第241話 武田の名跡
◇
五月七日。
孝高が新府城を去り、客人もいなくなったところで、わたしは新府城に景頼を呼びつけていた。
ちなみに晴景もわたしの隣にいる。
「――兄上、姉上。お呼びにより参上致しました」
「うむ。大義だ」
晴景に労われて、景頼は面を上げた。
「この度はよく働いてくれた。褒めてつかわす」
「ありがたき幸せにて……。されど、高遠城では兄上のご尽力あってのことであり、私一人では如何ともし難く……」
「まあ、そう改まるな。ここには身内しかいないぞ?」
晴景の言うように、景頼を呼びつけたのは内々の話をするためである。
「景頼のことは色葉も評価している。そこで二人で相談したのだが、この武田の旧領である甲斐と信濃の二ヶ国を、そなたに任せようということになった」
「な……!?」
思ってもみなかったのか、景頼は驚いたように目を見開いた。
うん。
反応が良くて大変よろしい。
「し、しかし私のような未熟者では、とてもそのような大任を果たせるものか……!」
「だったら精進しろ。お前はわたしの弟なのだろう? だったら泣き言など不愉快だぞ」
つい口を挟んでしまった。
「は、はい……」
しゅん、となる景頼。
景頼は少々わたしを気にし過ぎるところがある。
離れてはいたが、過保護にし過ぎたかと思わないでもない。
「色葉よ。まあそう言うな。未熟者ならば俺とて同じ。そなたの言葉を聞かずに失敗したことなど、数知れぬ」
「……うん。それもそうか」
それでことごとく晴景のことを許してきたのだから、わたしも甘いものである。
「失敗したといえば、今回の武田の滅亡も、わたしの判断が及ばなかったところも大きい。そういった意味では苦労をかけた」
「そ、そんな、姉上がいなくては、とうに北条や織田にこの地は食い荒らされていたはずです。功はあれど、失策などありえませぬ!」
「とはいえ、滅んだという結果は変わらないからな」
最善は尽くしたが、それでも結果はこんなものだ。
「そこでだ、景頼よ」
改めて晴景が口を開く。
「武田は滅びたが、これをそのままにしておくつもりはない。そなたはこれより武田景頼と名を改めて、武田家の名跡を継ぐのだ」
「私が、武田家を……?」
「もう決めたことだ」
晴景にそう言われては、景頼に否やもあろうはずがない。
景頼自身は朝倉の者であり、武田とは何の血縁関係も無い。
しかし正室との間に子ができれば、それは武田の血を受け継ぐことになる。
「武田の旧臣どもはお前に預けよう。好きに使え」
単なる体裁に過ぎないかもしれないが、それでも武田家に仕えていた面々は、やはり主家への思いが良くも悪くも強い。
であれば、これを利用するのも一つの手だろう。
そういった意味で、景頼の存在はおあつらえ向きだったのである。
「いいか、景頼。お前の仕事は主に二つだ」
「はい」
いつものぞんざいなわたしの言葉に、しかし景頼は緊張したように背筋を伸ばし、耳を傾けた。
「一つは国内の安定。やはり甲斐にしろ信濃にしろ、越前などに比べると貧しく、民も疲弊している。山がちで海も無く、なるほど信玄が苦労したのも頷けるな」
これまであれやこれやと朝倉が支援してやって、それでもこんな状況である。
史実で武田が滅亡した時はもっと酷かったはずで、その滅びも必然であったのかもしれない。
「まずは民を慰撫して機嫌をとっておけ。人気取りは大事だぞ?」
「姉上ならばさぞかし人気者でしょうが、私などではとても……」
何やら苦笑してそんなことを言う景頼。
「しかし景頼よ。色葉には及ばずとも高遠城ではそなたの人望も、なかなかのものと思ったが?」
晴景もわたしが人気者というくだりは否定しない。
いったいどんな人気なのかって思ってしまうが。
「戯言はあとにしろ」
「は、はい」
「国内の安定も急務だが、同時にお前がやらなくてはいけないのは、駿河と遠江の接収だ」
正確には駿河と遠江半国を、である。
「穴山梅雪が伊豆に撤収するから、これを引き継げ。しばらくは暫定的にお前が統治しろ。ある程度落ち着いたら代わりを寄越すから、それの面倒を見てやれ」
