ルームナンバー616
福田 吹太朗
ルームナンバー616
1
・・・その男、フリント・プリカット氏は、しがない、セールスマンをしていた。
それは本当に取るに足らない、つまらない仕事で・・・彼は国中を靴底を減らして歩き回って・・・包丁などという・・・今時どこにでも手に入りそうな、そんな物をわざわざ売り歩いていたのである。
彼は真夏のうだるような暑さの中・・・ベータヴィル、などという、今まで一度も聴いた事も無い様な・・・しかし地図にはかろうじて載っている、その、寂れているんだか、発展しているのかはよく分からない土地へとわざわざやって来たのであった。
彼の元には・・・前月の月末に、次に売らなければならない包丁一式と、地図と、契約書とが・・・そもそも契約書を本人立会いの元ではなく、勝手に送って来るぐらいなのであるから、彼がいかにぞんざいに扱われているのかが、一目瞭然なのであった・・・そして一番重要な、仕事の期間やらノルマやら泊まるホテルまで、事細かに、本社、などと呼ばれている所から、彼の元へと届くのであった。
・・・その指示書によれば・・・彼の宿泊する宿は、「ホテル・スーパーマーケット・カリフォルニア」などという・・・ホテルなんだか、小売店舗なんだか一瞬、戸惑ってしまう様な・・・しかしそのホテルは確かに、町の、さほど大きくはない、目抜き通りにあったのだった。
それは外から見ると、12〜4階位は有りそうで、とりあえず彼、プリカット氏は、そのフロントへと真っ先に向かったのであった。
その割と大きなホテルの入り口を入ると・・・真正面にフロントはあって・・・大柄の、いかにもベテランで手慣れた感じの男が、立っていた・・・
「あの・・・部屋を予約している筈の・・・プリカット、と言いますが・・・?」
そのフロントマンは、手際良く、タブレットに入力していたのだが・・・
「・・・申し訳ありません・・・あいにく、そのお名前では・・・ご予約の方は・・・」
「そんなはずはないんですけどね・・・!?」
しかし何かの手違いという事も有り得る。彼は一先ず、一旦ホテルの外へ出ると・・・本社、へと電話を掛けたのだが・・・なぜか何度掛けても話し中なのであった。
彼は仕方なく・・・もしかしたら別の名前か別の日時でもしや部屋が予約されているのではないかと・・・またもう一度ホテルのフロントへと取って返したのであった。
すると・・・驚いた事に、なぜか先程のフロントマンは、女性、つまりはフロントウーマンへと代わっていて・・・しかしプリカット氏は、先程と全く同じ質問をぶつけてみたのであった。
すると・・・
「あ・・・はい。・・・確かに。・・・フリント・プリカット様で、お間違いはないですね・・・?」
「ああ、はい、そうです。・・・でも、さっきは・・・」
「申し訳ございません・・・先程の担当の者が・・・プレスコット
様で・・・検索していたようでして・・・プレスコット様は、当ホテルの、常連様でございまして・・・」
しかしそんな話は彼にはどうでも良かったので・・・とりあえず滞在場所だけは確保出来たので・・・彼はキーを受け取ると、自分の部屋へと向かったのであった。
そこは・・・「616号室」で・・・彼にはなぜだか、エレベーターで上昇して行く時間が・・・まるでとてつもなく長い長い時間に、感じられたのであった。
しかしながら、彼の心配をよそに、エレベーターはきちんと目的のフロアへと辿り着き・・・そうしてすぐに「616」号室を見付けると、キーで中へと入って行ったのであった。
その部屋の中は・・・小綺麗に片付いてはいたものの・・・かなりの蒸し暑さで・・・おそらく、彼の為に事前にエアコンをつけるなどという、気の利いた対応は成されてはいなかったのであろう・・・? まあ、この様な地方の町には有りがちの・・・と、彼はその様な経験は今までにも体験済みではあったので、特にうろたえたり、怒りの感情なども沸かずに、冷静に冷房のスイッチを押したのであった。
そしてそれは、ウォ〜ン・・・と、微かに響く様な音を立てて、動き出した様なのであった。
しかしながら、いつまでたっても一向に部屋は冷えそうにはなかったし、彼は早いとこ包丁を売りさばいて、この小さな町を早々に立ち去るつもりでいたので・・・エアコンはそのまま付けっ放しにして、アタッシュケースを手にして、部屋を出て、エレベーターでまた下へと降りて行ったのであった。
そして、彼がフロントへと行くと・・・驚いた事に今度は、フロントウーマンならぬ、フロントボーイに代わっていて・・・彼はその、少年、に、
「・・・616号室のプリカットだが・・・これからちょっと仕事で出て来る。何か・・・エアコンの調子がイマイチみたいなんだが・・・?」
その少年、は一向に悪びれる風でもなく、
「ああ・・・はい?・・・ああ、分かりました。・・・どうかお気を付けて。エアコンの方は・・・お帰りまでには、何とか・・・」
プリカット氏は、一応その言葉を聞いて納得したので、入り口に向かいかけたのだが、ふと、思い出したことがあって、
「・・・ああそうだ。・・・この町に、おいしいチーズを売っている店とかは・・・あるかね?」
彼は自他共に認める、大のチーズ好きだったのである。
しかしその、フロントボーイは、少し首を傾げながら・・・
「・・・ああ・・・ええ・・・」
と、しばらく考えていたのだが、プリカット氏は痺れを切らし、
「・・・ああ、まあ、いいや。・・・自分で探してみるよ。・・・じゃあまた。」
まあ・・・この様な田舎町で、極上のチーズを期待する方が、愚かというものだ。・・・などと、思い直して、余裕の表情でその、フロントボーイ、に手を振りながら、そのホテルを後にしたのであった。
2
・・・プリカット氏は、ホテルからまっすぐ延びる、大通りを進んで行ったのだが・・・やがて通りは突き当たってしまい・・・道は右へ進むか、左へ進むしか選択肢は無かったのだが・・・あいにく、左側の奥の方では道路工事らしきものをやっているのが、遠目にでも見えたので・・・おのずと右折をして、そうしてそのまま、進んで行ったのであった。
しかしながら・・・この様な辺鄙な町で、どうやって包丁などを売れというのであろう・・・? 彼はそこで、はたと困ってしまったのだが・・・しかしおそらく、このまままっすぐ進めば、何かしらの商店街やら、住宅街へと・・・辿り着く筈である。
実のところ、彼はここへ来るまでに、せっかく送られてきた地図を、殆ど見もしなかったのであるが・・・それは長年のカンで・・・何となく仕事のやり方も、道筋も、大体の所は見当がついていたのであった・・・。
そうして歩く事、おおよそ10分程、やはり彼の考えていた通りに、ちょっとした商店街らしい、割と賑やかな界隈に辿り着いた様で・・・彼は自分の今している事にかなりの確信を持って・・・そうしてこれはいい兆候なのでは・・・? などと考え、早速一軒の、中の様子からして、家具店か何かだろうか・・・?・・・へと静かに入って行ったのであった・・・。
中には特に客はおらず・・・しかしながら三人のおそらくここの店員なのだろう・・・?・・・がいて、一人は立ったまま、顎の下に指を添えて、そうして時々、首を傾げていたりしていたのであった。
残りの二人はというと・・・一つのオークで出来た様なツヤのある、割と立派なテーブルを・・・その立った男の指示で、いろいろな位置に動かしているのであった。
「ああ・・・! もうちょっと・・・右、いや、じゃなくて・・・あと2センチ・・・左!・・・ああ、もう少しだけ・・・」
プリカット氏は取り込み中である事は覚悟の上で、とりあえず声だけは・・・掛けてみる事にしたのであった。
