第166話 不穏な噂(後編)

「秀吉は摂津の荒木村重や備前の宇喜多直家、但馬の山名堯熙らを糾合して織田家に反旗を翻したことは、もはや疑いようもありませぬな」

「ずいぶん大掛かりだな」

「これに播磨を加えれば四ヶ国。国力としてはまずまずでしょう。そして秀吉は謀反と同時に紀伊へと攻め込み、これを平定したようですぞ」

「手が早いな」


 謀反にあたっての詳細な計画は聞いていないが、事前に相当考えて実行したに違いない。

 まあ荒木村重を土産としたことは、思わぬ僥倖であっただろうけど。


「これに対して信長は京に兵を集め、羽柴勢を牽制したようじゃが、秀吉はその京に向けて進軍し、両軍は山崎で激突したというわけじゃ。これが六月十三日のことであるの。迎え撃ったは明智光秀」

「ほう」


 思わず声が出た。

 羽柴秀吉と明智光秀。

 しかも合戦場所は山崎。

 例え歴史が変わっても、因縁というものは変わらないらしい。


「結果はどうなった」


 これには興味があった。

 史実では秀吉が勝利して天下人への道のりを歩み始め、敗れた光秀は敗死し、三日天下の所以にもなった合戦である。


「痛み分け、ですな」

「なんだ。引き分けたのか」


 詳しく話を聞くと、進軍した羽柴勢はおよそ二万余。

 対する光秀率いる織田勢は、三万余。

 史実とは違い、数の上では光秀有利だったらしい。


「まあ京の防衛を成功した、という意味では織田方の勝利ともいえなくもありませぬが、合戦そのものは互いに被害を出しての痛み分けに終わったそうですじゃ」

「ふうん……」


 ちなみに戦後、光秀は京に帰還し、秀吉も大坂に戻ったという。

 秀吉としても、いきなり京を押さえられると考えていたわけでもないだろう。


 一度は戦端を開き、勝利できればそれこそ幸いであったのだろうが、とりあえず互角の勝負をしたことを知らしめたことで、後の態勢には悪くは影響しないとみるべきか。


「まあ及第点か」


 しかしこれでは互いに手堅く、つけ入る隙が見いだせない。

 むしろ引き分けに持ち込んだのは、わたしの意図を知っている孝高あたりの献策かもしれないな。


「謀反はいいとして、秀吉の風評はどうなっている?」


 いかに今が戦国時代とはいえ、謀反というものが世間一般に受け入れられるものかといえば、そんなことはない。

 やはり筋道に反することはいつの時代も嫌われるものだ。


「ふむ……。気になるかの?」

「お前は気にしなかったのか?」

「はっはっは。気になどしておったら謀反などできませぬわ」


 久秀らしいといえば久秀らしい物言いではあるが、義理を重んじる晴景などにすれば容易に聞き流せる発言の類ではなかったことだろう。

 しかし何も言わなかったのは、大人になったからか、わたしを気にしてかはわからないが、ともあれ後で褒めておいてやるか。


「とはいえ秀吉は気にしたのであろうな。此度の謀反にあたり、織田家中の者は誰も引き込んではおらぬ様子」

「なるほど。あくまで秀吉子飼いの武将ばかり、ということか」

「如何にも。強いて言うならば村重くらいのものであろうて」


 同じ織田家臣であった、という点においてはそう言えるかもしれない。

 しかし他の宇喜多や山名は織田家臣だったわけでもない。

 むしろ圧迫を受け、臣従を迫られていたくらいである。


「となれば秀吉の一党が空中分解することもなさそうだな」


 やはり付け入る隙は無い、か。

 つまらないな。

 とはいえここは素直に秀吉支援の方向で行くべきだろう。


「で、それについて明日の軍議で話し合うのか?」


 わたしが晴景に突如呼び出されたのは、臨時の評定を開くにあたって事前に相談したいことがあるから、という理由だった。

 秀吉の謀反は議題になり得るし、今後の外交方針や軍事に纏わることまで決め直さなければならないことにもなるだろう。


「いや、それだけではなくてだな……」

「……?」


 他にも何かあるのか。

 そこでわたしはようやく気付いた。

 晴景の表情がやや暗いことに。

 何かあったのか……?


「正信、説明を」

「は」


 頷き、正信が改めてわたしを見返す。

 そういえばここに正信がいる理由が不明瞭だったことを思い出す。

 正信は補佐として長浜城にいるはずで、当然呼び戻した覚えも無い。


「織田方の動きが妙なのです」

「妙?」


 突然そんなことを言われ、わたしは眉をひそめる。


「羽柴秀吉の謀反により、領内が慌ただしくなったことはすぐに分かりましたが、山崎での一戦により秀吉の翻意は明らかなれば、信長は増援を送り込んで大坂へと侵攻してもおかしくなかったはず」

「……かもしれないが、侮り難しと思って慎重になっている可能性は?」

「あります。が、やはり妙なのです。織田領内では大動員令がかけられているにも関わらず、その兵の大半が東へと集結しつつあり、これでは畿内方面の抑えとはなりませぬ」

「東、だと?」


 嫌な予感がした。


「京には相変わらず明智光秀が居座り、羽柴方を牽制していることは間違いありませぬ。ですが……」

「兵を動員しているにも関わらず、西ではなく東に集めさせている、というのが妙だというんだな?」

「如何にも」


 確かに妙である。

 織田領の東といえば、信濃や三河だ。

 つまり武田領。


「…………武田に何か動きがあったのか?」

「まだ噂程度ではあるのですが、その……」

「何だ。早く言え」


 嫌な予感に尻尾が不穏に動く。


「相模に出兵された武田勝頼殿が大敗を喫し、討死されたと……」

「なんだと?」


 勝頼が死んだだと?


「織田領内では噂になっております。もちろん、真偽の程は知れませぬ」

「すぐに探りを――」

「色葉よ、すでに武田に使者を出している」


 晴景に言われ、わたしは逆立ちかけていた尻尾の毛並みをどうにか落ち着かせた。


「もし噂がまことなれば、信長はこの機に乗じて三河、もしくは信濃侵攻を画策しているかと推察いたします」

「……筋は通る、か」


 勝頼が関東に兵を出すことは知っていたし、当然晴景らも知り得ている情報だ。

 敗北だけならばまだいいが、勝頼が本当に死んだというのならば一大事となる。


 そこでようやく得心がいった。

 晴景の顔が暗いのは、実兄である勝頼のことを心配してだろう。

 しかしそれを面に出さないのは、当主としての立場を優先してか。


「噂は噂に過ぎぬ。しかし正信が申すように、織田の動きが不穏である。先走りかもしれぬが、有事の際は兵を出すことになるやもしれぬ。となれば今から動員をかけねば後れを取るし、それを皆に諮るためにも明日評定を開きたいのだ」


 なるほど。

 晴景の心中は察することができた。

 正信が直接来たことも納得がいった。

 それほど由々しき事態、ということなのだろう。


「万が一の場合は武田領が食い荒らされることになるぞ。晴景様の言うように、早急の対応が必要だ」

「そうか、分かってくれるか」


 嬉しそうに晴景は頷く。

 一方のわたしはというと、思わぬ事態に歯噛みしていた。

 秀吉の謀反を利用して漁夫の利を画策しようと思っていたのに、武田の件が真実ならばそれどころではなくなるからだ。


 やはりこの世というものは、いついかなる時もままならないものらしい。

 どうやら少し、休みが過ぎたようだった。

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