第163話 山崎へ
◇
紀伊において羽柴秀吉は雑賀衆の鈴木氏を懐柔し、紀州は一応の平定をみた。
これが五月二十日のことである。
武力を背景にはしたものの、無理な侵攻はせず、交渉によって臣従化を図ったのだった。
そのため完全支配には程遠いものではあったが、さりとて時をかけるわけにもいかない事情もあったといえる。
もちろんそれは、かつての主家であった織田家の動向だ。
信長が秀吉のことを、このまま放っておくはずがないからである。
「兄上、織田殿からの使者が参っていますが」
「会わん」
紀伊より帰還し、いったん大坂へ戻った秀吉へと、留守を預かっていた弟の秀長が報告してくる。
しかし秀吉はそれを一蹴していた。
「されば追い返しますか」
「そのようにいたせ」
ようやく腹をくくった秀吉にしてみれば、ここで織田家の使者と会うことで、再び気持ちが揺らぐことを恐れたからでもある。
信長の使者がどのような目的をもって訪れたのかは分からない。
糾弾するためか、それとも翻意させるためか。
家臣の誰もに恐れられている信長ではあったものの、謀反に対しては意外に寛容なところもある。
例えば弟の織田信勝。
信長が初めて謀反された例であるが、一度はこれを許しており、しかし再び謀反されるに至って暗殺することになる。
これに加担した織田家臣といえば柴田勝家が知られているが、信長はこれを許し、今では重臣としての地位を揺るがないものにしている。
他の例でいえば浅井長政。
義理の弟に裏切られた信長は最終的にこれを滅ぼすが、それまでに幾度も降伏勧告を行っている。
さらには松永久秀。
かの者も一度謀反を起こし、再び起こした経緯のある人物だ。
信長は例によって、一度目はこれを許している。
では今回の秀吉の場合はどうだろうか。
使者をわざわざ送ってきたことからしても、ただ文句のためだけにとは思いにくい。
恐らく翻意を促してくる可能性が高いだろう。
秀吉にとって、やはり信長は未だに尊敬に値するし、その身を引き上げてくれた恩もあるし、何より恐れ多い相手でもある。
そんな相手に何故に自分は謀反など起こしているのかと、たびたび自問させられる羽目にはなったが、しかしこれが大いなる好機であったことには違いないのだ。
乱世に生を受けた武将であるのならば、一国一城の主を目指すもの。
一国一城の主であるのならば、次は天下を目指すものではないのか。
少なくとも信長の下にいては、絶対に自身が天下に号令することは叶わない。
それどころか佐久間信盛の例もある。
「となれば、いよいよ開戦となりますな」
「覚悟の上だ」
情報によれば、信長は京に兵を集めているという。
その京にいるのは明智光秀。
今のところ信長は安土から動いてはいないらしい。
「光秀殿か……。手強いな」
信長自身が安土を動かないのは、事を見極めるまで待つつもりなのか、朝倉家への牽制なのかは分からないが、さりとて京にいる光秀も全く持って侮れない相手である。
「明智殿は織田家の中でも名将といって憚りないお方でありますからな」
「されどこれに勝利せねば、風向きが変わってしまう。特に朝倉の動向が心配だ」
「狐姫のことですな」
「うむ」
秀吉と朝倉家は一応の協力関係にはなっているものの、秀吉が一定の成果を上げるまでは直接的な支援は行うことはないだろう。
むしろ漁夫の利を狙っていることを公言しているほどで、とにもかくにも侮れない相手なのである。
「この独立を成功させるには、朝倉との誼が不可欠であろう。いったいどのような手腕なのかと疑ってしまうが、今や朝倉家の軍事力、経済力はかつての朝倉家の比ではない。北海の交易路を全て押さえ、その関税収入は巨額。織田家に匹敵しつつある勢力となってしまったからな」
「武田家との同盟もあり、上杉家は好意的な立場をとっていることからも、東や北に憂いなく、となればその矛先はどこに向くのか……ですな」
秀長の言葉に、秀吉はもっともだと頷いた。
「織田家は強敵。全面対決を避けるのならば、西に向かう他無い。となれば我らが標的になり得る可能性もある。色葉殿は村重殿を寄越してくれたが、いったいどこまで篭絡されておるか分かったものではないからな。有事の際には獅子身中の虫となりかねぬ」
「そこまで見越して……でありますか。恐ろしき姫ですな……」
「とにかく朝倉の姫には我らが使えるところを見せねばならん。秀長、京に進むぞ」
改めて決意を新たにした秀吉は、陣触れを命じた。
大坂に集結した軍勢はおよそ二万余。
六月十日には大坂城から進軍し、山城国へと侵攻を開始。
これに対し、京での軍権を預かっていた光秀はただちに兵を集め、出陣。
摂津へ向けて進軍した。
両軍が相対したのは山城国と摂津国の境である、山崎の地。
天正八年六月十三日、両軍は激突した。
世にいう、山崎の戦いである。
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