「代わり、でございますか」
「ああ。つい最近、仕官してきた輩がいてな? 面白そうだったからそのまま利用することにした」
「それは、どなた様で……?」
「今川氏真だ」
今川氏真といえば、名家である今川家の最後の当主だった人物である。
桶狭間の戦い以降、今川家は急速に勢力を衰えさせ、ついには武田信玄と徳川家康によって侵攻を受け、滅ぼされたのだ。
滅亡後、氏真は正室の実家である北条家にしばらく身を寄せた後、北条氏康の死によって氏政が方針転換したことを受け、徳川家へと向かい、これに仕えていたのである。
しかしその徳川家も一度は滅亡し、氏真は禄を失って放浪していたのだという。
そして今回、朝倉家に仕官してきたという次第である。
「姉上……まことに言いにくきことではありますが、今川氏真殿といえば、国を滅ぼした張本人ではありませんか。それをいきなり駿河の国主に据えるなど、如何なものかと思います」
珍しく、景頼がそう反論してきた。
それくらい、氏真の風評はいまいちなのだろう。
「お家を滅ぼしたことがそのまま暗君の証明であるというのならば、朝倉義景も、徳川家康も、武田勝頼とて無能者だったことになるな」
「で、ですが」
「まあ氏真に家中を統率する力が無かったことは、わたしも認めるところだ」
とはいえ、である。
氏真の今川家は、織田信長や武田信玄、徳川家康といった名だたる連中に寄ってたかって滅ぼされたようなもので、憐れといえば憐れな人物だ。
しかし滅亡時には最後まで徹底抗戦し、一部の家臣もこれに従ったことから、まったく人望が無かったわけではない。
また文化人としてはずいぶん達者だったようで、当主としては及第点に至らなかったとしても、個人としては評価すべき点もあったのだろう。
「確かに戦乱の世では文弱な暗君と評されるのかもしれないが、太平の世であればその才を如何無く発揮できただろう。これからはそういう者も必要だ」
戦ができるだけではこの世の中、ままならないのである。
「とはいえ今のままではあまりにあまりであるから、しばらくわたしが預かろう。多少はましにして送り込んでやる。氏真を駿河の国主とはするが、基本的には景頼、お前が操れ。補佐と称して何人か、信用の置けるものを送っておくんだな」
氏真はあくまで飾りで、文化の振興でもやらせておけばいい。
「いいか。これで朝倉家は北陸道、中山道、東海道と東西を結ぶ主要な街道を全て押さえたことになる。特に景頼、お前は中山道と東海道を掌握する立場だ。これを整備し、交易を増やし、収入として国内を潤わせろ」
「――はい」
事実上、この日ノ本は朝倉家によって東西に分断された。
あとはこれを活かしていくだけである。
「責任重大ではありますが、兄上や姉上のご下命とあれば、精進いたします」
殊勝にこれを受けた景頼に、晴景などは満足げに頷いていた。
わたしとしても、甲信に信の置ける身内がいるのは気が楽だった。
景頼ならばまあ、無難にこなすだろう。
家康の動向には気を付ける必要もあるが、これは景勝にしっかり監視させておく。
「景頼」
「はい」
「もう少しこちらに残って推移を見守りたかったが、そろそろ越前に引き揚げることになった。数日後には立つ。後は任せたぞ」
「……残念ではありますが」
「わたしもだがな。何かあったらまず昌幸を頼れ。あれはお前の弟の舅でもある。信春の代わりと思え」
今回の武田滅亡に伴って、多くの優秀な武田の家臣どもを失っている。
しばらくは人材育成にも力を入れなければならないだろう。
「落ち着いたら一乗谷に来い。その時はもてなしてやる」
こうして諸事をある程度片付けたわたしは、晴景と共に帰国の途についた。
晴景に先行させるつもりだったのだけど、結局二人してになったのは、あくまで晴景がわたしの身体の具合を心配してのことである。
おかげで道中では楽をすることができて、ありがたいといえばありがたかった。
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