「あの・・・お取り込み中のところをすみません・・・わたくしは・・・」
しかしながら、三人の店員たちは、彼の存在には全く気が付いてはいない様なのであった・・・。
「ああ・・・だから・・・! もう少し・・・左・・・!・・・じゃなかった・・・あと3センチ・・・右・・・!」
プリカット氏は取りつく島も無かったので、仕方なくここは潔く諦めて・・・次の場所へと向かう事にしたのであった。
彼は初っ端から出鼻を挫かれて・・・正直あまりいい気分では無かったのだが・・・まあしかし、そういった事は割と良くある事なので、そこは気持ちを切り替えて、次なる‘お客’のいそうな場所へと向かったのであった。
そうして歩く事、およそ5分程で・・・それらしき一つの商店、を見付けたのだった。
それは通りの反対側に有ったのだが・・・特に車などが頻繁に行き交う道でも無かったので・・・彼は身軽に反対側へと渡ると・・・その商店へと、おずおずと入って行ったのであった・・・。
3
・・・そこは、文具店の様なのであった。店の中には、色とりどりの、ペンやら、ノートやら、ハサミやら、ホチキスやら何やらが、所狭しと・・・しかしながら、それらは心なしか皆一様に若干色褪せていて・・・しかも表面には埃を被っていた。
彼が店の入り口のドアを開けると、ピンポーン、という音がして・・・奥から少し腰の曲がった老主人が、意外な程のスピードで、
出て来たのであった。
「・・・ああ、待っていたんだよ・・・これだよ。コイツがどうも1週間程前ぐらいから調子が悪くってねぇ・・・」
と、彼の腕を、これまた老人の力とは思えない程に、グイグイと、店の片隅へと、引っ張って行ったのである。
そこには・・・一台の、古びたコピー機があったのだった。
どうやらその老店主は、プリカット氏の事を、電機メーカーの修理人と勘違いしているらしい。彼はその・・・誤解を解く・・・どころか、余計な親切心など出してしまい・・・そうしてそのコピー機を・・・しばらく弄(いじく)っていたりしたのであるが・・・何と、ものの15分程で、その故障していたとか言う、コピー機は「ウゥ〜ン・・・」と割とスムースな音を少し立てて、老店主の持ってきた、何かの、雑誌の1ページらしき物をきちんと、カラーで何枚もコピーをしていたのであった。
「・・・いやあ・・・さすがメーカーの人だねぇ・・・やっぱり、キチンとした人を呼ばにゃぁいかんよねぇ・・・」
無論の事、彼は‘メーカーの人’でも何でもなく・・・しかし実のところ、プリカット氏は、かつて電気系統の修理人をしていた事もあり・・・まさかこんな時に、その様な経験が今になって役に立とうとは・・・。
しかしながら・・・今さら、包丁のセールスマンだなどとは言えず・・・すると突然、その老店主は、一枚の書類を取り出して何やら書き込みながら・・・
「・・・アンタみたいな人にゃ、もうとっくに知れ渡っている事じゃろうが・・・機械に・・・機械というヤツにも人間と同じ様に、平均寿命というものがあるって事を知ってるかい?」
「へ、平均寿命・・・?・・・ですか?」
プリカット氏にしてみれば、全くの初耳の話なのであったのだが・・・その老店主は、あくまでもまるで自分が発見した事かの様に、胸を張って言い張るのであった。
「・・・オヤ? ・・・知らないのかい・・・? 機械にも・・・例えば、冷蔵庫は何年か知ってるかい?」
「さあ・・・?」
プリカット氏が首を捻っていると、老人はここぞとばかりに、
「・・・冷蔵庫は・・・7、8年てとこじゃろうて。洗濯機は・・・4、5年かねぇ・・・まあパソコンは、持って9年から10年・・・あとFAXは・・・」
・・・などと、いつまでも捲し立てていたので、プリカット氏は、いてもたってもいられなくなったので、
「・・・あのー、私はこれで・・・」
と、そこは仕方なく、本業の方の、包丁を売る事は諦めて、立ち去ろとしたのだが・・・突然、老店主が、
「ア、ホラホラ・・・書類を忘れておるぞ?」
と、一枚の書類を・・・
そこには、『修理完了証』などと書かれていて、プリカット氏に向かって、
「あ、ほら、ここに、サインを。」
と、その紙切れを差し出したのであった。
プリカット氏は・・・これは少々まずい事になったぞ・・・などと思ったりもしたのだが、よくよく考えてみれば、コピー機はキチンと直っているのだから、何も問題はない訳で・・・しかし、そこに本名を書くのはさすがにマズいと思ったので・・・咄嗟に、正面の壁に貼られていた、カレンダーに書かれていた・・・「サン・マルティン諸島へようこそ・・・!」・・・などという文字を拾って、「サム・マーティン」・・・などと、適当な名前でサインをしたのであった。
「ほぅ・・・アレ? 担当者の名前は、確か・・・ジョーンズ、の筈では・・・?」
と、老店主は、意外と鋭いところを突いてきたので、
「・・・ああ、いや・・・ジョーンズ氏は、急に風邪を引きまして・・・私が代わりに担当に・・・何か問題はありますか?」
などと開き直ると、老店主は意外にもあっさりと、
「いいや、全然。・・・コピー機が直りゃあ、ジョ・・・何とかだろうが、マ、何とかだろうが、構やしないさ。」
と、平然としていたのであった。
しかしいずれにせよ、本物の、ジョーンズ氏が現れてしまってはマズいので、プリカット氏は早々に、老店主に挨拶をして、その文具店を脱出したのであった。
しかしながら、もちろんの事・・・包丁は一本も売れず・・・またもや頭の中がモヤモヤとしながら、しかしそれでも、気を取り直して、その道を再び進んで行ったのであった・・・。
4
・・・彼は、ひたすら通りを歩いていた。・・・いたのだが、無情にも、段々と太陽は高い位置へと昇って行き・・・当然の事ながら、日差しはそれにつれて強くなっていき、彼、プリカット氏は、額からタラタラと流れ落ちる汗を、ハンカチで拭いながら、それでも歩く他ないのであった。
ふと、彼の横を、一人の、おそらくまだそれ程年配という訳ではないのだろうが、見かけは実際よりも歳が上に見える・・・おそらく頭髪が禿げ上がっているせいなのだろう?・・・一人の男が、何やらキョロキョロと・・・まるで落し物でも探すかの様に・・・ウロウロとしていたのだが・・・プリカット氏は、見兼ねていっその事、声を掛けようかとも考えたのだが・・・その男があまりに挙動不審であったのと、心なしか、少々苛立っている様にも見えたので・・・それは控えたのであった。
男は、確かに何かを探しながら、そしてしきりに頭のてっぺんの、一番禿げ上がった部分を、時々もどかしそうに掻きながら、
「・・・アレ? 確かに、この辺に・・・で、でも・・・無い、ナイ、ない・・・! 俺の・・・かつらがーぁぁっっっ・・・!」
と、どうやら、彼の、彼にとってはおそらく命の次に大切な物を、どこかで落としたのか、風に飛ばされたのか・・・失くしてしまった様なのであった。
確かに・・・辺りには、この暑さにも関わらず、時折ヒューヒューという気味の悪い甲高い音を立てて・・・隙間風の様なものが、吹いていたのであった。
そしてさらにその男は、一段と大きな声で喚いていた。一段と、焦りながら・・・
「・・・俺は、俺はなぁ・・・あの、あの救世主とやらの、生まれ変わりなんだ・・・そうなんだ・・・!・・・その俺が、救世主の俺が・・・頭のてっぺんを失う事など・・・この世界を救えないに・・・等しい・・・!・・・まるでそれは・・・そうじゃないか・・・!」
その言葉を聞いた途端、プリカット氏は思わず、吹き出しそうになってしまったのだが・・・良く見ると、男の眼は血走っていたので・・・何かヤバそうな気がして、少し怖れも感じつつ・・・それだけはギリギリ堪えたのであった。
