第143話 風波の兆し
◇
「殿、此度は色葉様にしてやられましたわね」
隣で愉しそうにそう言う鈴鹿ではあるが、それを耳にする信長はというと、当然の如く仏頂面であった。
「去れ。俺は気分が悪い」
「まあ、そうおっしゃらずに」
鈴鹿はこの場を離れる気は無いようで、面白げに信長を眺めている。
確かに鈴鹿の言うように、今回は朝倉にうまくやられたというべきだろう。
丹波をかすめ取られた上に、若狭一国と近江半国を失ったのである。
特に北近江の失陥は痛かった。
交通の要衝である琵琶湖を半分失ったに等しく、また本拠である安土に国境が近づいたことも問題である。
また辛うじて美濃から近江、京に至る街道は確保しているものの、長浜城を朝倉に抑えられているとあっては、とても安全な道とは言い難い。
とにかく今は佐和山城の防備を強化して、有事の際に備えなければならないだろう。
それでも武田の侵攻を止めたことは大きかった。
「家康がこうも容易に敗れるとはな」
結果的には援軍が間に合わなかったことで、徳川は滅亡してしまった。
東の同盟国が滅んだことは、当然織田家にとっても深刻である。
現在の織田家は北に朝倉、東に武田、西に毛利と囲まれ、非常に由々しき事態となっていた。
これら全てを同時に相手することは、さしもの信長でも無理であると認めざるを得ない。
外交方針を一から見直す必要に迫られていたのである。
「相模の北条と、土佐の長曾我部。差し当たってはこれと結ぶしかあるまいな」
越後の上杉家は謙信死後、御館の乱を経てその勢力は弱まっており、また武田と同盟しているため今更これと結んだところで利は無い。
しかし武田が上杉に乗り換えたことで、武田と北条の同盟は破綻し、両者は上野国を巡って現在も激しく対立している。
つまり北条と結び、武田の背後を脅かさせることができれば、容易に西進できなくなるというものだ。
北条としても、武田のこれ以上の勢力拡大は望まないところだろう。
となれば織田家と北条家の利害は一致し、盟約が成る可能性は高い。
一方の長曾我部家であるが、その当主である長宗我部元親は織田家とやや縁がある。
元親の正室は信長の家臣である明智光秀の重臣・斎藤利三の異父妹に当たるのだ。
斎藤利三は美濃斎藤氏の流れを汲んでおり、その斎藤氏から正室を迎えていた信長とも縁があることになる。
こうした伝手を頼りに元親は、すでに信長と協調関係を結んでいた。
それを背景に、長宗我部家は四国統一に乗り出していたのである。
もっとも信長は、長宗我部が四国を制覇することを良しとしていたわけではない。
しかし現状、中国の毛利を牽制するためにも、今は容認するしかないだろう。
「これで武田と毛利はある程度、その動きを封じることもできるが……問題は朝倉だな」
織田にとって、もっとも厄介な敵は紛れもなく朝倉家である。
今回、北近江や若狭、丹波を得たことでその勢力は更に拡大してしまった。
このまま国力を充実されてしまうと、手が付けられなくなる可能性もある。
「色葉様と、仲良くはできませんの?」
そんなことを言う鈴鹿へと、信長はまじまじと見返した。
「あの狐のことを、ずいぶん気に入っているようだが」
「それはもちろん。素敵な方ですものね?」
「確かに面白い女狐ではあるがな」
信長とて色葉と会い、その為人を見てそれを嫌悪しているかといえば、そうでもない。
言葉通り、面白き者であるとは思う。
が、敵となればこれ以上ないほど厄介な輩だ。
「しかし鈴鹿よ。あれはそなたのことを随分敵視しておったと思うが?」
「とても哀しいことです」
鈴鹿が色葉に敵視されているのは、当然鈴鹿に原因があるからなのだが、そんなことは知ったことではないとばかりに嘆いてみせる鈴鹿である。
「あの狐は決して俺には臣従せんだろう。であれば、仲良くなど夢のまた夢のことよ」
「……殿が望むのであれば、色葉様を手にかけてもよろしいのですわよ?」
「気に入っているのではなかったのか?」
「殿の命であれば、やむを得ぬ仕儀かと」
試されているような気分になって、信長は鈴鹿を改めて見返す。
思わなかったと言えば嘘になる。
鈴鹿の力があれば、要人の暗殺など容易いだろう。
もっともあの色葉なる者は狐憑きであり、話によればその配下にも妖がいる様子。
しかし押小路烏丸殿の戦いにおいて、鈴鹿は一人で色葉やその配下を撃退したという。
詳しくは分からないが、格は鈴鹿の方が上なのだろう。
朝倉家がここまで急成長したのは、色葉という存在があってのことだということは、もはや疑いようも無い。
となれば色葉という存在がいなくなることで、朝倉家が一気に瓦解する可能性も十分にある。
だがしかし……だ。
「戯言はそこまでにしておけ」
信長は考えることを途中でやめた。
どうしても武田信玄を暗殺させた時のことを思い出してしまうからだ。
「朝倉とは和睦したばかり。どうせしばらくは互いに動けん。今は英気を養い、時を待ち、実力にて朝倉を攻め滅ぼしてみせよう。そなたの手は借りん」
「ふふ、それはようございますわ」
重畳、とばかりに鈴鹿は微笑む。
「……そういえば殿、秀吉様が手柄を立てられたとか」
ふと思い出したように、鈴鹿は話題を変えた。
「そのようだな。サルめ、どのような手段を講じたかは知らんが、石山本願寺を降しおった」
徳川の滅亡や越前侵攻の失敗、領地の割譲など面白くない話題が続いた中で、その話は唯一の朗報であったと言えただろう。
播磨にて三木城を包囲していたはずの秀吉が、どういうわけか本願寺顕如との講和を成立させ、石山御坊からの退去を実現させたのである。
「城を囲むだけで暇を持て余していたのでしょう」
鈴鹿は呑気にそんな風に言うが、あの小賢しい秀吉のことである。少しでも手柄を上げようとあくせく動いていたのだろう。
その秀吉からは勝手に講和を為してしまったことを謝罪する文と、使いの者が来ており、そのことに関して信長も思うところが無かったわけでもなかったが、苦境にあった信長としては朗報に違いなく、素直にその功を認めることにしたのである。
石山本願寺との抗争は実に九年間も続き、信長の天下統一をそれだけの期間、遅らせたとも言えなくない。
それがようやく片付いたとなれば、畿内の諸問題も一気に解決に向かう可能性が出てきたのだ。
「長浜城を失ったこともある。サルに大坂を任せてみせるのも面白いかもしれん」
「しかし、それでは信盛様の面目が立たないのでは?」
「信盛か」
この時信長が何を考えていたのかは分からない。
しかしその後、織田家重臣である佐久間信盛に突き付けられることになる折檻状は、織田家中を震撼させることになるのである。
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