世界平和を愛する男
福田 吹太朗
世界平和を愛する男
「・・・愛・・・で・・・救いたい・・・」
それが彼が最後に残した言葉だった。
いかにも彼らしい言葉だった。彼、イサオ・キクチは、正に、愛、に生き、愛、を愛した男であったと言っても言い過ぎではないだろう。
ここで言う、愛、とは性愛とか恋愛とか家族愛とか兄弟愛とか、そういったものよりはもっと大きく、限りなく、大袈裟に例えることをお許し頂けるならば、世界中にあまねく広まっているような、そんな、愛、なのである。
彼の墓碑にはこう刻まれている。―愛に生きた男 イサオ・キクチ ここに眠る—
彼はそのたった二本の腕で、数多くの命を救ってきた。
彼は優秀な外科医であり、内科医であり、そして眼科医でもあった。
彼が没した地は、故郷から遥か遠く離れた、ヤフリカ大陸である。この、開発は遅れ現代文明からは取り残され、やれITやらAIなどとは無縁の地で、彼はNPOである「国境の壁なき医療団」の一員として数多くの患者、特に幼い子供が多かった、の治療にあたってきたのであった。
この地ではまともな病院どころか、医療設備、器具、薬はおろか食料や水でさえも、そしてあの厄介な、しかしながら人びとが最後にはどうしても頼らざるを得ない、金、すらも当然のごとく、この地に人類が誕生してから有史以来まるで存在して来なかったかのように、あるいは砂漠の中のオアシスのごとく、ある時フッと湧いては出るが、ほんのひと時で消え去ってしまうような存在だったのである。唯一余っているものといえば・・・武器と弾薬ぐらいなのであった。
そんな中で彼ら医療団、そしてイサオ・キクチは人びとの命を救おうと、健康状態を先進国並みに保とうと必死に奮闘していたのであるが・・・。
そういう環境、歴史、風土だからか人びとは、特に大人たちは、特に男たちは皆一様にピリピリとしていて、皆さんも海外のニュース等で多少なりとはお耳にしたことがあるだろうが、ここでは常に紛争、さらには戦争や小競り合いなどはごく日常のことで、人びとの命を救うどころかむしろ、一人の命を助けると二人、いや三人十人と増える一方なのである。
おまけに疫病やら未知のウィルスとやらが蔓延することは割とよくあることで、つい四年前には、エバラ流血熱、などという新種の極めて致死率の高い、極めて危険な、その症状といえば、身体中のあらゆる穴という穴から、特に毛穴の一つ一つに至るまで、一度流血したら止まらないという、想像するだけでもおぞましいものなのだが、しかしながらそれでさえも、彼ら医師たちは、何とか抑え込むことに成功したのである。彼ら自身がそのウィルスに感染してしまう危険を顧みずに、である。もちろんのこと、イサオ・キクチもその医療行為には積極的に携わった。医療設備もまともではないその現場で、殆どが病院などではなく、みすぼらしいテントの中で懸命に治癒にあたったのであった。
その甲斐あってか、一時的とはいえ、エバラ流血熱の流行をを抑え込むことに成功した。しかしながら・・・相手は未知のウィルスである。しかも極めて危険な・・・いつ又流行し始めるかは誰にも分からない。神のみぞ知る、である。いや、神にですら予測がつかなかったかもしれない。それ程の危険な病と常に隣り合わせだったのである。まさに、かつては暗黒大陸などと呼ばれていたことも、あながち的外れな話ではないのかもしれない。人びとはもはやいるともいないともしれない、神、なぞは信じず、近隣の村に必ず一人はいる、呪(まじな)い師を頼る始末である。しかしこれはこの地の風土風習と言ってしまえばそれまでだが、正義感の強い、そして何より、愛、という普遍的なものを信じてやまないイサオ・キクチにしてみれば、全く納得の行かないことであったのである。
