第229話 凋落の運命


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 今回の朝倉色葉との会談は非公式で密談の類ということもあり、家康は早々に切り上げて新府を出、甲府へと戻る最中にあった。

 色葉が遣わせた大日方貞宗なる家臣の計らいは行き届いており、あの色葉は一見横暴な態度とは裏腹に、その行為は気遣いに満ちているようですらある。

 やや意外ですらあった。


「直政よ、如何したか」


 道中、黙りこくっていた直政へと、家康は何気なく尋ねてみる。


「いえ……。あの朝倉の姫のことが忘れられず」

「ほう? 懸想でもしたか」

「とんでもありませぬ! あのような者、とても手に負えようはずもないではありませぬか」


 素直な感想に、家康はさもありなん、と頷いてみせた。


「嫁などはな、直政。気位など持たぬ身分の低い者で十分なのだ。あれはわしにも手に負えぬぞ」

「はあ……」


 嫁の話はともかくとしても、確かに噂通り、あの色葉なる姫の難易度は織田信長に匹敵するところだろう。

 話すだけで神経がすり減っていく気分であるのだから、これはただ事ではない相手である。


「信長殿が手玉に取られるわけだ。わしではとても叶わん」

「何を情けないことを。殿とて後れをとるものではありますまいか」

「世の中、張り合っても損をするだけ、という相手はいるものだ。そういう場合は長い物には巻かれろ、の精神で乗り切るほかあるまい」


 家康にとって、その頭を押さえつけてきた存在というのは、実に枚挙にいとまがない。


 ――例えば今川義元。

 幼き頃は今川家の人質であり、その後は臣従してこれに従っていた。


 ――例えば織田信長。

 桶狭間の戦いを契機に独立を果たした家康は、その立役者である尾張の織田信長と清州同盟を結んだ。

 しかしその関係は、必ずしも対等であったとは言い難い。

 家康は織田家の援軍として近江や越前まで遠征し、浅井家や朝倉家と戦っている。


 ――例えば武田信玄。

 これは信玄に限らず、武田家自体が家康にとっての宿敵となった。

 三方ヶ原では大敗し、長篠では雪辱をはらすも、ついには武田勝頼によって徳川家は滅ぼされるに至ったからである。


 次は北条かと思っていたが、どうやら朝倉に鞍替えした方が賢いというものであろう。

 北条氏政は決して無能ではない。

 むしろ民政家として有能ですらある。


 しかしそれでも、あの朝倉色葉の敵ではないだろう。

 今は互角に渡り合っているが、いずれ滅ぼされるのは目に見えている。

 少なくともそういう相手であると、家康は今日の会談をもって思い知った。


 あれは、敵対するにはあまりに危うい相手である。

 本能がそう訴えかけ、それが正しいと今では確信している。


 今回はその色葉自身からの誘いであり、思わぬ僥倖であったといえるだろう。

 こちらから打診したところで足元を見られようが、引き抜きとあれば話は変わってくる。


 実際、色葉は実に太っ腹のようで、武蔵や相模どころか、駿河までの領有を認めてくれたのだ。

 これは驚きだった。


 もちろん、駿河を得るには穴山梅雪をどうにかしなくてはならないが、元より梅雪を北条に引き込んだのは家康である。

 当然、これを取りこぼすつもりなど毛頭無い。


「朝倉色葉、か……。確かに恐ろしき相手ではあるが、要は最後まで生き残った者こそを勝者と呼ぶのだ」


 確かに色葉の存在は信長に匹敵する。

 しかしだからこそ、その凋落の運命もまた大きいのではないか。


 家康は信長に対して漠然と感じていたものを、あの色葉に対しても感じていたのである。

 そしてそれこそが、家康が信長ではなく北条を選んだ理由だったのだが……。


「まあ、あのような妖であれば、ひとの運命の輪などには捉えられんのかもしれないが。ともあれ今は生き残ることこそを最優先しようぞ」


 こうして家康は、更なる忍従の日々が続くであろうことを、改めて受け入れたのである。


     ◇


 天正十年二月三日。


 美濃岐阜において、信濃出兵の準備を始めた信長の元に、思わぬ報せがもたらされた。

 すなわち高遠城の陥落である。


「なに、信忠は動いたのか」

「は。戦勝の報が届いておりますゆえ」

「ふうむ……」


 光秀の報告に、信長は唸ってみせた。

 信長の名代として兵を率い、総大将の任にあった織田信忠は、途中までは快調に信濃侵攻を推し進め、順調であった。

 これは武田方がすでに士気低く、抗戦意欲が失せていたことにもよるが、それでもこのままいけば諏訪郡を制圧し、そのまま新府に押し寄せることも可能であると思わせる勢いだったことは確かである。