・・・直に、その、カツラを失くした救世主は、去って行ってしまった・・・。
プリカット氏は、相変わらず、同じ進行方向へと、進むしかないのであった。
しかしながら・・・付近には、様々な店は有るには有ったのだが・・・どこも包丁など買ってくれそうな店舗などではなく・・・立ち止まって話している人達にも・・・本来ならば、片っ端から声を掛けて、売り込むべきだったのだろうが・・・何しろこの暑さのせいで、そういった正常な思考が麻痺していたのかもしれない。
そうして・・・ただ虚しく歩く事、実際のところ、すでに全身の陽の光が直接当たる所が、ヒリヒリとしていたので、いつの間にやら、腕時計は外していたのであった。・・・なので、あの文具店を出てから、何分位経過したのかは全く分からず・・・段々と足元も、フラフラとおぼつかなくなり・・・やがて奇異な物が見え始めて来てさえいたのであった・・・。
それはまず・・・通りに立って話し込んでいる人々の吐く息が・・・それはつまり、二酸化炭素なのだろうが・・・色付きで、見え始めたのである。それは明らかに幻覚なのだろうが・・・プリカット氏は、さすがにこれはマズい状況だという事だけは悟り、そうして一度、立ち止まってゆっくりと周りを見渡してみると・・・実際、立って話す人々の吐く息は、濃い目の青紫色に、吸う息は、ピンクがかった様な赤紫色に・・・それは酸素なのだろうが・・・見えたのだった・・・。
そして・・・さらに辺りを見回し・・・ふと、視界の先に、『××古書店』・・・なるものを見付けたので・・・とりあえずその中へと入れば、おそらくクーラーが効いていて、一時凌ぎにはなるのではないのかと・・・そちらの方向へと、やっとの事で、歩を進めたのであった・・・。
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・・・その古書店は『ジミージョーのアゴがハズレるほどに愉快な古書店』・・・などという、訳の分からない名前の古本屋だったのだが・・・顎が外れる、というよりは、彼が期待していた様な、クーラーの効いた店内などではなく・・・むしろ狭苦しく、本棚がまるで客を圧迫して、あの、ゴミ収集車の背後に付いている様な、あるいは、彼自身は行った事などはなかったのだが、ゴミの空き缶工場の、プレスマシーンの様に、文字と文字との間に挟まれてしまうのではないのかという不安さえ・・・しかし、もちろんそんな事は無かったのだが、しかし空調の全く効いていない、しかも狭苦しい空間で、コソコソと真横に移動しながら・・・しかしふと、上を見上げると、天井の隅に、小さな扇風機が気持ちばかりに、首を振って仕事をしていたのだが・・・彼、プリカット氏は、少しでもその風が当たる箇所に移動をしようと・・・しかしながら、店内に客は彼しかおらず、ブクブクと太った、上にはシミの付いた、白のタンクトップ一着のみを身にまとった店主が、レジのあるカウンターの所で、扇子の様な物で、自らの身体をあおぎながら、しかし時折、プリカット氏の方を、チラリチラリと、見ているのであった。
・・・ので、彼はその視線を時々感じ、ただ涼みに来たと思われては・・・実際そうなのであったのだが・・・時々本棚の本を手に取っては、特に内容などは気にせずに、パラパラとめくったりしていたのであった・・・。
しかしながら、いつまでもこの、期待とは裏腹に、ちっとも涼の取れないこの様な場所にいても仕方がなかったので、その古書店を出ようとしたのだが・・・店主の視線は、一段と鋭く、残忍であるとさえ感じたので・・・しかし実際には、まともに視線を合わせた訳ではなかったのだが・・・彼は仕方なく、適当に、本棚の一番上の方まで腕を伸ばし・・・そうして一冊の適度な大きさ、重さの本を選んで・・・これ以上荷物を増やして、負担になってしまっては元も子もないのであった・・・そうしてその、天井の扇風機も扇子の効果もゼロの、全身から汗をタラタラと垂れ流している、店主の待つ、レジへと・・・そうして意外と値が張るその本を手にしたまま、また外に出たのだが・・・意外にも、外の方が今はそよ風の様なものが吹いていて、いくらか涼しかったのであった。
そうして、その別に購入しようがしまいがどうでも良かった、その本の表紙を見ると・・・特にタイトルらしきものは書かれてはおらず・・・しかし目を近付けてよくよく見てみると、とても小さな文字で、しかも擦れかけていて・・・『無題』などという、一番どうでもいい様なタイトルがついていて、さらに、本の中を開くと・・・なんと何ページ何十ページ、めくってもめくっても、ずうっと空白のままで・・・これはきっと不良品か、モック品なのか、とにかく、またあの古書店に取って返して、返品しようと・・・しかしながら、良く見ると、ページ数はきちんと書かれているし、何ページも何ページもめくっていくと・・・490ページ目にやっと一行だけ・・・
「・・・この世界で生きる事は、無意味である。虚無である。・・・この本のように。終」
・・・などと書かれてはいたので、これはおそらく作者が相当捻くれていて、意図的に、紙の無駄遣い、をしたのだろうと、諦めるしかないのであった。・・・まあ、せいぜい、食事の時に、一枚一枚破って、手でも拭くか、トイレで使える程度だな?・・・などと開き直り、しかしながら、それにしても随分と値の張るトイレットペーパーを買ってしまったものなのであった・・・。
6
・・・彼は、それでもこういう時の為に、一応水筒というか、ボトルの様な物は携帯してはいたので・・・それに口をつけつつ・・・しかし実のところ、それに口に付けたのは、ほぼほぼ初めての事で・・・つまりは、最後の切り札、に早くも頼ってしまったのであった。
そして・・・通りを一段とゆっくりとしたペースで歩いて行くと・・・道路脇の路肩に、一人の若い男が、疲れた様にだるい顔をしながら座り・・・その傍らでは、もう一人の男が・・・しかしよくよく見てみると・・・彼は、職業柄、人の顔を覚えるのが癖、というか、習慣の様になっていたのであった・・・二人の男はよく似ていて・・・ただ立ってお説教を垂れている男の方が、かなり年長なのであったが、おそらく親子ゲンカか何かなんだろうな?・・・などと、少しだけ興味を抱いたので、わざとその方向へ、ほんの数センチずれて歩くだけでよかったのだが・・・そうして耳だけは澄ましながら、その二人の横をゆっくりと、通り過ぎて行ったのであった。
年上の男の方が、
「・・・オイ! いい加減にしろ・・・! ホラ早いトコ立って、働くんだ・・・!」
しかし、座っている若い男の方は、だるい目つきのまま、一向に立ち上がる様子など無く・・・前方をまるで魂が抜けたかの様にうつろに見つめていたのであった。
プリカット氏は、ははあん、やっぱりこれは働かない息子に、父親がハッパをかけているんだな?・・・などと、思ったのだが、まさに彼がその二人の真横を通り過ぎようとした瞬間、信じられない言葉を耳にしたのであった。
立っている年上の男の方が、
「・・・オイ! ・・・お前がその年の時に、真面目に働かなかったから・・・30年後に、俺みたいにこうなっちまったんだぞ・・・! ・・・なんでわざわざこの俺が、タイムマシンなんかで危険な思いをしてまで、こうやって過去のお前に、ハッパをかけに来たのか、分かっちゃあいないんだ・・・お前は・・・! ・・・今何もしないと、この俺みたいに、こうなっちまうんだぞ・・・?」
・・・タ、タイムマシン・・・!? ・・・み、未来から・・・?