彼は未開の村々を地道に歩き廻りながら、人びとに迷信の愚かしさを説いて回った。しかし・・・しかし地元の、この地に生まれ落ちた時から呪い師である、あるいは辺り一帯を掌握する権力者と言ってもいい、実際彼らは人びとの心の隙、特に不安を煽ることで逆にその不安を増大させ、その不安につけ込んでから安心感を与えて人びとを手なづけるという、権力者特有の手段を用いてこの地に確固たる地盤をもうかれこれ恐らく、数世紀以上に渡って築き上げているのであった。
イサオ・キクチはこの人びとの遅れた風習、そして何よりも権力者である呪い師たちの横暴、さらにはこの地に近代的な医療を少しでも早く根付かせるには、西洋式の教育が必要であると、信じて疑わなかった。
しかし・・・その考えは地元の呪い師たちにとっては、自分たちの権力を揺るがしかねない、極めて憂慮すべき事態であったことは言うまでもない。つまり、イサオ・キクチは彼らにとっては目の上のたんこぶ、そして出来うることなら排除してしまいたい存在にさえなってしまったのであった。つまり、イサオ・キクチは、病気や未知のウィルスや、劣悪な環境と同時に、さらにこの地の迷信とも闘わなければならない立場に否が応でも追い込まれてしまったのであった。
しかし・・・イサオ・キクチは決して諦めなかった。彼の辞書には「ネヴァーギブアップ」という言葉しか載っていなかったのかもしれない。彼はあくまでも、愛、の力を信じた。信じ続けようとしたのである。そしてその考えを人びとにも広め、そしてその甲斐あってなのか、人びとの心も、徐々にではあるのだが、まるでキルマンジョラの山頂の真っ白い雪がゆっくりと溶け出していくかのように、愛、があまねく人びとの心を捉え始めていったのであった。
イサオ・キクチはあくまでも、愛、に生きる男なのであった。イサオ・キクチにとってみれば、愛、とは決して色褪せない、いくら時間が経ってみたとしても、朽ち果てない、永遠の真理、と言っても決して過言ではないのであった。それに引き換え・・・呪(まじな)いなどは彼にとってみれば、いくら数世紀以上の伝統があったとしても、所詮はちっぽけな人間の考えが生み出したもの、まがい物でしかなかった。彼は医療や教育や衛生状態だけではなく、人びとの心さえも変えられると信じて疑わなかった。そう、あの事態が起こるまでは・・・。あれはそう、起こるべくして起こった、というか、もはやこういったものは、運命、という有り体な言葉で表現するしか説明のつかない、つまりはイサオ・キクチにとっての運命の歯車は、まるで坂道を転がり落ちるかのように、廻り始めてしまったのであった。もはやそれは、誰にも止めることは出来ない、そう、神にさえそれは無理な所業であったろう。イサオ・キクチは、神にさえ見捨てられてしまったも同然なのであった。
それは7月のとある暑い日のことであった。と言っても、この地に暑くない日など存在はしない。つまりはごくありふれた日、確か火曜か木曜であったか・・・とにかく、その日もいつもと全く同じ調子で彼と医療団の医師たちは、普段と変わらず医療行為にあたっていた。
人びとの様子も一見、いつもと全く変わらないように見える。・・・しかしながら、実のところ、事態は水面下で起こっていた。この近辺の村々で一番古株の、そして一番影響力のある、ンバゴロモ、という年老いた呪い師が、その一週間ほど前に、村々の人びとをこっそりと集めて、こう言い放ったのであった。
「・・・親愛なる人びとよ! 我が民たちよ! 気を付けよ! 今に、近いうちに災いが西洋人たちの上に降りかかる・・・! 今に見るがいい! 西洋人はこの地を支配し、お前たちの心を奪い、奴隷にしようとしている・・・! ・・・西洋人にはいずれ近いうちに災いが降りかかるであろう・・・! 見ているがいい・・・! この、ンバゴロモが間違ったことを言ったことがあったか・・・? 今に見るがいい・・・! この地にあのような西洋式の呪いなど必要ない・・・! 白い服をまとった悪魔どもよ・・・! この地を去るがいい・・・!」