 ところが高遠城に朝倉の援軍が到着したことで、事態は大きく変化した。

 信忠はこれを抜けず、そのうちに朝倉との和睦を意見具申してくる始末である。


 そんなことをしている間に、共闘していた北条家が武田を滅ぼし、甲斐を平定してしまった。

 これは如何にも信忠の失態である。


 それでも再三に渡って朝倉との停戦や和睦を主張してくる信忠に対し、業を煮やした信忠は総大将の任を解くことを表明。

 しかしそれはあまりに体裁が悪く、信忠の面子を潰す行為であると、多くの家臣に説得された信長は、年明けを待って自ら出陣し、その上で総大将の任を引き継ぐという形で体裁を多少は取り繕うことにしたのだった。

 信忠も殊勝にこれを受け入れたという。


「ここに来てようやく見どころを示したか。信忠め、最初から本気を出せば良いものを」

「とはいえ勝利には違いありませぬ。朝倉方は新府まで兵を退いたとのこと。道は開けましたぞ」

「ふん。新府では北条氏直が苦戦しているようだが、ここで挟撃できれば勝利は確実か」

「無理に攻める必要もないでしょう。兵站さえ断てば、それでよろしいかと」

「まあ迎撃してくるだろうがな」


 朝倉方も素直に退路を断たれるのも黙って見ているはずもなく、状況によっては深志や小諸からの増援もあり得ると考えた方が自然だ。

 となれば、そう容易い戦であるとも言い難い。


「……このまま信忠様に、進軍をお命じになりますか?」

「俺が着くまで待てと伝えよ。状況を俺が見極めてから判断する」

「ではそのように」


 ようやく事態が進展したことに気を良くした信長であったが、その三日後、不穏な情報に眉をひそめることになったのである。


「それはまことか?」

「は……。大垣城の氏家直昌殿より火急の知らせなれば」


 光秀が言うに、近江佐和山城に兵が集められ、美濃侵攻の気配を漂わせているという。


「その数は」

「近江、若狭、山城の各所より人が集められているようで、およそ一万かと」

「多くは無いが、厄介な数だ」


 信長はこの岐阜に、増援となる二万の兵を集めている最中であり、それをもってすれば十分に対抗できる戦力である。

 しかし、動きはとれなくなる。

 一万で二万の兵の動きを止めるのであれば、実に効率がいい。


「実際に攻めてくると思うか、光秀?」

「十中八九、牽制でしょう。我らの増援の動きを読んだのやもしれませぬ」

「であろうな。しかし無視するには多すぎる兵力だ」


 信長は羽柴秀吉の侵攻にも備えて、伊勢方面にも少なからず兵力を置いている。

 今のところ、秀吉に侵攻の兆しは無い。

 であれば、これをもって対応する他ないだろう。


「ところで敵の大将は誰だ?」

「はっきりとは分かりませぬが、氏家殿が申しますに、武田元明ではないかと」

「若狭の小童か」


 信長は忌々しいとばかりに舌打ちする。

 元明は幼き頃、一乗谷に軟禁されていたという経緯がある。

 朝倉氏の滅亡と共に若狭へと帰国を果たすことになったが、信長は元明を冷遇し、若狭一国を丹羽長秀に与えたのだった。

 その後、朝倉家を再興した色葉は若狭を奪取すると、これを元明に与え、国主としたという。


 元明は色葉に従い、先の近江の戦いでは佐和山城を落とす戦功を上げていた。

 どうやら色葉は血縁者である元明を比較的厚遇し、元明もまたこれに応えてその頭角を現していっているらしい。

 これを重く用いなかった信長にしてみれば、いい皮肉であった。


「元明には京極高吉の娘である竜子が、正室として嫁いだとのことですからな。若狭はもちろんのこと、近江での影響力も少なくはありますまい」


 竜子の母親は北近江の戦国大名であった浅井長政の姉であり、父親の高吉はその浅井家の主家筋にあたり、近江守護を務めた家柄でもある。

 共に近江で影響力のあった家柄だ。

 京極家は没落し、浅井家は滅んだとはいえ、未だその影響力は侮れないものがある。

 朝倉家はその辺りも踏まえて、元明のことを多用しているのだろう。


「佐和山城を落としたことからも、無能者ではなかったらしい。まあ良い。ともあれ警戒が厳にせよ。大垣の直昌には油断するなとな」

「は。……では、信濃侵攻は予定通りに」

「いや」


 そこで信長は一考し、改めて光秀を見やった。


「お前は信忠が戻るまで、岐阜に残れ。美濃の防衛は任す」

「承知致しました」


 このように信長による信濃侵攻軍増援の準備は、少しずつであったが遅延していった。

 翌日には飛騨方面、越前方面にも不穏な動きありとの報告により、その対応のために時間を要することになったからである。

 そして信長にとっての運命の日は、刻一刻と迫っていた。


 すなわち天正十年二月十四日。

 濃州大乱である。

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