第104話 天正己卯の乱
◇
やや時は遡り、天正七年六月十二日。
驚愕の報せが京の織田信長の元にもたらされていた。
すなわち松永久秀の全面降伏である。
「久秀が降伏しただと?」
信長をしてその報は、すぐにも信じられるものではなかった。
「はっ……。八上城はすでに開城したとのことで、松永殿に従っていた丹波の国人らも、時を同じくして降伏したとか」
報告を寄越した貞勝でさえ、信じられない、といった様子である。
「どういうことだ。あの久秀が降伏だと? 追い詰められるにはまだ早いではないか」
信長の知る久秀ならば、生き残るために降伏という手段も選ぶだろう。
実際に一度謀反した際は、降伏して命を存えている。
しかしそれは、とことん追い詰められて進退窮まった結果であった。
久秀自身は戦上手であり、老いたとはいえその胆力は未だ衰えてはいない。
報告によれば、その久秀は一戦にも及ぶことなく無血開城に至ったという。
八上城は堅城であり、朝倉勢五万とはいえ、包囲されても簡単に落ちるものではないはずだ。
「早すぎる……というより、不可解だ。これは久秀の策か?」
権謀術数に長けた久秀である。
攻め寄せたのが朝倉と知って、何か策を用いたのか。
もしくは……。
「事前に手を打っていたのか」
思い出されるのは、色葉が上洛の条件とした久秀の処遇一任だ。
これを遵守するのならば、織田は朝倉が久秀をどう扱おうと口出しできないことになる。
「示し合わせて降伏したと……?」
「しかし上洛要請は久秀が丹波を落とした後の話だ。久秀がこちらの動きを察し、同時に朝倉と交渉していなければあの条件を突き付けてくることは難しいはずだが……」
ともあれ、事態は由々しき展開になりつつあるのは間違いない。
そのことに信長は舌打ちする。
「では、朝倉の方が松永殿に持ち掛けた可能性は」
「あり得る」
むしろその可能性の方が高い。
「久秀め、あの狐にすでに調略されていたのか」
確信は無いが、事ここに至ってはあり得る話である。
一体どの時点から調略を受けていたのかは不明とはいえ……。
「し、しかし。ならば朝倉は手間のかかる城の普請などを亀山の地にて行ったのです? 丹波に入ってひと月以上も築城に費やしていたのは解せませぬ」
即座に降伏することが取り決められていたのであれば、あそこで時間を費やす必要など無かったのではないか、と貞勝は思ったが、それを指摘された信長は色葉の真意に気づき、思わず拳で床を打っていた。
「してやられたわ!」
「と、殿?」
「貞勝、急ぎ摂津より兵を呼び戻せ! この京が危険だ」
強い焦燥に苛まれつつも、信長は冷静に状況を分析する。
「朝倉の狐め。亀山城は丹波攻略の拠点などではなく、京攻略の拠点として築いていたのだろう。しかもこちらの銭を使ってな」
丹波亀山の地は、京の喉元に当たる。
その地にあれほどの規模をわざわざ築いたのは、京攻略を念頭に入れているからに他ならない。
万が一そうでなかったとしても、丹波を落とすのにまず亀山城を落とさなければ先に進めなくなる。
つまり丹波攻略の難易度が跳ね上がったということだった。
また時間をかけたことで、朝倉にも利はあった。
織田勢はすでに明智光秀を総大将にして摂津攻略に傾注しており、この京が手薄なのである。
羽柴秀吉は播磨を平定すべく、三木城の包囲。
滝川一益には未だ混乱している大和国の平定。
佐久間信盛は石山本願寺。
京に残っている主だった将は、若狭衆を従えた丹羽長秀のみ。
主力は光秀が率いて有岡城にあり、京を防衛する兵力としてはいかにも心もとない。
「――申し訳ありませぬ!」
「どうした、貞勝」
「殿に朝倉の上洛を進言したのはそれがしの失策でした」
「たわけ」
平伏する貞勝に、鬱陶しいことはやめろとばかりに信長が言う。
「確かに朝倉の上洛を策として申し出たのはそなたであるが、それを承認したのは俺だ。責任ならば俺にこそあるだろう」
「されど……!」
「いいから黙れ。それに今回のこと、思わぬ早さに驚きはしたが、想定していなかったわけでもない。そのために信忠には岐阜に戻らせている。京の隙を突かれたのは痛いが、逆にこれを乗り切れば朝倉こそが不利になるだろう」
言わば今回の朝倉の上洛は、博打のようなものなのである。
丹波を得て京を狙う。
戦力が分散している今ならば、千載一遇の好機である。
確かに京は危うい。
しかしその反面、朝倉領国もまた手薄となっていることは疑いようも無い。
そしてその隙を突く準備を、信長もまた怠ってはいなかったからだ。
「光秀が戻り次第、五郎左には若狭に戻らせよ。これで退路が断てる。兵站が途切れれば、五万もの大軍を維持するのは難しかろう」
これまでは約定通り、織田が朝倉の兵糧を提供してきた。
しかしこれで手切れとなったに等しく、今後供与することはありえない。
となれば丹波に備蓄してあるものを頼ることになるが、しかし五万もの兵を養う兵糧は膨大である。
早々に干上がることだろう。
となれば朝倉勢は短期決戦を当然目指してくる。
逆に長期戦に持ち込めば、いくらでも勝機は湧いてくるというものだ。
朝倉勢とて全ての兵糧を織田に頼るつもりなど無く、いくらかの備えはあるだろうが、それでもひと月と持つとは思えない。
「良いか。これは逆に好機である。この京を死守さえすれば、朝倉は再び滅亡し、一度に北陸を得ることが叶うだろう」
危機と好機は表裏一体の時が、ままある。
これを見逃さなければ、あるいは常に備えていれば、その運を引き寄せられるというものだ。
信長はそう信じ、ただちに京の守りを固めさせたのであった。
後にいう、天正己卯の乱の始まりである。
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