第175話 天野川の戦い
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八月二日。
長浜城まで駒を進めていた朝倉方は、佐和山城まで進出してきた織田方を遠目にしつつ、前進を開始。
それに呼応するように織田勢も動く。
両軍は天野川を挟んで対峙。
戦機は熟そうとしていた。
「こうして織田勢を相手に轡を並べるのは、姉川の戦い以来であるな」
対岸に居並ぶ織田勢を見返しながら、景建はやや感慨深げにそう洩らす。
「あの時はあと一歩で信長の首を取れたのであるがな。惜しいことをした」
副将を命じられた員昌にしても、かつて行われた姉川合戦については忘れられない思い出である。
「此度は如何なると思う?」
「数の上では圧倒的に不利であるな」
員昌の言うように、織田方は三万六千。
対する朝倉方は一万三千。
三倍近くの兵力差である。
「なに、信長の首級さえ上げてしまえば良いのであろう? であればそう難しいことでもあるまい。三万の雑兵をことごとく屠らなければ信長に至らぬというわけでもないからな」
員昌の相変わらずの猛々しさに、景建は苦笑する。
景建もかつては朝倉家にあって武勇に長けた者とされてきたが、員昌の猛将ぶりに及ぶものではない。
「敵は鶴翼か。ならばこちらは魚鱗にて攻めるまで。景建殿、貴殿が両翼を鉄砲で牽制し、翼が閉じるを防いでくれ。その間に拙者が突撃する」
「いかんいかん。それでは姫の命に背くことになるぞ?」
「籠城戦は好かん」
「ははは。そう言うな」
疋壇城の戦いで奮戦した員昌ではあったが、やはり打って出て暴れたかったらしい。
「とにかくご命令通り、織田方の三万六千を長浜に引き付ける。それが我らの役目」
「すぐ近くに敵がいるというのにまみえられぬとは。天野川とはよく言ったものだ」
ぼやく員昌に、景建が笑ったその時だった。
「申し上げます!」
急使が二人の元へと飛び込んできたのである。
「うむ。苦しゅうない」
「東に敵影あり! 関ヶ原方面より敵の軍勢が侵攻しつつあります!」
「その数は」
「およそ一万!」
「相分かった」
冷静に応えたものの、この報せは完全に想定外であった。
「……恐らく岐阜の織田信忠の軍勢か」
「してやられたな」
これで織田方の総数は四万六千。
しかもこのままでは挟撃されてしまう。
どうやら信長は迎撃に留まらず、このまま北近江の奪還を図る気なのだろう。
「今すぐに退けば、長浜城に撤収できるぞ?」
員昌の言に、景建は首を横に振る。
「ここには三万余の大軍がいることになっておる。浮足立って引き揚げれば、信長に寡兵であると見抜かれるだろう。となれば姫が危うくなる。……何としても役目を全うする他あるまい」
「よし。ならば五千の兵を預けてくれ。信長は拙者が引き受けよう。貴殿は八千の兵を率い、織田信忠を牽制しつつ長浜城へと戻られよ」
「兵を分けるのか」
「八千の兵を生かすと思え」
その言葉に、景建は目を細めた。
「死ぬ気か」
「そうではない。信長の首級を取る程度ならば、五千もあれば十分というだけのこと」
「然様か」
景建は承知した。
もはや時が無い。
ぐずぐずしていては転進の機会すら失うだろう。
「武運を祈るぞ」
「お互いにな」
こうして景建は急ぎ兵をまとめ、敵が進出しつつある姉川方面へと兵を走らせる。
その動きを察知した対岸の織田勢が、動き始めた。
「さて参るぞ。死に場所としては悪くはあるまいて」
員昌は号令を発し、前進。
両軍は激突した。
世にいう、北近江の戦いの前哨戦――天野川の戦いである。
◇
武田領三河に侵攻した時点で、朝倉が報復として南進してくることは、当然信長の予想の内だった。
兵を集めるのは当然として、これをどう使うかを信長はしばし考えることになる。
あくまで防衛に徹し、その間に少しでも東海道や信濃へと侵攻する。
もしくは迎撃し、余勢を駆って北近江を奪還する。
結局信長は後者を選んだ。
そのために岐阜の信忠勢一万を動かすことは、多少の賭けであったといえる。
越前、飛騨、信濃からの逆撃の可能性があったからだ。
しかし事前の調査では、武田方は混乱しており逆撃どころではない。
また郡上八幡城や奥越前方面に、兵が集結しているという様子も無い。
ならば一時的にでも美濃衆を呼び寄せて大軍をもって一気に朝倉勢を撃ち、即座に反転させて美濃に戻らせればいい。
少なくとも近江での決戦の勝率は、かなり上がるだろう。
もちろん、事前に事が漏れぬように美濃衆の進軍は慎重に行わせ、極力美濃方面への情報封鎖を徹底させた。
それが功を奏したようで、朝倉方は寸前まで信忠勢の侵攻に気づいていない様子であった。
実際に今、開戦を目前にして敵兵の一部が反転したとの報告もある。
まさに勝機であろう。
「いざ進め」
織田信長率いる三万六千余の大軍は、ついに渡河を決行。
怒涛の勢いで朝倉勢を押しつぶすべく前進を開始した。
「信長よ、姉川十一段崩しを忘れたか。肝を冷やしてやろう」
これに対し磯野員昌率いる五千の朝倉方も、猛然と突撃を開始。
ただがむしゃらに信長の本陣を目指したのである。
その猪突猛進ぶりには、大軍であった織田方も虚を突かれた。
「員昌か。姉川の時といい、猪武者にも程があろうに」
信長は舌打ちしつつ、次々に前衛部隊を蹴散らして吶喊してくる員昌隊に対し、急ぎ鉄砲隊を招集。
信長自身が矢面に立ちつつこれを十分に引き付け、一斉に射撃を指示。
「放てぃ!」
ばたばたと倒れていく朝倉勢ではあったが、二連射までではその勢いは止まらず、員昌もまた先頭で健在であった。
次の一斉射撃において、ついに数発が員昌に命中。
しかし勢いは止まらず、浮足だち始めた本陣を叱咤しつつ、信長は再度射撃を命令。
四回目にして、朝倉勢は総崩れとなった。
員昌もまた数発の命中弾を得て、落馬。
再び信長の本陣を前にして、員昌はやはり此度も届くことなく、討死と相成ったのである。
織田方に呑み込まれた五千の朝倉方は壊滅。
戦死者多数という結果になったが、織田方も員昌による無茶な突撃により混乱しており、これをまとめるのに時を要すことになる。
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