プリカット氏は思わず、その男二人を歩きながら二度見、いや、三度見四度見してしまったのであるが・・・若い男の方は、そのもう一方の・・・30年後の自分、の言う事には一切耳は貸さず・・・ただやはり、うつろな表情で路肩に腰掛けているのみなのであった・・・。
それからは・・・その後の事はプリカット氏にも分からなかった。にわかには信じがたい話なのであったが・・・しかし、もしかしたら・・・。
しかし、プリカット氏の知っているタイムマシンなどという物は、昔TVか映画か漫画で観た様な・・・何だか訳の分からない機械仕掛けの・・・ぐらいの物しか、想像はつかず・・・。
ともかく・・・彼には道を、その先へとひたすら、前へ前へと進むしか無いのであった・・・。それがまるで、彼の・・・仕事というよりは、宿命か何かであるかの様に・・・。
そうして歩いていると・・・今度は背の低い、しかも姿勢が悪い、と言うよりは、背中がまるで猫背をさらに強調したかの様な、窮屈そうな姿勢の一人の身なりの汚い男が、プリカット氏の方へと、近付いて来て・・・馴れ馴れしく何やら話しかけて来たのであった・・・。しかもその男がニヤリと笑うと、前歯が数本、欠けていて・・・いっそう何だか、不気味さを通り越して、滑稽にさえ見えるのであった・・・。
その男は、彼、プリカット氏に、歯抜けの顔で笑いながら、
「・・・ダンナ、シギントを、知っていやすかい・・・?」
プリカット氏には、何の事やらさっぱり分からなかったので、
「・・・え?」
と、言うと、その男はなお一層、嬉しそうに歯抜けの口を開けて、ニヤリとして、
「・・・シギントですよ? ・・・ダンナァ・・・奴らは・・・つまりはシギントの奴らの事なんですけどね・・・奴らは毎日、つまり24時間、365日、アッシらを・・・」
そこでなぜだか、その歯抜けの男は、腹を抱えて大笑いをしてから、
「・・・アッシらの事を、見張っているんですぜぇ・・・? アンタも、ダンナも、気を付けるこってす。・・・シギントには。・・・ええ、全く。」
それだけ言うとその身なりの汚い男は、何がそんなにおかしいのかは皆目見当は付かなかったのであるが、その前方に突き出した、肩を震わせて笑いながら、プリカット氏とは逆の方向へと、陽気な足取りで行ってしまったのであった・・・。
プリカット氏は、ほんの数十秒だけ、立ち止まってその男の去って行くのを眺めていたのであるが・・・特にこれといって怪しいところは無く・・・と、いうより、怪しい所しかなかったのであるが・・・しかし、一々気にしていたら商売などは出来ないので・・・彼もまた、今までと同じ方向に歩き出したのであった。
段々と・・・太陽がほんの少しずつ、傾きかけている様で・・・しかし思いの外、なかなか傾いてはくれないのであったのだが・・・。
7
・・・そうして彼、フリント・プリカット氏は、特にこれといったアテも無く、歩いていたのだが・・・そろそろ包丁の一本でも売らない事には・・・下手をすると、最悪のケースとしては、職を失ってしまいかねないのであった。
そして・・・通りは次第に細く細くなって行き・・・やがて直角に曲がると・・・依然として道はまだ続いていたのであった・・・。
そうして・・・どうやらその辺りはちょっとした住宅街らしく・・・しかしながら、今までの体験から、いきなり一軒一軒の家のドアを叩いて、包丁を売りつけようとしても、全くの徒労に終わる事は分かっていたので・・・強盗と間違えられた事さえあったのだった・・・そこはひとまず、素早く通り抜けようとしたのであった。
・・・すると、前から、お腹の大きい一人の30代半ばぐらいの女性が、こちら側に向かって近付いて来て・・・どうやら妊娠中らしいのであったのだが、特にプリカット氏とは目を合わせるでも無く・・・すれ違ったのだが・・・その時、彼の気のせいだろうか?・・・何やら声が・・・一瞬聴こえて・・・それは、
「・・・スウ・・・ジ・・・」
という、意味不明というか、おそらく彼の空耳なのであろう? ・・・しかし今度はハッキリと・・・
「・・・スウジ・・・スウジ・・・スウジヲ、オエ・・・」
と、言う子供の様な、か細い声で・・・しかし周りを見渡してみても、子供などは人っ子一人おらず・・・そしてプリカット氏は、ある事に気が付き、そのすれ違った妊婦の大きなお腹を見ていると・・・
「・・・ソウダヨ・・・オレ・・・ココ・・・スウジ・・・スウジ、ヲ、オエ・・・」
彼は、まさかとは思ったのであるが・・・まさかお腹の中の胎児から、指示を受けるなどという事が・・・あってたまるものか!・・・しかしそうこうしている内にも、そのお腹の大きな妊婦は、あっという間に彼の背後へと・・・見えなくなって行ってしまったのであった・・・そして・・・。
・・・その、子供の様な声も、いつの間にやら聴こえなくなってしまったのである。
プリカット氏は、何とも気分が悪く・・・しかも薄気味が悪くなって・・・そうしてその、一段と細くなっていく道をひたすら進んで行くと・・・道はあちらこちらで曲がりくねっていて、しかもしょっちゅう壁にぶつかり、行き止まりかと思うとそうでも無く・・・ほぼ直角に曲がったりして・・・そうして住宅と住宅の間を通り抜けているのか、何度もまるでジグザグになりながら、歩いて行くしかないのであった・・・。
すると、驚いた事に・・・真正面のコンクリの壁には「1」の文字が・・・しかし彼は別にその時点では特に気にもしなかったのであるが・・・次のコーナーを曲がると・・・そこの標識には、古ぼけて、やや霞んではいたのだが・・・「2」という数字が・・・彼は、これはおそらくきっと何かの偶然に違いない、大体、1の次に来る数字は、2、に決まっているではないか?・・・と、少し強気というよりは、ムキになっていて・・・すると、道はそこで丁字路になっていたので、どちらに進むかでほんの一瞬迷ったのであるが、とりあえずは、全くのヤマカンで、左側の方へと進んで行ったのであった・・・。
すると、今度は・・・何と驚いた事に、地面に落ちていた婦人物のファッション誌か何かの表紙に、デカデカと「3」月号・・・と書かれていたのであった・・・。
彼はもはや、これは偶然などでは無く・・・やはりあの、妊婦のお腹の中にいた赤ん坊が・・・全てをあらかじめ知っていて・・・彼を導いているとしか・・・しかしプリカット氏は、まるで悪夢の様な、この様な状況からは一刻も早く抜け出そうと・・・歩くスピードを速めたのだが・・・そんな彼をまるで嘲笑うか、あるいは待ち受けるかの様に・・・ある時は電柱にシールが、ある時は住宅の番地の数字が全て同じだったり・・・またある時は、駐車場の地面のアスファルトに書かれた数字が一個を残して、消えていて、その残った数字が・・・あるいはそこいら辺に落ちていた、空き缶の中身の飲料の名称なのだか何なのか・・・SPARK−9!・・・などという商品名なのか・・・とにかく・・・4、5、6、7、8、9と、現われては消えて・・・そして、それ以降は、数字は全く現われず・・・しかもようやくその、住宅街の狭い道も通り抜けたので、ホッとしていると・・・彼の目の前を、真っ昼間だというのに、一人のナイトガウン姿の老人が、横切って・・・大方、認知症の老人が、徘徊でもしているのだろうと・・・しかしプリカット氏には、その顔はどこか見覚えがあったので、少し興味が湧いてしまい、そっと後をついて行き、顔を確かめる為に、ほんの一瞬だけ、前に回り込むと・・・驚いた事に、その老人は、首から一枚の身分証の様な物をぶら下げていたのだが・・・そこには・・・0000―00という数字が・・・刻まれていて・・・しかし確かに、プリカット氏には、その老人の顔は、見覚えのある顔なのであった・・・。
8
・・・その老人は、数日前からTVやネットなどで少しばかり話題になっている、消息不明で認知症のしかも、大富豪だという老人なのではないだろうか・・・? しかし、プリカット氏にはイマイチ確信は無く、その話もどこかでチラリと見ただけなので・・・しかもその大富豪というのが、今現在は彼の一族がその企業グループを経営しているらしいのだが、どうも曰くありげな・・・つまるところ、裏稼業の組織とも繋がっているのではないのかと、専らの評判なのであった。
・・・なので、プリカット氏はここは敢えて、余計な事には首は突っ込まずに、自然の成り行きに任せた方が得策だと・・・下手をすると、謝礼を貰えるどころか、全く逆の意味の‘お礼’を貰わないとも限らないのだ。
・・・と、そこは彼なりの冷静な判断で、その、大富豪、らしき老人の事はあえてスルーして・・・そのまま真っ直ぐ進んだのであった・・・。
