第103話 両兵衛
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六月三日。
播磨国三木城を包囲する羽柴勢の陣中にあって、黒田孝高は竹中重治に呼び出されていた。
慌てて向かった孝高は、その病床にあった重治へと見舞う。
「お加減は如何ですか」
「ん……。少し、意識が戻ってな」
羽柴秀吉の参謀的存在であった重治であったが、三木合戦の最中であった今年の四月、病に倒れており、その病状は悪化の一途をたどるばかりだった。
これを心配した秀吉は、京に戻って養生するように告げたが、重治はこれを承知せず、最期まで陣中にあることを望んだのである。
「半兵衛様に何かあっては、秀吉様がお嘆きになられますぞ。少しでも養生を」
孝高は心からそう思い、一刻も早い重治の回復を願っていたものの、それが叶わないであろうことはすでに察していた。
重治にはかつて、孝高の嫡男であった松寿丸の命を助けてもらった恩がある。
これを感謝しないはずもなく、何としても恩を返したく思っていたが、しかしその機会も巡ってこないまま、重治の命はまさに尽きようとしていたのだった。
「秀吉様にはおぬしがおるゆえ、さほど心配はしておらぬ」
「それは買い被りでございますぞ」
「であれば、精進せよ。そして私の後を継いで、秀吉様にお仕えするのだ」
半兵衛こと竹中重治は、元は織田家と美濃国を巡って争った斎藤家の家臣だった人物である。
当時の斎藤家当主であった斎藤義龍は、信長の美濃侵攻をことごとく防いできた。
しかしその急死に伴い子の斎藤龍興が後を継ぐと、まだ若年であったことから求心力が低下し、動揺した斎藤家臣団は信長に切り崩されて、結果的に美濃は織田家に奪われてしまうことになる。
そのような末期の斎藤家の中にあって、それでも織田勢に苦戦を強いてきたのは重治の軍略によるところが大きかったといえた。
そのような才ある者を信長が放っておくはずもなく、秀吉に命じて重治が織田家に仕えるように勧誘させたという。
その時に交渉役となった秀吉を見た重治は、信長に仕えることは拒絶しつつも秀吉個人にならば仕えて良いとして、その家臣となる。
以降、その才を余すことなく発揮して、秀吉の躍進を支えたことは言うに及ばない。
「私が、ですか……?」
「そうだ。秀吉様は余人には持ち合わせない才をお持ちだ。しかし支える者なくば、それも発揮できぬ。そして官兵衛にはそれができよう」
それは孝高の才を重治が見抜いていたからこその言でもあった。
「良いか。秀吉様はその気になりさえすれば、天下をも狙える器だ」
「天下を、ですか?」
秀吉は織田家の家臣である。
その家臣が天下を狙うというのは、不穏当な発言でもあった。
孝高は声をひそめつつ、周囲をやや警戒しながらその言葉を繰り返す。
「しかし秀吉様は信長様にお仕えする身……」
「その織田家についてであるが、此度の朝倉家の上洛を踏まえて、おぬしは如何考える?」
越前の朝倉家が織田家――世間体としては朝廷からのという建前となっているが――からの要請を受けて、この四月に上洛を果たしていた。
そして現在、丹波にて謀反し、独立した松永久秀への討伐の任に当たっているという。
「不気味である、と」
朝倉上洛の報を聞いたその時から思っていたことを、孝高は素直に口にした。
「あの朝倉が、素直に上洛要請に応じたことは解せませぬ」
朝倉家と織田家は不倶戴天の敵同士である。
その軍配は、朝倉家の滅亡という形で織田家の方に上がったものの、いつの間にやら朝倉家は再興を果たし、北陸を制覇して、今や織田家にとっても無視できない勢力になりつつあった。
そして孝高は朝倉家の者といささか縁があり、そのことが余計に今回の動きを気味悪く感じさせていた原因である。
朝倉色葉。
幽閉されていた有岡城から自身を救ってくれた人物。
竹中重治が嫡男の命の恩人であるのならば、色葉は孝高の命の恩人であるといっても過言ではない相手だ。
そんな色葉が今、上洛しているという。
「此度の朝倉家の上洛、織田家にとって如何にも危ない。万が一、織田が畿内を平定する前に朝倉が丹波を早々に平らげてしまった場合、非常に由々しきことになるかもしれぬ」
「……されど、丹波はそう簡単には落ちますまい。明智様ですら、あれほど時がかかったのですから」
「誰しもがそう考える。今のうちだ、と。しかし果たしてそうなのか? 朝倉家は先の信長様との会見で、宣戦布告ともとれるような態度であったという。こちらにおもねる気など無いのだ。ならば何故上洛に応じた? 朝倉家が上洛することの利は何だ?」
「そ、それは……」