人びとは実のところ、イサオ・キクチのことをかなり信頼し始めていたので、例え偉大なる予言者にして呪い師である長老の言葉を聞いてみても、正直、半信半疑というか、半分は信じるが、半分は怪訝そうな複雑な表情を浮かべて、自分たちの村へとその日は帰って行ったのであった。
しかし、運命の歯車は確実に回り始めていた。しかも、悪い方向、谷底に向かって真っ直ぐと・・・。
・・・そんなことはつゆ知らず、イサオ・キクチはいつもと変わらず、むさ苦しく暑苦しいテントの中で治療にあたっていた。
すると、同僚の一人、パトリックという金髪の若い医師が血相を変えてテントに飛び込んで来た。メスを今まさに手に取ろうとしていたイサオ・キクチは、思わず顔を上げてそちらの方向を見た。
パトリック医師は、大量の汗をかきながらこう言った。明らかに動揺の色が隠せないようだった。
「大変です・・・! キクチさん・・・! また、またあの疫病が、エバラが復活しました・・・! 三キロ先の村で、患者が出たんです・・・!」
イサオ・キクチは思わず小さく唸った。そしてマスクを素早く外し、メスをそのパトリックに渡すと、
「・・・パット、後は頼んだぞ・・・! その村には私が行く・・・! 感染が広まらないうちに、食い止めるのが先決だっ・・・!」
そう言うやいなや、彼はテントを出てオンボロの錆び付いた自転車にまたがると、その村の方向へと猛ダッシュで漕ぎ出して行った。
・・・幸いなことに、その村にはすでに二人の同僚の医師、一人はジェームスというベテランの医師と、サラという、男性医師にも決して引けを取らない、というより、遥かに優秀で勇敢な女性医師の二人が、分厚い防護服のようなものを着て、治療をすでに始めていた。
イサオ・キクチもすでに、地元の助手たちに手伝ってもらいながら、その防護服を着込んで、そうしてオペへと加わったのであった。しかしながら、この時、その三人の地元の助手たちがまさか、ンバゴロモの熱烈な支持者で、その魔術に取り憑かれていることなど、誰も知る由は無かった・・・。
オペのほうはというと、無事終わったのであったが、残念ながらその疫病に侵されたその一人目の患者は苦しみもがきながら命を落としてしまった。何しろ致死率85パーセントという悪魔のようなウィルスである。一番大事なことは、この疫病を他の地域に広めないことである。
その点では三人の優秀な医師は立派にやり遂げた。二三日経っても、四五日経っても、この厄介な疫病の広まる気配はなかった。つまりは最初の一人目で食い止めたのである。これは、今までの経験からすると、極めて上首尾なことであった。
これでこの熱病も、又しばらくは息を潜めてじっと大人しくしているであろう。誰もがそう思っていた。・・・しかしながら・・・。
そのオペから一週間ほど後のことである。再び流血熱が発生したのであった。今度の患者は・・・事もあろうにイサオ・キクチその人なのであった。
オペの時に彼が着た防護服には、ほんの僅かな穴が、何か先の鋭利な物で開けられたような跡があった。もちろんそれをやったのは・・・。
イサオ・キクチは何日も、もがき苦しんでいた。もはやベッドから起き上がることも出来ず、立って歩くことはもちろん、会話をすることもままならない状態だった。
食事ももう殆ど喉を通らず、ほんの僅かの水を口にするのみ。
しかし不幸中の幸いなのか、あのむごたらしい、末期的症状にはまだ、至ってはいなかった。
実のところ、医療団がこの地域に来てから、もうすでに三人の医師が命を落としている。ジャネーブにある本部では、もうそろそろこの辺で、一度引き上げてはどうか?という声も出ていたのは事実ではあった。
イサオ・キクチが病に倒れてから、9日目になろうとしていた。
病室には、完全防護服を着込んだほぼ全員の医師たちが、ベッドの周りに集まっていた。その光景は一種異様だったが、彼、愛に生きる男は、それでも懸命に生きようとしていた。しかし・・・いよいよ最期の時がやって来たようである。さすがにそういう経験は豊富な医師たちなので、それについては皆理解したようである。しかし・・・やはり普通の現地の人びとの時とは違う。一緒に仕事をしてきた、闘ってきた仲間である。皆一様にうなだれ、言葉を発する者も殆どいなかった。