すると今度は、曲がり角のところでバタリと、一人の人物と出会い頭に、危うくぶつかりそうになってしまったのであったのだが・・・その相手の人物・・・何だか全身に淡い、形容し難い色のローブの様な物を纏い、まるで修行僧か、古代の哲学者か何かの様な、一人の見てくれだけは立派な、初老の男が目の前にはいたのであった。
その、賢者風の男は、かしこまった様に、しかし、とても冷静に、
「・・・オッと・・・これは失礼。危うく無保険の身で、病院に行く羽目だったわい・・・。ところで・・・」
その男は、プリカット氏の事を少し胡散臭そうな目つきで見ながら、
「・・・あの老人の事は諦めたのかな? ・・・逃した魚は大きいぞ?」
なぜこの男はその事を知っていたのだろうか・・・? 大方、通りの端っこで、こちらを覗き見ていたに違いない。どうにも胡散臭い奴だ・・・などと、今度はプリカット氏がその様な目でその男を見ていると・・・
「・・・さて。・・・このワシは一体、お前さんにはどう見えているのかね・・・?」
と、少しだけまるで心の中を覗かれた様な気がして、彼はドキッとしたのだが、その男は構わず続けて、
「・・・このワシが、賢い人間に見えるかね? ・・・それとも、愚か者といったところかな・・・?」
「さあ・・・」
と、プリカット氏はそこで初めて、口を開いたのだが・・・要するに、何だかとても厄介な人物である事はほぼ彼は確信したので・・・早いとこその場から立ち去りたい気になっていたのであった。
しかしその男は、ますます不敵な笑みを浮かべて、
「・・・ところで、実を言うとな、このワシは‘全能者’なんだが・・・つまりは・・・しかしあの、カミ、だとかいう、実態の一切感じられない、存在しているのかさえ分からない、その様なモノとは違うんだぞ・・・? 全能者、だよ・・・分かるかね・・・?」
プリカット氏の頭の中ではハテナマークがおそらく5、6個、いや、十数個はブンブンと、まるで真夏の蚊の様に飛び回っていたのだが・・・男はそんな事にはお構いなしに、まくし立てるのであった。
「・・・いいか? もしもこのワシが、この世界を、有りとあらゆるものを自由自在に操れるとしても・・・しても、だ。・・・しかしそれを証明する事は出来ない・・・この意味が、分かるかね?」
もちろんプリカット氏には、何の事やらさっぱりであったのだが、
「・・・もしそれを証明しようとすると・・・どうなると思う?」
「さあ・・・?」
彼はこれほど周りくどい言い回しをする人間には、正直今まで一度も出会った事は無かったのだが・・・実のところ、彼自身も包丁を売り込む時には、外堀から、つまりは少しだけ婉曲な言い回しをする事はあったのだが・・・しかしいくら何でもここまでだと、すぐにドアを閉められてしまうのは、火を見るより明らかなのであった。
「・・・まあ、分からんだろうねぇ・・・まあ、要するに、だ。・・・このワシがもしその様な力を持っていたとしても、だ。・・・それを証明する為には、つまりはその力を使わなければならないから・・・そうすると、どうなると思う? ・・・この星が、いや、この宇宙全体が全て消えて無くなってしまうんだよなぁ・・・」
プリカット氏がなおもポカンとしていると、
「・・・だから、このワシが一体全体、とても賢い人間なのか、はたまた愚か者なのかは・・・決して分かるまい。・・・だろ?」
「あ、はい・・・まあ。」
もちろんの事、プリカット氏にしてみれば、目の前にいる人間は、愚か者以外の何者でも無かったのだが・・・それを口に出してしまうとややこしい事になってしまいそうであったのと、一刻も早くこの場から立ち去りたかったので・・・上手い事相手の調子に合わせる様に、気を配ったのであった。
・・・そして、その、この暑さで気が触れた全知全能の男、は、豪快に笑うと、足取りも軽やかに、ローブをヒラヒラとさせながら、あっという間に去って行ってしまったのであった・・・。
プリカット氏は、ほんのちょっとの間、何が起きたのかが全く理解出来ずに・・・その場に固まってしまっていたのであったが・・・それはおそらく、4、5秒の事で、本当にあっという間にその男は、豪快に笑いながら、優雅に去って行ってしまったのであった。
・・・やれやれ、どうやらこの暑さのせいで、この時季・・・まあ、頭のおかしな人間が出没する事は、ままある事なので・・・特に気にもせず、その男の言っていた事も理解は出来ぬままに、プリカット氏は、気を取り直して、その男の去って行った方向とは真逆の方向・・・しかしそれは、先程からの進行方向と全く変わらなかったのだが・・・額から滴り落ちる汗を、ハンカチで拭いながら、また歩き出したのであった・・・。
9
・・・段々と、西の空がオレンジ色に染まって来た・・・。さすがのプリカット氏も、かなり焦り始めて来ていた。
まだ包丁が一本も売れてはいない・・・実のところ、この町には、四日間という、滞在期間を与えられてはいたのだが・・・しかし規則では、毎日その日の結果報告を、本社、へとしなければならないのであった。
そして・・・通りもいつしか急に人通りが多くなって来て・・・これこそは正に彼の望んだ事だったのだが・・・これならば、さすがに一人や二人、いや、もしかすればもう少し売れたとしても、決して不思議な事ではなかったろう。
・・・と、楽観的な希望を抱きつつ・・・しかしそこは、確かに人通りは多かったのではあるが・・・雑然としていて、と、いうより、路上駐車の車の列やら、ゴミの山やら、ホームレスの段ボールの屋敷やら、壁や閉じたシャッターに描かれている落書きやら・・・どう贔屓目に見ても、とても治安の良い場所とは言えそうのない、そんな地域に迷い込んでしまった様なのであった。
・・・早速、一人のボロ着を纏った、足元のおぼつかない・・・どう見てもこの明るい時分からしこたま酒を飲んで、実際、その男の手には、ブランデーだかウイスキーだかの、ボトルが握られていて・・・そうして臭い息を吐きながら、プリカット氏に対しても、その悪臭と同じくらいに不快な、罵詈雑言を浴びせかけてくるのであった。
しかし彼は、その様な事には職業柄慣れっ子ではあったので、その男を軽くいなすと、この辺りからは早く立ち去った方がいいと・・・その足を一層速めたのであった・・・。
ふと、一台のパトカーが止まっていて、少年が一人、後ろ手に警官に手錠を掛けられて・・・しかし不敵な、一向に悪びれた様子は無く・・・ニヤニヤと笑っていたのであった・・・。
手慣れた手付きで手錠を掛けている、その警官は、ここでは良くある、割と日常的な光景というか、出来事であったのかもしれないのだが・・・少年に向かって、言うのであった。
「・・・またお前か? ・・・今度はどうしてやったんだ・・・?」
その少年は、まるで慈善事業か、良い行いでもしたかの様な口振りで、
「いや、それは・・・なあ、分かるだろ・・・? ・・・空が青くてキレイだったからだよ?」
確かに今日の空は晴れ渡っていて、雲もほとんど無く、キレイな事には違いは無かったのだが・・・すると、警官は、
「・・・あいにく、盗んだものが悪かったな? ・・・財布の中身より、外見の方が高かったぞ・・・? あれは大層なブランド品だったな。」
少年はただ、ニタニタとするのみなのであった。
警官はそれにはお構いなしに、
「・・・こんな所に、金目の物があると思うか? 盗むんだったら、もう少し金持ちの家にでも入るんだな。」
警官がそんな事を言ってしまっていいものなのだろうか・・・?
しかしその様なプリカット氏の心配をよそに、その手錠を掛けられた少年を乗せたパトカーは、あっという間にけたたましいサイレンと共に、去って行ってしまったのであった・・・。
プリカット氏は、確かにあの警官の言う通り、この辺りには金を持っていそうな人間などはいそうには無く・・・一刻も早く立ち去った方がどうやら正解の様なのではないかと考えたのだが・・・。
しかしながら・・・今日のプリカット氏はどこまでもツイていなかった。アタッシュケースを持ち、小綺麗なスーツで身を固めた彼の事を、絶好のカモとでも思ったのであろうか? ・・・二人の、見るからにチンピラ風の・・・と、いうより、チンピラ以外の何者でもなかったのだが・・・彼の前に突然現われると・・・二人とも、ナイフを手にしていて・・・そしてスゴみながら、ナイフを盛んに振りかざして見せるのであった・・・。
「・・・オイ、そこの、お前・・・! ・・・見ない顔だな? 大方・・・観光客ってとこだろうな? ま、悪いことは言わないから、そのカバンを・・・こっちに寄越しな・・・!」
もう一人の方も、華麗なるナイフの手さばきで、
「・・・オイ? ・・・聴こえただろ? ・・・言う通りにした方が・・・お前の身の為だぞ・・・?」
するとプリカット氏は、その二人のチンピラの言う事を大人しく聴く事にしたのか・・・いや、そうではあるまい・・・しかしながら、ゆっくりと、アタッシュケースをアスファルトの地面に置いて・・・