今回の上洛要請は、朝廷の名を使っている。
だからこそ応じた、応じざるを得なかった、と考えることもできる。
朝倉家が越前国を支配してから以降、京との繋がりは浅くない。
幕府や朝廷に献金を惜しまず、その見返りにより義景の代にあってはすでに十分名門として在ったほどなのだから。
今の朝倉家にも勤皇の意思があれば、朝廷の上洛要請に応じることを良しとしただろう。
京を荒らす松永久秀の討伐は、十分に勤皇といえるものだ。
しかし。
その実は織田家の思惑によるものである。
つまり上洛し、松永討伐の任に当たることは、織田家を利するだけで一見、朝倉家に利が無いようにも思える。
「やはり、丹波を得るためではないのですか? 話によれば、朝倉家は松永久秀の処遇について一任されることを、上洛の条件としたとか。それはつまり、そういうことではないのですか?」
「いや、信長様は松永殿の処遇一任については認めたものの、丹波国の処遇については何もおっしゃっていない。上洛の条件にも記載は無かった。仮に討伐を果たした朝倉家が丹波の領有を主張しても、織田はこれを認めるはずもない」
「それはつまり、朝倉の手落ちと……?」
「どうであろうな。そのことを明記すれば、上洛交渉が難航したであろうことは想像に難くない。敢えて持ち出さなかった、ともいえる。それに……」
仮に丹波を得たとしても、若狭が織田領であるため領国を接しておらず、事が起こった時には援軍一つ送ることもままならなくなる。
丹波を得ることは大きいが、維持があまりに難しい。
そのようなことを朝倉方が考えなかったはずもないのである。
しかし今のところ、態度に問題はあるとはいえ、朝倉勢は素直に所定の行動をこなしている。
なるほど、と孝高はここで理解した。
朝倉家が上洛に応じたことを、不気味に思った理由。
単にかつて不倶戴天の敵同士だったから解せない、という理由だけではなかったのだ。
一言でいうならば、朝倉が何を考えているのか分からない、ということだ。
もっと根深い何かが隠れているような、悪い予感が駆け抜ける。
「これは……警戒を促した方がよろしいのではありませぬか?」
「信長様とて愚かではない。家臣の中にも今回の朝倉上洛を懐疑的に見ている者も多く、警戒は十分だろう。さらに言えば、万一に備えて信長様は、徳川を動かしたとの噂もある」
「徳川様を、ですか。ならば……」
「いや、それでも危ない。今の朝倉は底が知れぬ。特に噂に聞く色葉姫……。あれは危険だ」
「かも、しれませぬが……」
色葉は孝高にとって命の恩人である。
確かに恐ろしき人物かもしれないが、それでも命を助けられたことは疑いようがない。
思惑もあったに違いないが、その一方で自分を評価してくれていたのは確かであり、家臣にとわざわざ直接出向いて望んだほどなのだ。
断りはしたが、あの時色葉に垣間見たものは、秀吉に何ら劣るものではなかっただろう。
「そこで、話を戻す。天下についてだ」
「秀吉様が、とおっしゃっていたことですか」
「そうだ。此度の朝倉上洛による結果は、未だにどうなるか読めぬとはいえ、平穏無事にすむことだけはありえないと考えておる。下手をすれば、織田家が大きく瓦解するきっかけになるやも知れん。となれば、これは秀吉様にとっての好機ともいえる」
「は、半兵衛様っ」
慌てたように、孝高は声を大きくした。
このような事、万が一にも誰かに聞かれていては、大事になる。
「この重治、決して織田家に仕えたわけではないのでな。常に秀吉様の天下を第一に考えてこれまできた」
「だとしても、口にしてはなりませぬ……!」
「口にせねば伝わるまい? それにこのままでは、秀吉様は織田家の一家臣として終わってしまう。それではあまりに口惜しい」
「されど秀吉様にその気が無ければ……」
「ある」
明確な答えに、孝高の心の臓の鼓動は一際高く打った。
「が、未だ気づいておられぬ。汚れ役となるかも知れぬが、誰かがせねばならん」
「……それを、私にせよと」
「できるであろう?」
そこで初めて、重治は笑みをみせた。
「そ、それは……」
「一度隠棲したこの身を再びこの世に舞い戻らされたのは、秀吉様である。であればその責任、果たしてもらわねばな」
この日の重治は病床にあるとは思えないほど朗々と、語るべきことを孝高へと語った。
全てを語り終えた重治は再び病床に臥し、来る六月十三日、この世を去ったのである。
享年三十六という若さであった。
しかしこの時に重治が孝高に語ったことは、後に織田家にとって重大な事件を引き起こすことになるのである。
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