第171話 招かれざる客


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 武田勝頼の亡き後、色葉は信勝と景頼の対立を危惧し、事実そうなりかねない雰囲気があったが、現実にはそれだけに留まらなかったといえる。


 天正八年七月二日。

 まず遠征の準備を整えた北条勢二万五千余が、駿河へと侵攻を開始。

 その先陣を務めた徳川家康と、駿河守備を任された穴山梅雪との間で戦端が開かれたのが七月九日のこと。

 だがそれは小競り合いに終始する。


 そして先陣の徳川勢を食い止めているかにみえていた駿河衆であったが、七月二十日には思いもよらぬ事態となった。

 すなわち穴山梅雪の謀反である。


 実のところ梅雪は以前から家康の調略を受けていたのであるが、これをことごとく突っぱねてきたという経緯がある。

 ところが三増峠にて主君である勝頼が死去。

 梅雪には嫡男である勝千代がおり、これと勝頼の次女との間で婚約が行われていたのであるが、勝頼の死によってうやむやとなってしまっていた。


 そんな折、再び家康より接触があり、離反の誘いを受ける。

 穴山氏は梅雪の父・穴山信友の代には武田信虎次女・南松院を正室に迎え、梅雪自身も武田信玄次女・見性院を正室に迎え、武田氏一門としての自負があった。

 家康はそんな梅雪の心情を見抜き、巧みにそれを突いてきたのである。


 そしてついに梅雪は離反を決意。

 武田家の名跡を残すことと、その当主に子の勝千代がなることを条件に提示し、家康は小田原に窺いを立てて氏政の了承を得、今回の謀反に至ったのであった。


 武田家の家督継承問題が、信勝や景頼だけに留まらなかったことは、色葉にも予見できなかった仕儀だったといえる。


 これにより駿河一帯はほぼ無血開城となって、北条方が雪崩れ込んだ。

 家康は更に西に進み、遠江へと侵攻。

 これに立ちはだかったのが、高天神城を守る武田家臣・岡部元信であった。


 いわゆる第二次高天神城の戦いである。


     ◇


 一方、三河方面においても激戦が展開されていた。


 三河を守る武田重臣・山県昌景は、大挙して押し寄せた柴田勝家率いる二万七千余の大軍を相手に、八千の兵をもって抗戦に及ぶ。

 昌景の軍略に勝家は手を焼くも、次第に兵数差がそのまま優劣の差となって山県勢は後退を余儀なくされ、七月九日には岡崎城を放棄して遠江へと撤退し、浜松城に入って徹底抗戦の構えをみせた。


