第142話 慶事か、それとも
/色葉
天正七年十一月二十八日。
丹波亀山城において、朝倉家と織田家との間で正式に和議が取りまとめられることとなった。
織田家からの使者は村井貞勝と明智光秀であり、こちらは我が父である朝倉景鏡自らがその席についている。
今回、和睦の申し入れをしてきたのは、意外にも織田信長の方であった。
それは織田家が窮地に陥った証左でもある。
まず対朝倉戦において、疋壇城での敗北が痛手だったといえる。
ただしこれは、どうにか撃退したとはいえ、こちらも相当の被害を被っていた。
もし若狭からの援軍が間に合わなければ、疋壇城は落ちていたかもしれないのである。
これはわたしにとっても計算外であった。
あの城と装備ならばまず大丈夫かと思っていたが、世の中そう甘くないらしい。
これは反省する点である。
その後、晴景はただちに長浜城に向けて進軍した。
そんな余力も無かったはずなのに、律儀にわたしの命を遂行しようとしたのである。
誰か止めればいいのにと思わないでも無かったが、誰もがわたしの命は最優先であると考えていたようで、これもまた反省材料だった。
桂川原の戦いの際の、久秀のような人材が家中にはいない、という証拠でもあったからだ。
……まあ、そんな風に家臣を育ててしまったのはわたしなので、これは反省しなければならないだろう。
かといって、誰もかれもが自らの裁量で事を進められてはどうにもならなくなるので、難しいところではあるが。
もちろんわたしがしっかりと見通せていれば良いのだろうけど、わたしとて万能ではないし、手を抜きたい時もある。
ともあれ長浜城はただちに包囲されたが、晴景も攻城に耐えうる力無しと分かっていてか、無理に攻めず、包囲に留めたのだった。
しかしそれが良かった。
わたしと秀吉との間で、密約が成立していたからである。
石山本願寺との交渉にかなり手間取りはしたが、これがうまくいったことで長浜城は無血開城に至ったのだった。
勿論、裏の事情を信長は知り得ていないだろうけど。
ともあれ長浜城が落ちたことで、にわかに近江国での緊張が高まることになる。
一方で、岐阜方面においても緊張状態が続いていた。
これは貞宗率いる美濃侵攻軍が郡上八幡城を落とし、岐阜を脅かしていたからである。
とはいえ美濃攻略について、わたしは本腰だったわけではない。
あくまで後の交渉のために、喉元に刃を突き付けておいた方が有利になると思い、適当に美濃を荒らさせて、決戦は避けさせていたのだった。
そして極めつけが、武田勝頼による西上作戦の成功である。
何と勝頼のやつ、遠江は勿論のこと三河も平定し、徳川家を滅ぼしてしまったのだ。
家康は逃げたらしいが、地盤は失い力も無いだろう。
しかし意外な結果だったといえる。
せいぜい、遠江くらいは平定してみせるだろうと思っていたので、この結果は思わぬことだった。
さすがは武田信玄の子で、晴景の兄、といったところか。
これに慌てたのが信長である。
三河が落ちたことで、尾張に武田勢の侵攻が予測されたからだった。
ここで武田がそのまま西に進めば、さすがの織田家も対応し切れなくなる。
そのため織田家が持ち掛ける形で、交渉が開始されることになった。
こちらとしても、長期の遠征でそろそろどうにかしなければならない頃合いだったのは確かである。
とはいえせっかくこちらが有利な状況での和睦交渉なのだからと、あれやこれやと考えていたわたしであったが、実際の交渉にはほとんど口出す機会が無かった。
体調を更に崩し、寝床で呻いていたからである。
どうやら臨月が近いらしい。
というか少し早すぎないかと思う。
いつ妊娠したのか正確には分からないけど、つわりが収まってからまだ三ヶ月程度。
まあ個人差はあるとはいえ、つわりは妊娠の初期症状のようなものだから、これが収まってから出産までにはまだそれなりの期間が必要なはずで……。
いや、まあ、わたしは完全にひと、というわけでもないからその限りではないのかもしれないが、どんどん不安になってきたことは事実である。
ついでに体調も急激に悪くなっていった。
つわりのようなものがぶり返したのである。
たまったものじゃなかった。
わたしのあまりの惨状に慌てた華渓が雪葉を呼び戻す始末で、華渓は散々雪葉に叱られたようだけど、庇ってやる元気も無かったほどである。
そうこうしているうちに臨月が迫っていると雪葉に言われ、それから数日もたたずにして、報せを受けた乙葉まで慌てて戻ってくる始末だった。
