第201話 樋口兼続
◇
援軍として上野沼田城に入っていた上杉景勝の元に、色葉よりの使者として雪葉が訪れたのは、六月十三日の夜のことであった。
十一日の早朝に深志城を出て、わずか二日後のことである。
常人ではまず不可能な速度ではあるが、これは当然、人ならざる雪葉ならではの速さゆえだ。
ほぼ休み無しで道中を走破し、これに従った隆基などは疲れを知らぬ亡者であるにかかわらず、ついて行くのが精いっぱいだったのである。
十三日の夕方には到着し、身支度を整えた雪葉は、すぐにも景勝との会見を望み、景勝側もこれを断ることはできなかった。
「では、色葉殿が我らの仲裁をして下さると、そう言われるか」
「はい。姫様はそのように仰せです」
新発田重家の謀反により、沼田にて足止めをくっていた上杉勢であったが、その沼田に朝倉の使者が飛び込んできたことには、やや驚いたものである。
そして使者として訪れた雪葉は、武田家の現状の報告と、越後国で発生している謀反の収束の協力を、申し出てきたのであった。
「それがありがたいことであるが……」
「――使者殿」
不意に、景勝の横から新たな声が滑り込む。
その隣に控えていた若い男が発したものだった。
「仲裁、とおっしゃられるが、一体どのようにしてそれを為していただけると言うのです?」
雪葉に対して全く物怖じすることなく、その若い将はその問い質す。
「あなた様は?」
「これはご無礼を。私は樋口兼続と申します」
この男が、と雪葉は気を引き締めた。
これまで幾度となく越後に足を運んでいた雪葉であったが、その噂は聞いても一度も直接顔を合わせたことの無い相手である。
雪葉はこの兼続は上杉家中にあって侮れぬ人物であると報告し、色葉もまたその言を容れてくれていた経緯があった。
「して、如何にして新発田殿の謀反を収めると?」
兼続の眼光は、まるで値踏みするかのように鋭い。
雪葉はそれに対し、微笑を拵えて柔和に答えた。
「そもそもこの度の新発田様のご謀反は、論功行賞にご不満あってのこととか」
「我が上杉の失策であると?」
「その是非については、この場で語るべきことでもないでしょう」
「されど、我らの名誉に関わる――」
「待て、兼続」
反駁しようとした兼続を止めたのは、景勝であった。
「雪葉殿の申される通り、此度のことは我が不徳によるもの。色葉殿はお笑いであろう」
「ご事情があられたのでしょう。そしてそれは、朝倉家の感知するところではありませぬゆえ」
「お優しいな、雪葉殿は」
あの色葉ならばどのような皮肉をくれたものだろうかと、ふと景勝は考えてしまう。
「……話を戻そうか。それで色葉殿は、どのようになさると仰せか?」
「はい。新発田様の動機が恩賞の不満であるのならば、満足するものを与え、矛を収めさせるが得策と」
「謀反を起こした者に、おもねろと?」
それこそ不満も露わに兼続は口を挟む。
「武勇で知られた朝倉殿であれば、それこそ再び越後に軍勢を派遣していただけるものかと考えましたが」
「新潟の地は遠くございます。それに今は武田家の窮地。失礼ながら越後のことなど姫様にとっては些末事。されど上杉家とは縁もあり、誼もある間柄です。見捨てるは忍びなきとお考えなのですよ」
表情はどこまでも麗しいものであったが、雪葉の言葉は明らかに挑戦的であった。
「今さら上杉様が、新発田様に恩賞を与えることなどできぬ相談でしょう。ですから代わりに我が朝倉家が、新発田様の望むものを与えると申しているのです」
「なに……?」
それは兼続をして思わぬ内容だったのだろう。
一瞬、意味が分からぬとばかりに兼続は目を見開いた。
が、その思考力は早い。
「それは……つまり、色葉殿は新発田殿を……?」
「ええ、その通りです」
雪葉は笑む。
相変わらず柔和なものであったが、兼続には瞬きの刹那、氷の微笑が見えた気がした。