「・・・そうだ。案外物分かりがいいじゃないか?」
「・・・黙ってそいつはそこに置いてきな?」
・・・そうしてプリカット氏は、アタッシュケースのカギを、ガシャリ、と開けると・・・その中にはもちろんの事、有りとあらゆる種類の包丁が、ギッシリと・・・彼はその中から、一番切れ味の良さそうな、そして二人のチンピラの持っている果物ナイフの様なシロモノよりは遥かに大きな二本の包丁を・・・おもむろに取り出したのであった・・・。
そのチンケな二人のコソ泥は、思わず顔を見合わせたのだが・・・しかし一旦振り上げた拳は、静かに下ろす事は出来ないので・・・あくまでも、しかし打って変わって腰が引けた様になりながら、ナイフを振り回しつつ、ゆっくりと彼の周りを回って、タイミングを伺っているのであった・・・。
プリカット氏は、そんな事にはお構いなしに、出刃包丁を片一方目掛けて思い切り振り下ろしたのであった。ブゥン!・・・という風を切る音が響いて、その一人目のチンピラは呆気なくも、腰を抜かして、地面に尻餅をついてしまったのであった。
そしてオロオロとするもう一人の小男に対しても・・・彼は容赦無くもう一本の、それはまるでサーベルの様に細く長く・・・チンピラのナイフの数倍の長さがあり・・・今度は、ヒュン!・・・というさらに鋭い音を立てて振り下ろされ・・・二人目の男は運の悪い事に、その、包丁、が長かったせいで、頬の辺りがほんの僅かだが、切れて赤い細い傷が付いてしまったのだった。
その男はそれほど大した傷でもないのに、
「・・・ギャァァァ・・・!!」
・・・などと、大袈裟な声を上げると、その二人はやっとの事で起き上がり、物凄いスピードで走り去って、瞬く間にその姿は見えなくなってしまったのであった・・・。
プリカット氏は、
「・・・ふぅ・・・」
と、一つ溜息をついた。
それは、危険な目に遭ったのを切り抜ける事が出来たから・・・というよりは、商売道具の包丁をこの様な事にしか使えない事への、溜息であったと言う方が、より正しかったのかもしれない・・・。
・・・ともかく、彼はこんな場所にこれ以上いるのはロクな事は無いと悟ったので・・・急いでその薄汚れた狭苦しい通りからは、まるで逃げ出す様にして、速足で抜けて行ったのであった・・・。
10
・・・しばらくすると、やがて今度は割と小綺麗な、大きめの通りに出た。
プリカット氏は、これでようやく今度こそは、包丁の一本でも売れるのではないかと、軽く胸を撫で下ろし、淡い期待を抱いたのであるが・・・しかしその考えは脆くも・・・が、それは彼が運が悪かったとか、何かの事件やら出来事に巻き込まれたとか、そういった事では決してなく・・・何と、通りの先の、向こう数軒先の店に、彼の大好物である、チーズ専門店らしき店を見付けてしまった事が原因なのであった・・・。
それを見るや否や、彼はもはや自分の仕事の事などは忘れて、まさかこのような辺鄙な町で、チーズを専門に売っている店があろうなどとは、予想だにしてはいなかったので、気が付いた時にはもう、店の真正面に立っていたのであった。
彼が少々顔をニヤつかせながら、斜め上の方向を見上げると、店の看板には「体がトロケてしまうようなスコラおじさんのチーズ専門店」と、やや長ったらしい名前が書かれていたのだが、その文字を読み終えたか終えなかったかのうちに、彼はもうすでに、店の入り口のドアを開けて、中へと入ってしまっていたのであった・・・。
カランコロン、という甲高い金属と乾いた木の音が混じり合ったような旋律が店の中にこだますると、それとほぼ同時ぐらいの瞬時にして、店の奥から、看板に書かれていた通りの、一人の仏頂面した恰幅の良い男が出て来たのだが、
「・・・いらっしゃいませ・・・。」
と、体には全く似合わない蚊の鳴く様な声で、それだけ言ったきりその店の主人は、特にプリカット氏に話し掛ける訳でもなく、ただ黙って様々な種類のチーズが入っているガラスケースのあるカウンターの向こうで、直立不動のまま、殆んど微動だにはしないのであった。
プリカット氏の方はそんな主人の存在に気付いているのかさえ怪しい程に、そのガラスケースの中に、店の主人の無骨な印象とは全くの正反対で、几帳面に陳列された様々なチーズを、一つ一つ丹念に端から端まで眺めて・・・と、いうより、早いとこ選んで、自分の物にしてしまう事に越した事はなかったのだが、どれにして良いのか分からず・・・というより、様々なチーズについ目移りしてしまって、どれもこれもが欲しくなってしまうのであった・・・。
しかしそんな彼の行動には全くお構いなしというか、興味すら無いのか、いや、もしかしたらこういったお客には慣れっ子なのか、その無愛想な店の主人は相変わらず、微動だにしなかったのだった。
・・・やがてプリカット氏は、とうとう遂にその一品、を決めたのか、ようやくガラスケースの中を指差して、一つのチーズ・・・それは、エダ・・・カラム・・・シュワリ・・・ンチャラ・・・ナンチャラ・・・チーズ、という、実のところ、チーズ好きのプリカット氏も初めて耳にし、そして目にした代物であったのだが、これはもしや、この地方でしか作れない様な、要するにこの地方の名物とでもいったような逸品なのではないのかと、代金をレジの所で支払いながら、さり気なく、それとなくその主人に尋ねてみたのだが・・・その無感情なこの店の主人は、ゴホン、と一つ軽く咳払いをしただけで、答えてはくれないのだった・・・。
しかしプリカットにしてみれば、それ以外の品名のチーズは、ほとんどが一度は目にした事があるか、もしくは実際に食したこともあったので、特にそれ以上は追求することも無く、これは珍しくて貴重な掘り出し物を手に入れたと、上機嫌になりながら、一個の箱をぶら下げて店を出たのであった・・・。
・・・すると、店の前には、一人の若くもなく・・・さりとて年配といった訳でもなく、そこそこのイケメンと言えばそうだとも言えなくはない・・・つまりはごく普通だが、陽に焼けて、精悍な、マッチョ風ではあるものの、しかし決して太っているという訳でもない、割と普通の一人の男が、チーズ店の斜め前の通りの向かいの程々に高いビルの上の方を、日差しが眩しいのか、目を細めながら、自分の額の上に片手をかざしながら、何やら眺めていたのであった・・・。
プリカット氏も、その様子が少し気なったのか、そちらの方向を眺めてみた。・・・確かに、そのおそらく15階建て程は優に有りそうな、シルバーグレイに輝くそのビルディングを眺めていると、日差しはきつく、思わずクラクラとしそうな蒸し暑さが戻って来ていたのであった。
その男は、全くの他人事の様に、何やら目を一層細めながら、呟いていた・・・。
「・・・アイツはなぁ、実を言うと、昔からの顔馴染みなんだ・・・。まあ、いわゆる腐れ縁、てヤツでね。・・・昔から、何かと細かい事を気にする奴ではあった。・・・確かに。・・・確かにそうだ。」
プリカット氏には、いったいこの男が何について話しているのかが、サッパリだったのだが、それには全くお構いなしに、その男は続けるのであった・・・。
「・・・でもまさかなぁ・・・本当に、飛んじまうとはなぁ・・・。」
そこでその男は、今度はふいに視線を地面へと落とした。そこには何と・・・アスファルトの地面の上に、一人の若い男が、倒れていて・・・辺りには血の海が広がっていた・・・。それもまだ真新しく、血は淀みなく流れ出して、アスファルトの上に広がっているのであった・・・。
プリカット氏は、さすがにこの仕事を長い事してはいたが、この様な光景は・・・しかしその隣に立っている男は、平然した態度で、続けるのであった・・・。
「・・・確かに。確かにヤツが今年の始め辺りに縁起担ぎで、タロットカードだったっけかな? ・・・占ってもらったところによると、今年は、飛躍の年になるとの事だったが・・・まさか、ビルの屋上から飛躍しちまうとはなぁ・・・占いってヤツは・・・パねぇなぁ・・・ヤベぇやべェ、なんかこう・・・」
その男は、ほんの一瞬だけ、首を傾げたのであるが・・・しかしやはり平然としたまま、あさっての方向へと、立ち去って行ってしまったのであった・・・。
プリカット氏の方はというと・・・正直なところ、その憐れな、飛躍、してしまった男の事を悲しむというよりは・・・何だか明日はもしかしたら我が身なのではないのかと、ほんの少しだけなぜか身体に寒気が走って・・・やがてその場所からは段々と遠ざかって行ったのであった・・・。片手にぶら下げた、チーズの箱に、望みを託すかの様にして・・・。
11