とまあ、そんな感じだったので、わたしが和睦交渉に参加できるはずもなく、景鏡を中心に勝手に取りまとめられたらしい。
とはいえわたしが最初に考えていた最低条件は呑ませたようだから、問題は無いが。
ちなみに和睦条件は、ざっくりとではあるが、こうである。
一、朝倉家、織田家の間での停戦
一、北近江の朝倉家への割譲
一、武田家の進軍停止
大雑把にはこんなところだ。
北近江の割譲は信長もだいぶ渋ったようだけど、長浜城まで落とされている現状、ごねても仕方が無いと踏んだのだろう。
それよりも武田の侵攻を食い止める方が急務だと考えたらしい。
まあ、正しいか。
同盟国とはいえ、勝頼とわたしの間に上下の関係は無い。
とりあえずということで要請してみたら、勝頼はあっさりと受けたという。
勝頼にしてみても、即座に織田と事を構えるつもりは無かったのだろう。
和睦は成立し、美濃に侵攻していた貞宗の軍勢は越前に引き揚げ、丹波に駐屯していた軍勢も順次、帰還することとなった。
雪が降るまでに撤退は完了しそうであったが、肝心のわたしは一乗谷に戻れず、相変わらず亀山城にあったという次第である。
そのため雑兵はともかく、主要な家臣らは丹波に足止めされている状態だった。
これではわたしなどは、ただのお荷物である。
「く、そ……。どうしてわたしがこんな目に……」
わたしは寝床から出ることもできずに、恨みがましく天井を睨みつけることくらいしかできないでいた。
せっかく織田の連中に威張ってやろうと思ったのに、交渉の場にも出られずにこの始末である。
「色葉様、大丈夫……?」
心配そうに乙葉がのぞき込んでくるが、わたしは乙葉のふさふさの尻尾を抱き寄せるだけで答えることもままならない。
「うう……」
そして吐き気。
気持ち悪い。
「ね、ねえ、雪葉。色葉様大丈夫なの?」
「ご出産が近いのは間違いないでしょうが、しかしこれはどうも……」
雪葉も表情を曇らせて、わたしを見返している。
わたしは手を伸ばして雪葉の袖を掴み、引き寄せる。
声にはならないが、とにかく不安で仕方が無かった。
そのため二人はずっと、わたしに付きっ切りである。
しかし文句も言わずに付き合ってくれている。
嬉しかったが、感謝の言葉も出ないほど、わたしは参っていた。
「とにかく難産になる覚悟をすべきです」
「で、でも妾、なにしていいか……」
おろおろする乙葉であるが、雪葉とて困ったのは同様だった。
二人とも長く生きてはいるが、出産経験が無いからである。
だがここで華渓の存在が役に立った。
華渓は人として生きていた間に、子を為していたからだ。
その華渓から見ても、わたしの症状は深刻に映ったのだろう。
とにかくでき得るかぎりの万全の体勢がとられた。
実は景鏡が織田との交渉をわたしにさほど図らずに急いだのも、わたしの身体を第一に思ってのことだったという。
できれば一乗谷に戻りたかったが、もはや無理と判断されて、この城での出産に臨むしかなかった。
そして十二月に入り、ついに来るべく時が来た。
陣痛である。
十二月三日。
とにかくその日は苦しみ抜いた一日となった。
あまりの痛みに暴れるわたしを、雪葉と乙葉が必死になって抑え込んでくれた。
二人がいなければ、とても出産など叶わなかったかもしれない。
そして雪葉の予想通り、稀に見る難産となった。
何せ陣痛の始まった三日から五日まで苦しんで、ようやく五日の夜明け頃に出産となったのである。
大量出血し、精も根もつき果てたわたしは出産と同時に気を失ってしまったらしい。
わたしが目覚めたのは、実にそれらから三日後のことだったという。
はっきり言って、上杉謙信にやられた時よりも酷い有様だったのだろう。
もう、嫌だ。
その時は本気でそう思ったくらいである。
/
「殿! お目出度にございまするぞ!」
朝倉景鏡の居室に飛び込んできたのは、姉小路頼綱であった。
「うむ! して、男か、女か」
ずっとそわそわしながら待っていた景鏡は飛び上がり、真っ先にそう尋ねたという。
「両方でございますぞ!」
「なんと!」
色葉が産んだのは双子であり、一人は男子、一人は女子であった。
「すぐにも越前の晴景に使者を送れ!」
「ははっ!」
こうして亀山城はにわかに慌ただしくなったのである。
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