 これにより三河国は蹂躙され、失陥。

 織田方は遠江へと侵攻を開始する。


 しかし二十日には穴山梅雪が離反。

 駿河を抜いた徳川隊が遠江へと雪崩れ込み、織田・北条の連合軍を相手に遠江の武田方は窮地に陥った。


 そのため昌景は甲斐の武田信勝に援軍を要請。

 しかし即座の派遣の様子は無く、浜松城の支城は次々に失陥し、岡部元信の拠る高天神城と二俣城を残すのみとなった。


 すでに孤立したに等しい両城ではあったが、元信や昌景が頑強に抵抗。

 それぞれを包囲した北条・織田両軍は力攻めは難しいと判断し、兵糧攻めにての落城を目指したのである。


     ◇


 やや時を遡り、六月二十九日。

 夜更け近くになったところで、一乗谷の下城戸において招かれざる客が訪れていた。


「このような時間であれば、何人なりとも通すことはまかりならぬ」


 下城戸を守る真柄直澄が、二人の客人を追い払おうと声を上げる。

 一乗谷から骸が消えて以降、夜間の一乗谷の守備は真柄兄弟とその父子が担っていた。

 下城戸は真柄直澄、上城戸は真柄隆基、そして一乗谷城と色葉の身辺は真柄直隆である。


「……せっかくこのような所まで参ったのです。是非、お取次ぎを」

「ならん。主はお休みであられる。明日に出直されよ」


 門を守る直澄であったが、二人の者を相手にし、亡者となってからはありえなくなった冷や汗のような感覚を、ずっと背に感じる恐れと戦う羽目にもなっていた。


 眼前の二人組は男と女。

 男は後ろに控えており、女は柔和な笑みを浮かべてはいるが、どちらも尋常な気配ではない。

 そして何より直澄にはこの二人に見覚えがあった。


「……あら? この気配……そしてそのお顔。もしかしてわたくしをご存知ですの?」


 小首を傾げる女。


「……一度会っています。飛騨で色葉殿にお会いした際に――」


 男の方が、控え目に口を挟む。


「飛騨で? ……ああ、そうですの。ということはあの時いた、無数の骸の一体、といったところでしょうか」


 なるほど、と女――鈴鹿は得心いったように頷いた。


「このような雑兵、蹴散らしますか」

「それも良いのですけれどね」


 以前、飛騨の廃寺で初めて色葉と出会った際には、それこそ無数の骸やその取り巻きなど歯牙にもかけなかった。

 が、あの時とは事情が違う。


「ですがそんなことをしては、色葉様に嫌われてしまいます」

「今更かとも思いますが」

「……大嶽丸、何かおっしゃいまして?」

「いえ、特段何も」


 すぐにもそっぽを向く大嶽丸。

 この主の機嫌を損ねると、後が面倒なことになるのはいつものことだからだ。


「さて……ではどういたしましょうか。わたくしは色葉様にお会いしたいのです。北ノ庄で物見遊山が過ぎて、このような刻限になったことはわたくしに非があるのかもしれませんが、だからといってこのような場所で野宿せよとおっしゃるんですの?」

「――――」


 さりげなく向けられた鬼気に、直澄は必要の無い息をつまらせる。

 このまま鈴鹿を相手することと、色葉の安眠を妨害することと、果たしてどちらが最悪の選択なのか。

 どちらにせよ詰みのような気がしたが、ここでは文句を言う相手もいない。


「……用向きは?」

「以前、京にて色葉様とお茶の約束を」


 手土産も持参したんですのよ、と何やら包みを掲げてみせる鈴鹿。

 そのにこにこしていた表情が、不意に隠れた。

 突如大嶽丸が前に出て、帯びていた太刀を引き抜いたのである。


「な」


 突然のことに、直澄では為すすべもない。

 が、次の瞬間には思わぬ光景となっていた。


「ちっ」


 奇襲を防がれたことに舌打ちした何者かが、身軽に飛び退いて直澄の前へと降り立つ。


「妾の直澄に何喧嘩売ってるのよ?」


 敵意も露わにして、太刀を片手にした乙葉が二人をねめつける。


「乙葉様!」

「怪我無い?」

「……は、大丈夫です」

「そ」


 乙葉は軽く直澄の様子を確認し、申告通りに損傷が無いことを確認すると、不機嫌な顔のまま太刀を構えた。


「……これは、京でお会いした色葉様の下僕ですわね?」

「妹よ。妾にも喧嘩を売るっていうのなら買うけど?」


 じわりと乙葉から殺意が滲み出す。

 ――ここに乙葉が居合わせたことは、さほど偶然、というわけでもなかった。

 日中は小太郎の世話に没頭しているが、夜になって寝かしつけた後は自由な時間となり、こうして色葉から与えられた直澄の所に赴いては酒に興じるのが日課だったからだ。


「忌々しい顔。姉様がご覧になったらさぞかし不快に思うことでしょうね」


 乙葉にとっても鈴鹿は良い思い出のある相手ではない。

 何せ色葉や雪葉、乙葉の三人がかりだったにも関わらず、鈴鹿は互角以上に渡り合ってみせたのだから。


「で、何の用なの?」


 好戦的な乙葉ではあったものの、しかし追撃をかけたりはしない。

 乙葉一人で敵う相手でないことは、百も承知だったからだ。


 しかもこの女は乙葉の正体に迫るような発言をしていた。

 警戒するのは当然である。

 もっとも鈴鹿の目的如何によっては、勝敗など考慮の外であるが。


「以前も申し上げましたわ。京で色葉様を見逃す代わりに、お茶を致しましょう、と」

「はあ? 本気でそんなことの為にのこのこやって来たわけ!?」


 確かにそんなことを言っていた記憶がある。

 とはいえ戯言の類だと思っていたのだが。


「……来てもいいけどぶっ飛ばすって言わなかった?」

「ふふ。何でしたらあの時の続きと洒落込みましょうか?」

「…………ち」


 訳の分からない相手に、乙葉は顔をしかめた。

 やりにくい。

 調子を崩される。

 色葉が鈴鹿のことをひどく嫌っている理由が、何となく分かった気がしたほどだった。


「……姉様を害しに来たわけじゃないのね?」

「哀しいですわね。そのようなこと、わたくしがするはずも無いというのに」

「ふん。信じられるかっていうの。でも……確かに京での借りはあるわ。憎たらしいけど」

「では?」

「姉様には取り次いであげる。ただし許可が出るまで城戸の外にいなさい。許しなく一歩でも入ったら殺すわよ?」


 乙葉の脅迫に、鈴鹿は軽く肩をすくめてみせる。

 一応了承したらしい。


「直澄」

「は!」

「急いで雪葉や直隆、隆基を呼び集めなさい。妾は姉様の所に行くから」

「されど……」

「いいからそうしなさい! あれは化け物よ。あなた程度じゃ抵抗する間も無く滅ぼされるわ」


 苛々と尻尾を振りながら、乙葉はその場を駆け出す。

 直澄も慌ててそれに続いた。

 そんな二人を見送りつつ、鈴鹿は物憂げにささやく。


「……大嶽丸?」

「はい」

「夜空が綺麗ですわね」

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