・・・プリカット氏はやがて、もうかなり陽は暮れかけていて・・・かなりの焦りの色を浮かべながら、とある一軒の店の前へと来て・・・とりあえずこれが最後のチャンスなのではないのかと、意を決して店内へと入って行ったのであるが・・・そこはどこか、以前に見た事がある様な・・・店内には三人の男達がいて・・・一人は突っ立ったまま、片手を顎の下に当てながら、何やら時折険しい表情になったりしていたのだが・・・もう二人はというと・・・一つの、スチールラック、とでも言うのだろうか?・・・を、運んでいて・・・そう、そうなのである。ここは、プリカット氏がホテルを出てから、一番初めに入った、家具店で・・・どうやら反対側の入り口から入ったので、すぐにはそこが同じ店だとは気が付かなかったのであった。
店内の三人は、午前中と全く同じ事をしていて・・・立ったままの男が相変わらず、
「・・・ああ! もうちょっと、右。・・・じゃなかった、あと3センチ左・・・! いや・・・あと2ミリ、後ろ・・・! ・・・じゃなくて、4ミリ、前・・・!」
と、相変わらずの押し問答をしているのであった。とても重量感のありそうな、その金属製の棚を持たされた二人の店員らしき男たちは、大粒の汗をかきながら、涼しげな顔をした人の男の言われるがままに、ウロウロと、右往左往しているのであった・・・。
プリカット氏は、その光景を少しの間見物しながら・・・しかし段々いたたまれないというか・・・何だか虚しい気分にもなってきて、そうして又、その店員たちには結局声は掛けずじまいで、その店を後にしたのであった・・・。
そうして4、5分程歩くと・・・目の前に見覚えのある、構えだけはやたらと立派な、「ホテル〜・・・」何チャラが見えてきて・・・結局プリカット氏は、様々な徒労の挙げ句、どうやらこの大して広くもない町をグルリと、一周して元の地点へと戻って来てしまった様なのであった・・・。しかも、肝心の包丁は一本も売れずに・・・。
彼は心身ともにグッタリとなりながら、ホテルの中へと入ると・・・何と意外な事に、彼が初めにチェックインした時とは全く様相が違っていて・・・フロントの前には10名程の列が出来ていて、大繁盛している模様なのであった。
そしてその狭いフロントの内側では、例の三人の、フロントマン、フロントウーマン、フロントボーイとが、泡を食った様に、必死になりながら、様々な業務をこなしているのであった・・・。
プリカット氏はその様子を、ロビーにある決して座り心地が良いとは言えない様なソファーにドッカリと腰掛けながら、しばらくの間、少なくとも列が途切れるまでは、待つ事にしたのであった・・・。
とにもかくにも彼は疲れ切っていたので、しかも何一つ成果を上げられなかったという事で、その疲労感は一層、精神的なモノも加わって、ズッシリと彼の体にのし掛かっていたのであった・・・。
・・・と、そこへ、一人の男が・・・その初老の人物はつなぎの作業着の様なものを身に着けていて、麦わら帽子を被り、どうやらその雰囲気からして、農夫か何かの様なのであったのだが・・・プリカット氏に、気軽に、というよりかなり馴れ馴れしいといった感じで、話しかけてきたのであった。
「・・・いやあ、大盛況ですなぁ・・・。珍しい事もあるモンだ。」
「・・・そうなんですか?」
プリカット氏は、とても疲れてはいたし、正直一々返答する気にもならなかったのではあるのだが、少しだけその男の言った事に興味を覚えて、そう答えたのであった。
「・・・そうさね。こんな田舎町のオンボロホテルだろ・・・? 客なんか・・・普段は来るもんか。」
と、意外にもその男は、割と真っ当な事を言ったのだった。
「・・・まあ、確かに。」
するとその初老の男は、まるで自分の事の様に、勝ち誇ったかの様に言うのであった。
「・・・何でも。隣のここよりははるかにモダンな、高級な、観光名所もある風光明媚な町のホテルが、理由ははっきりとは分からぬのだが、停電したとかで・・・皆その町の客がこの町に一つしかないココに、やって来ているんだとよ。」
「・・・なるほど。」
確かにフロントにいる三人は、全く慣れぬ手付きで、慌ただしく動き回っていたのであるが・・・やがてそれでも手が足りなかったらしく、ホテルには良くありがちな、銀色の丸い形のベルを一回、チン、と鳴らした・・・が、何も起こりはしなかったので、まるで何かに取り憑かれたかの様に、今度はそのベルを、5回、いや、最低でも10回は連打したのであった・・・。すると・・・
・・・今度は何と、奥から一人の、フロントマンならぬ、かなりお歳を召された、おそらくもう一度は引退していたのではないかというくらいの、フロントオールドマン、が出て来て、非常にゆっくりとした動きながらも、意外と的確に、しかも慌てふためく事はなく・・・つまりは言い方を変えれば、非常にスロウなペイスという事ではあるのだが・・・フロント業務をこなしているのであった・・・。
・・・そうしてやがて、おおよそ20分程たった頃であろうか・・・? 実のところ、すっかり疲れ果てたプリカット氏はいつの間にやら眠りこけてしまっていて、ふと目を覚ますと、フロントの周りにはようやくお客はいなくなっていて、しかしながら慣れない三人はすっかり疲労し、憔悴しきっていて、ただ一人、老兵は死なず、フロントオールドマンだけが悠然としながら、非常にゆっくりとだが、奥へとまた引っ込んでしまったのであった・・・。
12
・・・その様子を見て、ようやくプリカット氏は、おもむろに立ち上がり・・・しかしそこでふと、本社に本日の業務連絡を入れなくてはならない事を思い出して・・・それはもちろんの事、彼にとっては非常に気の引けるというか、憂鬱な行為なのであったのだが、それをしない訳にもいかず・・・携帯を取り出して・・・しかし不思議な事に、先程までは確かに上着のポケットに入っていた筈の物が無くなっていて・・・彼はそこで、今までの疲れなどまるで吹き飛んでしまったかというぐらいの、素早い動きで非常に慌てふためきながら、自分自身で身に付けているものはもちろんの事、床やら、ソファーの下やら、辺りを文字通り這いずり回りながら、探していたのだが・・・一向に見つからず・・・と、そこへ、先程のつなぎを着た男がまた現れて、
「・・・オヤ? 一体、どうしたんですかい?」
と、怪訝そうに訊くので、
「・・・いや・・・私の・・・携帯が・・・私の携帯をどこかその辺で見ませんでしたか・・・!?」
しかしその農夫らしき男は、首を捻りながら、
「さあ・・・あいにくと私は、つい今しがたまで、便所に行っていたもんでね。」
「そんな・・・まさか・・・あれがないと・・・!」
焦るプリカット氏をよそに、その男はあくまでも余裕の表情で・・・他人事だから無理もない話なのだが・・・というより、むしろその状況を楽しんでいるかの様な、微かに笑みを浮かべながら、
「・・・いやあ、今時、スマホのない生活なんて、牛乳の出ない乳牛みたいなもんですからね? ・・・じゃ、あっしはこれで。」
と、無情にも、ホテルを出て、去って行ってしまったのであった・・・。
プリカット氏はというと・・・これだけ探しても見つからないのだから・・・もしかしたらホテルに入る前にどこかで落としたのかもしれない、確かにホテルに入った時点では、あった筈だと思っていたのだが・・・勘違いだということも有り得る。何しろ、人間という生き物は、勘違いしやすい様に出来ているのだ・・・その事実は、当のプリカット氏自身が一番、経験上でも体現していたことなのであった・・・。
・・・ともかく、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻してきた彼は、そういえば、電話でなくとも、部屋に戻ればノートPCがあるではないか? とりあえずはそれで・・・メールで報告を送りさえすれば・・・。と、気を取り直し、ようやく諦めの境地になって、フロントへと向かったのであった・・・。
フロントには・・・なぜか先程の四人、とはまた全く違う、五人目の男がいて・・・おそらく夜勤か何かで、これからがこの人物の勤務時間なのだろうか?・・・その男は、フロント・・・何と表現して良いのかは皆目、適当な言葉は出ては来なかったのであるが・・・ともかく、ボーイ、ではない事だけは確かで、かといってオールドマン、でも、ウーマン、でもなく・・・ともかく、異様なほどに頬のこけた、体全体も痩せて縮こまっていて、まるで枯れ木の様な・・・しかしもちろんの事、人間である事は確かなので、プリカット氏が部屋番号と名前を告げると、キーを弱々しい手付きで寄越したのであった・・・。