・・・と、その時である。突然テントの外が騒がしくなった。明らかに何かが起きているようである。何人かの医師が慌てて外へと飛び出していった。そしてすぐに一人が慌てふためきながら、テントの中の他の者たちに報告、というより叫び声を上げた。
「・・・大変です! 住民たちが反乱を起こしました・・・!」
防護服の医師たちは、互いに顔を見合わせた。モタモタしていると、自分たちの身が危ない。
「・・・村人たちが呪い師に反乱を起こしました・・・! 地域を牛耳っている権力者たちも、次々と襲撃を受けています・・・!」
何ということか。しかしながら、西洋人が標的ではないようである。しかし、辺り一帯は騒然としていて、危険なことには間違いない。結局、医師たちは相談の結果、一時、隣国に避難することとなった。
医師たちが慌てふためき、動き回り、辺りが騒然とする中、ベッドの上のイサオ・キクチが何やら声にならない声を上げようと、身体を必死によじっていた。
一人の医師が防護服のまま、枕元に近付いて、その言葉を一言ももらさず聴こうとした。そして・・・イサオ・キクチは確かにこう言ったのだ。
「・・・アイ・・・ス・・・食いたい・・・」「・・・最期に・・・何か・・・涼しいものを・・・母国の・・・かき氷を・・・もう一度でいいから・・・」
しかしそのような贅沢なものはもちろんここには無い。確かにもう何日もイサオ・キクチは何も口にしてはいなかった。冷たいものが食べたくなるのは、自然の本能である。
・・・それが最期の言葉だった。それをその枕元で聴いた医師が聞き間違えたのか、あるいは誰かが、違う風に他の人間に伝えたのか・・・。
あの有名な「・・・板垣死すとも自由は死せず・・・!」という言葉もすぐそばにいた、側近の者が叫んだ言葉だそうである。実際には「・・・痛い・・・早く医者を呼んでくれ・・・」などと言ったとか言わないとか・・・。
しかし、板垣は助かったが、イサオ・キクチはその言葉を最後に息を引き取った。その散り様は、彼らしく崇高にして、そして爽やかですらあった。まるでこの灼熱の大地に、一筋の涼風が吹き流れたかのように・・・。
「国境の壁なき医療団」の医師たちがその国を離れたのは、その翌日のことであった。イサオ・キクチの遺体は、危険なウィルスが外に漏れ出ないように厳重にシートに包まれて埋葬された。墓碑が建てられたのは、情勢が安定して、再び医療活動が出来るようになった後日のことである。
・・・確かに厳密には文言(もんごん)は間違っていたのかもしれない。しかし、しかしながら、彼の精神、やろうとしていたことをこれだけ端的に表した言葉は他には見当たらないのではないだろうか?
彼の、愛、の精神はまだ現地で立派に生きていた。新しく大統領に選ばれた人物は、この国初の民主的選挙を行い、それによって選ばれた議員たちは、各地に近代的な病院を、少しずつではあるが、建てていった。やがて一人、また一人と、医療団の医師たちはこの国を離れていった。より遅れた、つまり、愛、のまだ行き渡っていない地域へと移動して行ったのである。この国の彼らの医師、スタッフの数が減ったのは、むしろ喜ばしいことなのである。
イサオ・キクチの精神は今でも確かにまだ生きている。彼の人びとに配ろうとした普遍的な、愛、は少なくともこの国の人びとには満遍なく行き渡ったのだった。
墓碑の隅の、下の方にはとても小さな字で、おそらく現地の子供が後から刻んだのだろう。現地の言葉で「ウニャムーニャ」と彫られていた。
・・・これは英語に訳すと「LOVE」という意味なのであった。
終わり
世界平和を愛する男 福田 吹太朗 @fukutarro
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