 再びした三六〇度旋回が終わると、速度はマッハ四を超えた。水平になり、ひたすら加速し、緩やかにピッチアップ。高度と速度が上がっていく。マッハ四・五、マッハ五、マッハ五・五。高度三万フィート、三万一千フィート、三万二千フィート。

 翼を一気にすぼめる。推力を急激に増し、急激にピッチアップ。速度を若干失うが、一気に空を向く。ズーム上昇。速度を維持したまま高度が跳ね上がっていく。空がどんどん暗くなる。ダークブルーの青色が抜けていく。高度四万フィート、四万二千フィート、四万三千フィート――。

 あと少し。

 唐突にその時は訪れた。視界が真っ暗になる。真っ暗な空間にユーリはぽつりと浮かんでいた。先程まで感じていた肌を切り裂く大気の質感はもうない。目の前には、無機質なメッセージウィンドウ。

『プレイエリア外です』

 その文字を忌々し気に眺め、ユーリは空中に浮かんだ『リセット』のボタンを押した。現れたのは、無機質なペイントの施された、コンクリートの滑走路。人影はなく、ユーリが一人ぽつんと、滑走路の端に描かれた『35』『L』の間に立っていた。

 ユーリはウィンドウを開く。『ゲームを終了しますか?』の表示に迷いなく『はい』を押した。

 朧気で、まるで夢を見ているようだった感覚が戻ってくる。画面の表示が電子の質感を得てくる。頭の後ろに、敷いたクッションの感触がよみがえってきた。感覚が戻ってきた手を動かして、顔に張り付いたそれを取った。明るい視界が戻ってきた。木目の天井。ぶら下がるLEDの電燈。見慣れた自室の天井だった。

 上半身を起こすと、一瞬くらりとめまいがした。ぐっすり眠っていたところを無理矢理起こされたような感覚で、どうにも気分が悪い。不機嫌なまま顔に張り付いていたものを見やる。黒い、質感のないゴーグル。外を見るためのレンズが埋まっているべき場所はなく、代わりに光を吸い込むような黒い板が嵌っていて、表面には呪符に書いてあるような文字と電子回路を足して二で割ったような模様が彫られていて、うっすらと青く輝いていた。

 幻術と最新科学を用いたフルダイブVRって言っても、なぁ……。

 先程の肌を撫でる風の感触も、どこか違和感があったように感じる。加えて先程のプレイエリア限界。ユーリにとってはその先なのに、肝心なものがないのはどうにももどかしかった。

 オープンワールド形式のVRゲームの、オープンベータテスト。ゲームに興味はなかったが、現実の種族を反映できて、なおかつ自由に空が飛べるという謳い文句に引かれ、ダウンロードしてみたが結果はこの通りだった。

 現実の空は混んでいる。鳥、飛行機、ドローン、様々な飛行種族。いろんな飛行制限空域があり、空には見えない境界線がある。衛星ネットとリンクした電子端末の接近警報に従っていてもVRでやったような、盛大に空域を占有するような超音速飛行に機動は、現実ではやったら免停モノだろう。

 だけども。ユーリはゴーグルを眺める。光は消えていた。

 多分ゲームもやらないだろうな。ユーリはVRゴーグルのスイッチを切った。

 小さくため息をつく。鼻腔を畳の匂いがくすぐった。

 ノック音。呆けていたユーリはびくりと反射的に肩を小さく震わせる。純粋にびっくりした。


「はい、なに?」

「ユーリ、いいですか?」


 母親の声がドアの外から響く。


「いいよ。大丈夫」


 彼は立ち上がると、部屋の戸を開けた。戸の外には彼の母親が立っていた。ユーリと同じ、彼女の銀色の髪は流れるように腰まで伸びていた。


「ユーリ、大事なお話があります。私の部屋まで来てください」


 ユーリはわずかに目を丸くすると、頷いた。


「わかったよ」

「では、ついてきてください」


 そういって、彼女の後をついていこうとして、ふと違和を覚えた。

 何かが足りないような、どうしようもない違和感。

 どこか不安げに部屋を見渡して、机の上に置いてある電子航空免許の端末が目に入る。別に忘れていたわけではないが、どうしようもなくそれが気になった。空を飛ぶときには必須で免許不携帯にもなるものだが、飛ばなければ無用の長物だ。

 机まで歩いていき、端末を手に取る。バッテリー残量は十分。腕に巻くためのベルトもそのままだった。何となく、それを左腕の二の腕に巻いた。きっちりと締め、動かないように固定する。

 違和感は、それで消えた。

 何だったのだろうか。ユーリは疑問に思う。別に今すぐ必要な訳ではない。


「ユーリ? どうしたのですか?」


 部屋の外から彼の母親の声がし、振り向くと、彼の母親が部屋を覗き込んでいた。


「いや、何でもないよ」


 そういって、ユーリは彼女について部屋を後にした。

 彼の家である日本家屋の屋敷を歩く。木張りの廊下は踏むたびに体重で小さくきしんで音を立てた。ユーリの母親の部屋は、すぐそこだった。彼女が部屋の戸を開け、中に入る。ユーリも、何も考えずに後に続いた。

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