食べ残しに気をつけて

黒鉦サクヤ

食べ残しに気をつけて

食べ残しに気をつけて



 人のまばらな歩道を、緩いウェーブがかった長い髪を揺らしながら女が走る。歩道橋を駆け上がり、下りの三段ほど残してジャンプすると、柔らかそうな栗色の髪は風を受けて青空に舞い広がった。

 女は舞い上がる髪を軽くおさえながら真横に来た腕時計に視線をやり、軽い舌打ちをする。


「信じられない。間に合わなかったらアイツのせいだわ」


 ため息を吐き、ほんの少し息をつくために女は足を止めた。風に弄ばれた髪を手ぐしで軽く直し、再び走り出す。


「もう、お腹は膨れたけど本当に最悪」


 これから歯医者だっていうのに、とぼやきながら、歩いている人が少ないのを良いことに歩道を駆け抜ける。

 目指す歯科医院はもう少しだ。このまま信号に捕まらなければ間に合うはずと、女はラストスパートをかける。

 目の前の信号は赤だったが、横断歩道に着く頃には青に変わっているはずだった。

 よし、とスピードを緩めることなく女は走る。五センチほどあるヒールは走りづらく、痛んでしまうヒールのことが一瞬だけ脳裏を過るが、気にしている暇はない。

 初めて行くところだが、予約の時間に遅れるとペナルティのある歯科医院なのだ。しかもそれは今回だけではなく、次回以降の予約にも響いてくるという。予想では治療で少し通うことになるはずなので、遅れたくはなかった。障害はできるだけ取り除いておきたい。


 そして、女の予想通り信号は青になり、トップスピードのまま歯科医院へと駆け込む。

 診察券を受付へと差し出しながら壁にかかった時計を確認すると、予約時間の一分前だった。

 受付の職員は息荒く差し出された診察券を笑顔で受け取り、女をソファへと促した。

 女は弾力のあるソファに沈みこみ、疲労回復に務める。汗で顔に張り付いた髪の毛を避けながら、ハンカチで汗を拭うが、せっかく丁寧に下地作りからした化粧も落ちているに違いない。

 休んだ途端に重くなった体を引きずるようにして立ち上がり、女は鏡の前へと向かう。見てみれば思ったより化粧は落ちておらず、女が朝見た顔とほぼ同じ顔をした自分が映っていた。

 二十五という歳の割には可愛らしさの残る顔をしている。二重でぱっちりとした大きめの瞳が少し幼さの残る表情を作り出し、張りがあり艷やかな唇が印象的だ。しかし、女は肌を美しく見せる努力はしているが、基本的にそれ以外は適当だった。化粧にかける時間の殆どを下地作りに当てていたのだった。それに今は新陳代謝が良くなっており、頬はバラ色に染まっていてチークいらずだ。髪も手ぐしでなんとかなる。

 女が心配していた最悪の自体は免れた。ドロドロに崩れていたら流石に化粧直しをしようにも無理だと思っていたが、女は安堵のため息を吐く。

 そのため息を待っていたかのように、女の名前が呼ばれた。


舘福音奈たちふくねなさーん、どうぞ診察室へ」


 音奈と呼ばれた女は、重い足を引きずり診察へと向かう。

 ここに辿り着くことに夢中で忘れていたが、奥の歯の痛みを思い出したからだ。

 今日の目的はそれだった。気になりだすと、どうしてもそこへ神経が集中してしまう。微かに顔をしかめながら、音奈は診察台ごとに隣とパーティションで区切られた診察室を進む。

 こちらです、と診察台を示されて音奈はパンプスを脱いで腰掛けた。脱ぐときにヒールを眺めるが、やはり随分と痛めてしまったようだ。そんなに高いパンプスじゃないからいいや、と音奈は傷つきすり減ったヒールを諦めた。

 ドクターか歯科助手がくるまで暇だとぼんやりしていると、音奈の鼓動にあわせて歯に痛みが走る。

 我慢できないほどではないが、歯の痛みは普段感じる他の体の不調より気分が悪い。神経に障る。

 まだかな、と音奈が辺りをさり気なく見渡すと、ドクターの他にスタッフも多いがそれぞれが忙しそうに動き回っていた。流行っているようで何よりだ。閑古鳥が鳴くところよりよっぽどいい。

 しかし、気にし始めると痛みは強くなる。早く来てほしいと痛みで唸りたいのを我慢していると、ようやくドクターがやってきた。

 一重でスッキリとした形の瞳が印象的な美人だ。クールで知的な感じが音奈には好印象に映る。


「舘福音奈さんですね。担当する倉石です」


 胸元にあるスタッフ証には、倉石久桜くらいしくおうと書かれている。


「よろしくお願いします」

「はい。今日はどうされましたか」


 流れるように質問は進み、レントゲンをとって、やはりこの痛みは虫歯だと診断された。音奈は、やっぱり虫歯かー、と項垂れる。

 しっかり磨いているつもりだったが、奥歯は磨きづらく疎かになっていたようだった。音奈が歯科医院に来たのは子供の時以来だ。

 子供だった頃より進歩している治療方法で良かったと、音奈は胸を撫で下ろす。痛いのは極力遠慮したい。

 治療されるときは無防備で、どこか心許ない。耳を貫くような高い音が響き、麻酔をかけているからそこまで痛みはないが振動が恐怖を煽る。

 音奈は目にタオルを乗せられた状態で自然と拳を握り、体を固くしながら治療が終わるのを待った。


「はい、今日はここまでですね。お疲れ様でした」

「ありがとうございました」


 椅子を起こされ、音奈はげっそりとした表情で口を濯ぐ。音奈にとっては十年ぶりくらいになる治療は、目隠しをされた状態で行われていて何をされるのかが予測できないため恐怖の連続だった。精神をすり減らしながら進む治療に疲れ果てていた音奈は、久桜が自分のことを見つめているのに気付かなかった。