・・・またしても果てしないほどの時間が永遠に続くかの様な・・・しかしやはりそのエレベーターは、当たり前だが、彼の部屋のある階で停止すると、ギギイィッ・・・と、耳障りな音を少しだけ立てて、扉が開き・・・そうして彼は、恐ろしいほどにシンと静まり返った、廊下をまっすぐ進んで行き・・・ふと、そこで彼は、片手に大好物のチーズが入った、箱を持っている事に今更ながら気が付いたというか思い出し、そして、ようやく「616号室」の前までたどり着くと・・・キーを差し込んで中へと入ると・・・彼の期待とは裏腹に、室内は灼熱地獄になっていたのであった・・・。
・・・どうやら、彼は部屋を出て来る際に、間違えて冷房のスイッチではなく、暖房のスイッチを押していた様なのであった・・・。
そして大粒の汗をだらだらと流しながら、エアコンのスイッチを切り替えようと、その場所まで近付いていくと・・・驚いたことに、スイッチは確かに「COOL」になっていたのであった・・・。彼は試しに、「WARM」の方を押してみると・・・最初は出て来る風が全く変わらない様な気がしたのだが、少し経つと、確かに涼しい風が、出て来た様なのであった・・・ほんの少しだけ、生緩(ぬる)い風ではあったのだが・・・。・・・つまるところ、このホテルの、少なくとも彼の部屋のエアコンだけだとしても、冷房と暖房のスイッチが逆になっていたのである。
彼はこれは直ちに、クレームを入れるべき案件であると、少なくとももしこの部屋以外にも、もしスイッチが逆についている部屋があるのだとしたら、きっとおそらくその部屋の人間も相当不快な思いをすることには間違いはないのだ。・・・と、彼は相当意気込んで、フロントへと繋がっている筈の電話の受話器を取ったのだが・・・なぜか延々と通話中のままで・・・彼はやがて痺れを切らし、精根尽き果てて、ベッドの上にへたり込んだのであった・・・。
13
・・・ふと目を覚ますと・・・つまりまたプリカット氏は、気が付くとほんの少しばかりの間、寝入っていた様なのであった。
・・・が、すぐに彼が思い出した事といえば・・・傍らに置いてあった、チーズの入った箱なのであった。
彼はベッドから飛び起きると・・・すぐにその箱を、まるでバースデイプレゼントを貰った時の、少年の様に目を輝かせながら、開けるのであった・・・。
すると、ほんのちょっとだけ残念な事に、おそらく暑さのせいであろう・・・? その‘名物’チーズは溶けかかっていて・・・しかしそれは、ほんのちょっとだけ、クニャ、といった感じだっただけなので、プリカット氏は特に落胆するわけでもなく、またしても脱兎の如く素早く動き出すと、それまでこの丸一日、常に携帯していたアタッシュケースの方へと行き、そこから一本の一番切れ味の良さそうな包丁を取り出して・・・おそらくこの、商売道具、が今日一番役に立ったのは、この時この瞬間であったのではなかろうか・・・? ・・・ともかく、彼は極めて慎重に、間違っても斜めったり、あるいは最悪のケースとして、チーズが崩れてしまったりしない様に、ゆっくりと刃を入れながら・・・しかし彼の常日頃の手入れが功を奏したのか・・・まさかこの様な場面で役に立つとは、彼自身予想だにしなかったのであるが、しかし何事も、日頃の小さな行ない、善行の積み重ねが重要なのだと、切り込みを入れながら、一人悦に浸りつつ・・・そしてやがてその、まるでとろけるかの様な、実際少しばかり溶けかかってはいたのだが、純白とまではいかないが、真っ白い色をした、表面がウネウネと波打つかの様な紋様のついた、そして独特の匂いを放つ、チーズの一切れを口に運びながら・・・しかし小さな一切れという事もあってか、彼はよく噛まずに飲み込んでしまったので、欲をかいてもう一切れ、今度はもう少し大きめに切って・・・今度は確実にもぐもぐと噛みしめながら・・・しかし人間の、欲、というものは果てしが無く・・・気が付くと、ひと箱買った筈のそこそこの大きさの塊であったチーズは・・・あっという間に、彼、プリカット氏の胃袋の中へと、吸い込まれてしまったのであった・・・。
・・・しかしながら、当のプリカット氏自身は非常に満足をし、ご満悦の、やや恍惚とした表情になりながら・・・その余韻に浸っているところなのであった・・・。
・・・その部屋の中、「616号室」の中は・・・ただエアコンのブゥゥン、というほんの微かな音以外には、異様なほどの静けさで・・・ベッドの上には、プリカット氏が座り・・・その横には空になったチーズの箱だけが・・・。
そうして夜は・・・更けていった・・・のであった・・・。
・・・次の日の朝。
その、「ホテル・スーパーマーケット・カリフォルニア」の、13階のフロアの長い長い廊下には・・・例の三人のフロント〜・・・達がいて、そこへ、フロントオールドマンが、マスターキーの束をジャラジャラと言わせながら、ゆっくりと「616号室」と書かれたその部屋のドアの前まで来ると、キーの一つを、鍵穴に差し込んだのであった・・・。
それをすぐ横で見ていたフロントマンは、
「おかしいなぁ・・・この部屋はかなり長い事、誰も使っていなかった筈なのに・・・?」
と、首を傾げ、
フロントウーマンも、
「・・・ですよねぇ。・・・確か倉庫にして、最近ではキーがしっかりと掛かっていた筈なのですけど・・・」
すると今度はフロントボーイが、その佇まいだけは、立派なホテルの従業員、といった感じで、
「・・・ですが。・・・確かにこのフロアのお客様から、異臭がしていると・・・フロントの方に連絡が有りましたものですから・・・」
しかしそれでも、相変わらずフロントマンは、首を捻りつつ、
「大体・・・この13階自体、本来はお客は泊めない筈なんだが・・・? 昨日今日だけは、隣町のホテルのせいで空き部屋が無く、仕方がなく、お一人様だけ、の筈なんだが・・・」
そうこうしているうちに、ガシャリ、という音とともに、かなり錆び付いていたのか、ギギィ〜・・・と、重々しくその扉は開いて・・・
「ウッ・・・!」
思わず三人は、部屋からやって来る熱気に声を上げてしまい、さらには鼻をつく様な異臭に、思わずフロントオールドマンまでもが、顔をしかめながら・・・しかし彼らとしては、部屋の中に入らない訳にもいかず・・・おそるおそる踏み込んでいくと・・・なぜかその、倉庫、だという部屋の中では、エアコンが、それもこの暑いさ中、「暖房」になっていて・・・慌ててフロントボーイがそのスイッチを切ったのだった。
そして四人が部屋の中を改めて良く見渡すと・・・確かに小綺麗に片付いてはいて、倉庫、と言う割には、物が所狭しと置かれていると言うよりは、まるで誰かしらがつい最近まで宿泊していたかの様に・・・そしてベッドの上には、一つのカピカピになった紙の空き箱が一つと・・・きちんとシーツが敷かれ、そのシーツには・・・まるで水溜りの様な、濃いグレーっぽい色の、染み、がついていて・・・四人のうちの誰一人として、それには気持ちが悪くて触れもしなかったのだが・・・フロントウーマンが、意を決した様に、顔だけ近付け、その匂いを嗅いでみると、思わず、
「・・・ングゥッ・・・!」
と言葉にはならない様な唸り声を上げ、鼻をつまみながら、
「・・・何かこう・・・まるでそう・・・腐ったチーズの様な・・・臭いがします・・・」
とだけ、報告をしたのであった。
しかしながら、元々この部屋を利用していた宿泊客は、事前にフロントで名簿を確認したのだが、記載されてはおらず、特には事件性はないとの判断で、
「・・・きっと、ネズミか何かが、忍び込んで餌でも探していたんでしょうよ・・・。まあ、よくある事です・・・。」
と、フロントマンがそう述べると、他の三人もまるでその言葉を待っていたかの様に、納得したように頷くと、
「・・・よし。とにかく、この部屋はきれいに清掃して、完全に封鎖してしまおう。・・・清掃員を二、三名ほど直ちに呼びたまえ・・・!」
との、フロントオールドマンの指示で、フロントボーイが大急ぎで部屋の外へと駆け出して行ったのであった・・・。
「・・・チーザス・クライスト・・・!」
・・・などと、訳の良く分からない呪文のような言葉を呟きながら・・・。
残りの三人は、皆一様に鼻をハンカチか何かで押さえるか、指でつまみながら、顔をしかめて、部屋を出て行くのであった・・・。
・・・「616号室」の扉がバタン、と閉まると、その振動でなのか、ベッドの上から、ほんの小さな何かが・・・ヒラヒラと床に落ちて・・・それは一枚のかなり色褪せた名刺なのであった。そこには、「フ・・・プ・・・ト」と、ほんの一部分だけが、かろうじて判別出来るほどに擦れて、文字が書かれていたのであった・・・。
そして、フロントボーイがスイッチを切ったにも関わらず、相変わらず部屋の空調は、ブゥゥゥ〜〜ン・・・という、低い唸り声を上げながら、いつまでも、動き続けているかのようなのであった・・・。
終わり
ルームナンバー616 福田 吹太朗 @fukutarro
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