「姫様は新発田様を朝倉家に迎え入れるご所存。そして朝倉家と上杉家は友好的な関係です。であれば、例え領地を接していたとしても、新発田様が上杉様に弓引くこともなくなるでしょう?」
「――――」
本気で言っているのか、と兼続は怒るよりも戦慄した。
友好国の将が罪を犯したにもかかわらず、共に咎めるでもなく庇い匿うとはいかなる了見であるのか。
しかもこの場合、そんな単純な話でもない。
雪葉――いや、色葉は言っているのだ。
新発田重家の独立を認めろ、と。
そしてその後ろ盾は朝倉家であると。
そんなことを認めれば、下越後一帯が上杉家から離反することになる。
上杉家の力は更に縮小されることになるだろう。
それを承知で色葉は言ってきている。
こうなると、重家の謀反は裏で朝倉家が関与していたのではないか、と思ってしまうくらいだ。
「……そのようなこと、呑める筈もないでしょう。朝倉家の手は借りませぬ」
「……あら、それで本当によろしいのですか?」
雪葉からいつの間にか笑顔が消えていた。
ぞっとするような冷たい声音になって、続ける。
「姫様は仰せです。もしこの反乱を放置すれば、蘆名や伊達の介入を許し、数年間は鎮圧に時がかかると。その間に上杉家の力は削がれ、奥州の諸大名の侵攻を受けることになるでしょう。その際に、姫様は再び助力しようというお気になられるでしょうか」
「――――」
「では仮にこのまま取って返し、鎮圧に向かえばあるいは越後の内乱を即座に収めることも可能かもしれません。ですが、もはや武田家は死に体。上杉様の援軍無くば、この上野国は北条に奪われ、その圧倒的な国力の前に上杉家は為すすべなく滅ぼされることでしょう。以前、姫様は骨を折って北条を領国から追い払うことに尽力いたしましたが、次も同じようにお考え下さるでしょうか」
そこまで告げて、雪葉は表情を戻した。
すでに柔和な微笑が浮かんでいる。
「姫様はとてもお優しい方です。今も武田家が滅ぶのを阻止しようと、自ら信濃まで兵を率いて北条と戦うご所存でした。されど武田家の無作法により、彼らは自らを破滅に追いやることになったのです。……上杉様が同じ轍を踏まぬことを、わたくしは切に願います」
もはや脅迫と化した内容に、兼続は歯噛みする。
理性的に考えるならば、今ここで雪葉の要求を突っぱねることは、何一つ利を生まない。
内憂外患で身動きができない現状に加え、朝倉家と対立するような事態になれば、それこそ存亡の危機となるからだ。
今でこそ上杉と朝倉は友好的な関係となっているが、遡ってみれば、元は対立関係から始まっている。
特に色葉などは神通川の戦いで瀕死の重傷を負うほどに、大敗を喫しているのだ。
その後、情勢の変化により色葉は景勝と協調関係を築くことで、越中や能登などを得るといった実利を得ることを選んだ。
もちろん景勝にしても、お家騒動に勝利して、家督を継承することができたという利を得はしたが、両者を比較すれば色葉が得たものの方がずっと大きい。
つまり、色葉は利に敏く合理的な人物である、ということだ。
だからこそ、状況が変化すれば上杉と対立する道も容易に選ぶであろうことは、想像に難くない――少なくとも兼続は色葉のことをそう評価していた。
「……相分かった」
「――殿!?」
返答に窮した兼続に代わり、そう答えたのは景勝である。
当然、兼続は驚いた。
「このようなこと、にわかに受けてはなりませぬ!」
「いや、受けねば雪葉殿は納得すまい。当然、色葉殿もな」
「それは……いえ、ですが……」
「色葉殿には借りもある。……返さねばならんだろう」
「――賢明な判断であると、心得ます」
景勝の了承に対し、雪葉は慇懃に一礼してみせた。
「では、速やかに内藤様にご加勢し、この上野より北条を駆逐されんことを」
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