 何度か口を濯ぎ、ため息とともに紙コップを置く。


「次は二週間後ですね」

「分かりました」


 音奈が傷んだヒールを気にしながらパンプスを履き待合室に向かおうとするのを、そうそう、と久桜は手を引き止めた。

 驚いて振り返った音奈は、久桜が手にしているものに釘付けになる。

 そこにあったのは一本の人の手指だった。久桜の指の数を数えても十本あり、それが彼女のものでないことは明らかだ。


「食べ残しには気をつけないとね」

「食べ残し……」


 呟いた音奈は、勢い良く後頭部をおさえる。手ぐしで触ったときには何も引っかからなかったと思ったが、指が一本ついていたに違いない。走ったときの揺れでも落ちなかったのは、きっと後頭部にある口がこっそりとくわえていたから。おやつにするつもりだったのか、どうなのか。


 この歯科医院に来る前、音奈は質の悪い者に絡まれ、急いでいたこともあり昼間は我慢するご馳走を後頭部の口が食べてしまったのだ。

 人間界には魑魅魍魎の類も隠れて暮らしており、音奈は二口女の子孫だった。

 知られてしまった、と音奈の顔が真っ青になる。人間界で自分の正体に気付かれることは死を意味する。

 しかし、久桜は笑いながら声のトーンは抑え、安心させる言葉を吐く。


「誰かに言いふらしたり、退魔師なんかに告げ口したりもしないから安心して」

「……信用できないんですけど」

「あら、これでも?」


 そう言うと、久桜の後頭部がぱっくりと割れ、そこに音奈も見慣れた口が現れた。尖った歯は真っ白で、丁寧なケアがされているに違いない。


「え、アナタも」

「そういうこと」


 手にしていた食べ残しの指をためらいなく後ろの口に放り込んだ久桜は、間接キスね、と笑みを深めた。


「次来たときは、もう一つの口も見てあげるわね」

「……けっこうです」

「あら、間接キスもした仲なのに?」

「勝手におやつ食べられただけなんで。誰にも言わないでいただけたら、それだけでいいです」

「残念だわ。受付の時計、実は遅れているのよね。ペナルティが加算されて……」


 言葉を遮るように、音奈は久桜の前に手を差し出す。

 首を傾げる久桜に、音奈は悔しそうな震える声で告げた。


「くっ……ぜひ、次は後ろの方もお願いします。ケアしたことないんで。なので、ペナルティは……」


 面倒くさいことを少しでも回避したい音奈は必死だ。

 なぜこの歯科医院を選んでしまったのか、過去の自分を殴りたかったが後の祭りだ。今から他に移りたくても、二口女であることを言いふらされる可能性があるのに、それを放置し他のところになど行けない。

 後ろの口を見せるだけでいいなら、もうそれでいいと半ばヤケクソだった。


 久桜は小動物のように震えている目の前の人物を眺め、喉の奥で笑う。可愛いなぁ、と満面の笑みを浮かべながらメモ帳に自分の連絡先を書き、差し出された音奈の手を握り渡す。


「音奈さん、可愛いから気に入っちゃった。二週間後と言わず、今日にでも連絡待ってるわね。お仲間同士の情報交換もしましょう」

「えっ、そういう話ではなくて……」

「連絡をもらえなかったら、悲しくて誰かに話してしまうかも」


 これは脅されている、と音奈はがっくりと肩を落とした。久桜がクールな美人で好印象だと思ったのは気の迷いだった、と思う。これはだめなタイプの大人だ。気に入ったおもちゃに執着し、飽きるまで溺愛するタイプだ。音奈は自分の不運と後ろの口の意地汚さに絶望し、空を仰ぐ。

 口から出る言葉は諦めの言葉だ。


「分かりました。連絡しますね」

「ええ、待ってるわ」


 上機嫌で手を振るもう一人の二口女こと倉石久桜を背に、音奈は哀愁を漂わせながら受付へと向かう。もうどうにでもなれ、と音奈はヒールが駄目になりつつあるパンプスを引きずるようにして歩き、ソファに座る。

 今は麻酔で痛みはないが、しばらくしたら徐々に痛みが出てきて、ぼんやりとしている今日の出来事も現実味を増すのだろう。

 やはり今日は厄日だアイツのせいだ、と後ろの口が食べてしまった腹の立つ人間を思い出す。アイツに捕まらなければ、ここで正体が明かされることもなかっただろう。本当に忌々しい、と音奈はため息を吐く。


 会計のために呼ばれたときに顔を上げると、受付の奥にある部屋がほんの少し見えた。ろくろ首が見えた気がしたが、音奈は頭を振り気のせいということにする。これ以上、頭痛の種を増やしたくなかった。


 歯科医院を後にした音奈は、空の青さに目を細め、自分の不運を呪うのだった。

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