第170話 緊迫の情勢
そして翌日。
関東でのより詳細な情報がもたらされた。
雪葉が帰還したのである。
雪葉は越後での工作にあたっていたが、関東での変事を知って一度武蔵国まで南下し、情報を集めてくれていたのだ。
そして武田領へと入り、さらに情報を集めて飛騨経由で一乗谷に戻ったのである。
「――恐らく北条方は駿河に向かうようです」
「やはりか」
雪葉の報告に、わたしはまた苦い顔になる。
「先陣は徳川家康と見受けました」
「徳川、だと?」
「三増峠においても、徳川一党が奮戦したと聞き及んでおります」
「……家康め。仇を取ったのか」
舌打ちする。
徳川を滅ぼした際に、家康を逃したことが致命傷になったということだ。
「武田の状況は」
「二分の兆しがあります」
これも悪い意味での予想通り、だった。
「一部の信濃衆が景頼様を擁立する動きが出ております」
「馬鹿が。国を亡ぼす気か。……信春とは会ったか?」
「いえ。急いでおりましたので」
「昌幸には?」
「お会いしました。武藤様はすでに国境を固められ、有事に備えているご様子。また今回のことを深く憂慮され、姫様からのご支援を望まれておりました」
「ふん。その武田の足並みが揃わんのではな」
とはいえ文句ばかりも言っていられない。
先の軍議により陣触れが行われ、朝倉領においても各地で兵の動員が行われつつある。
問題はこれをどう運用すべきかであるが、これが難しい。
「申し上げます! 殿の御成りです!」
小姓の一人である武藤信繁が居室の前へと駆けて、そう告げた。
「色葉よ!」
どたどたと駆け込んできたのは、晴景その人である。
どうやらわたしを北ノ庄に呼びつけることもできないほど、慌てているらしい。
他人が慌てているのを見ると、どうしてだか自分が冷静になってしまうのは不思議なものだ。
「……晴景様。当主たる者がそのように慌てては侮られるぞ」
「されどそれどころでは――」
「勝頼のことは聞いている」
力なく、晴景はわたしの前で崩れ落ちる。
そのまま肩を震わせる様子に晴景がまだまだ若かったことを、今更のように思い出していた。
「…………」
活を入れてやろうかと思ったが、やめる。
代わりにそっと抱きしめてやった。
そのようなことを晴景が求めてやってきたとも思えないが、たまには妻らしいことをしてやるのも一つの手だろう。
「……無様を見せた」
「ん、もういいのか」
「もはや嘆かぬ」
多少ばつが悪そうに、晴景が離れていく。
「……しかし色葉よ。此度のこと、如何すべきか」
「武田からの正式な使者があったんだろう? どのように言ってきた?」
晴景の説明によると、勝頼の死とその詳細。
そして武田信勝の家督継承の件について、後ろ盾になって欲しいというものだった。
わざわざそのようなことを他家に求めてくる時点で、武田家のお家騒動が表面化しつつあることが窺える。
「……どうやら諏訪の景頼殿を推す動きがあるらしい」
「さもありなん、といったところか」
「そなたはどう考えるのか。景頼殿はそなたの弟。であれば当然これを推すものかと思ったが」
晴景でもそう思うのだから、武田の連中などはみなそう思っているのだろう。
「推して欲しいのならいくらでも推すが、今それをすれば武田は滅ぶぞ」
「俺もそう考える。されど……」
「今、武田に滅亡されてはわたしの計画が狂う。それにこれまで散々援助してやったというのに、全てぱあになる。ふざけるなというものだ。勝頼には文句を言いたい気分だぞ」
「う、うむ」
わたしの不快げな雰囲気に、晴景もこくりと頷いてしまう。
「まあ死者に鞭打つ気は、今のところ無い。それよりも晴景様は使者を送り、信勝の家督継承を後押ししろ。わたしは景頼に書状をしたため、軽挙妄動を避けるように言い含める」
「そ、そうか。すまぬ色葉よ」
「安心するのは早い」
問題はこの先、朝倉家がどう動くかである。
「武田の使者は他には何と? 援軍要請などはしてきたのか?」
「それが……」
「ないのか」
余計に由々しき事態であると、歯噛みする。
「その程度の知恵も働かんくらい、動揺しているということだ。もしくは景頼を擁立して介入されるのを恐れたか」
何にせよ、このままでは有効な手が打てないまま、武田は侵攻を受けることになる。
もしくはすでに受けているか。
「晴景様はどうしたい?」
「俺は……すぐにも援軍を繰り出し、武田の家中が落ち着くのを見届けたい」
「だろうな」
思った通りである。
「されど……」
「ん?」
「俺はこの朝倉家の当主。私情で動いては、皆に笑われよう。そなたにも軽蔑されるかと思うと、それはそれで耐えられぬ」
「別にそんなことはしないが」
晴景の思わぬ発言に、わたしはしばしきょとん、となってしまったが、すぐに笑みを浮かべ、やがて声を上げて笑ってみせた。
「ふふ、あははははは。私情で動くことの何が悪い? わたしなど、私情でしか動いていないぞ?」
事実である。
朝倉家など、わたしのための道具程度にしか思っていないのだから。
「し、しかしそれは色葉だからこそであろう。俺には真似できぬし、それでは誰もついてこぬ」
「そんなことも無いだろう。晴景様にはわたしには無い人望があるし、大義名分など後付けで色々とひねり出せばすむ話だ」
「で、では」
「うん。好きにしろ――とは言わないが、援軍の派遣については賛同する」
「まことか!」
喜色ばむ晴景へと、ただし、とわたしは釘を刺す。
「武田へ派遣する援軍の総大将には晴景様がなればいいし、その方が名分も立つが、派兵そのものは機を見てからだ」
「というと?」
「わたしも出陣する。ただし、恐らく近江に、だ」
まずは信長に灸をすえる。
これは絶対に必要なことだろう。
「だがそなた、身体の調子は――」
「もう治った」
治ってなどいないし治り様もないのだが、そんなことはどうでもいい。
「京での借りもあることだしな。余人に任すなんて考えられるか」
わたしの気迫に、晴景も頷くしかない。
「越前、若狭、丹波衆はわたしに預けてもらう。加賀、能登衆は晴景様に預ける。越中衆は越後情勢にやや不安があるから、頼綱に命じて待機させる。飛騨衆は昌幸の裁量に委ねるが、こちらと一緒に動けるのなら、晴景様に加わるように要請する」
「うむ」
「とにかく先走るな。武田の情勢を見極めてから、晴景様は動け」
「相分かった」
……さて。
やることが明確になってきたことで、少しだけ不快な思いが払拭されつつあった。
とはいえ失敗は許されないだろう。
最悪朝倉家など放り出せばすむ話ではあるものの、ここまで私物化してしまった以上、愛着も湧くというもの。
それはそれで、皮肉な話だったのかもしれない。
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