色葉上洛編

第92話 北ノ庄を目指して


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 天正七年二月。


 織田家より派遣された村井貞勝、明智光秀の両名は、僅かな護衛を引き連れて越前国境へと差し掛かっていた。


「明智殿はかつて朝倉家に仕えていたというが、やはり越前には詳しいのか?」


 貞勝に聞かれ、光秀はさほどでもないと、首を振ってみせる。


「織田家中では私が特に、越前や朝倉に縁があったことは間違いありませぬが」

「されどかなりの間、朝倉義景に仕えていたのだろう?」

「そうですな。十年ほどになりましょうか」


 光秀の明智家は、遡れば美濃源氏である土岐氏の支流にあたる家系で、最初、美濃一国を支配していた斎藤道三に仕えていた。


 ところが弘治二年に道三とその息子、斎藤義龍が争うことになるが、明智家は道三方に与し、義龍によって居城であった明智城は攻められ、一族は離散する。

 美濃から油坂峠を越えて越前へと逃れた光秀は、しばらく浪人したのち、越前の朝倉義景に召し抱えられた。


 その後、足利義昭が越前に動座したことで義昭と縁を得る。

 義昭は上洛を義景に再三勧めたものの動かず、ついには織田信長を頼って越前を去り、この頃から織田家に仕えるようになったのだった。


「義景は見る目が無い。もし貴殿がそのまま朝倉家に仕えておったら、我らは相当に手こずったことだろうに」

「勝敗は時の運でありますれば」


 謙虚な様子の光秀に、貞勝は苦笑した。

 今でこそ織田家中にあって異例の出世を遂げた光秀であるものの、先のような経緯により、織田家臣になってからは比較的日が浅いともいえる。


 それに対し、貞勝は信長が未だ尾張一国を掌握できていないような時期から仕え、その信任は厚い。

 現在、京都所司代という大任を得ていることからも、容易に分かるというものだった。


 もっともその貞勝から見ても光秀は優秀であり、なるほど信長が重用するのも頷けるというもので、しかし光秀は驕らず、謙虚な姿勢を崩さずにいる。


「貴殿は少し真面目すぎるな。もう少し肩の荷を抜いても良かろうに」

「さようなわけにも参りませぬ。丹波での失態……償わねばなりませぬ」


 その丹波のことが、貞勝は気にかかっていた。

 光秀は各地を転戦しつつもその本来の目的は丹波平定であり、ついには八上城に籠る波多野氏を降伏に至らしめるという、武功をあげている。


 ところがそれも束の間で、松永久秀の謀反により、あっさりと丹波を失陥。

 これは光秀ばかりの責任ともいえないのであるが、気にしていることは間違いないようだった。


 そして何よりこの丹波平定戦において、光秀は実母を失っている。

 しかもその原因は、主君である信長のあまりに配慮の無い行いを原因にして、だ。

 光秀に思うところが無いはずもない。


 しかし表面には出さず、溜め込んでいると貞勝は見ていた。

 これが後々、由々しきことにならなければいいと、若干の不安を覚えつつ、ではあったが。


「……ところで明智殿、貴殿はあの噂を知っておるか?」


 貞勝は話題を少し変えることにした。


「はて、何のことでしょう」


 思い当たることも無く、光秀は首を傾げる。


「朝倉の狐の話だ」


 ああ、と光秀は頷く。

 これは巷では有名な話だった。


 一度滅亡した朝倉家を再興し、その当主となったのが朝倉義景の従兄弟である朝倉景鏡であることは、疑いようも無い事実である。

 そして甲斐の武田勝頼の弟である仁科盛信が、景鏡の養子となって朝倉晴景と名を改め、その後継者と目されていることも広く知れ渡っていることだった。


 しかし、である。

 実際に朝倉家を牛耳っているのはこの二人ではないという。

 かの朝倉義景の娘にして、景鏡の養女となった姫がいて、それが晴景を夫に迎えたことで越甲同盟は成立したのであるが、問題はその姫である。


 名は朝倉色葉。

 今や越前国の中心は北ノ庄であるが、その色葉姫はあまり北ノ庄には顔を出さず、滅びた一乗谷に館を建てて引きこもっているという。

 そしてその姫の容姿は、まさに狐憑きであるとか。


「私が聞いた話では、とても一乗谷に引きこもっているとは言い難いものですな。あちこちに出没しているとか」

「ほう」

「つい最近では、京でもその姿を見た者もいるようですぞ」

「はは、それはさすがにどうであろうな」


 貞勝は一笑し、光秀もあくまで噂にすぎぬと頷いてみせた。


「珍しいとはいえ、そのような忌み子は古来、例が無いわけでもない。妖が化けている例もあるし、目撃例などいくらでもあろう」

「さようですな」

「しかし、だ。貴殿は朝倉家におった頃、そのような姫の噂は聞かなかったのか?」


 その問いに、光秀は眉をひそめた。


「……言われてみれば、寡聞にして存じませんな」

「まあ、忌み子であればこそ、噂通り義景の元では育てられず、景鏡の元で密かに育てられたのだろうが」

「それが如何したのです?」

「なに、かの色葉姫の噂が出始めたのは、朝倉が滅亡してから後であろう? それまではその家中にあった貴殿すらその存在を知らなかったほど、秘匿されていたといえる。そしてその姫が表に出てきた途端、朝倉家はすぐにも再興し、武田と結び、今や北陸一帯を平定し、越後の上杉すら頭の上がらぬ状況に持っていってしまった。何やら開けてはならぬものを開けてしまったような気になってな」

「……つまり、その姫とやらは何か良くないものの類であると?」

「さて、妖などそれだけで縁起のいいものでもなかろうが、多少は気を付けた方が良いとも思ってな。まあ年寄りの杞憂に過ぎんかもしれんが」


 貞勝の言葉に、光秀は少し考え込んだ。

 主君である織田信長の躍進ぶりも大したものであるが、ここ数年の朝倉家の飛躍もまた、それに劣らぬ偉業ともいえる。


 それを噂通り、その色葉なる姫が裏から行っていたとしたら、かなり警戒すべき相手であるといえるだろう。


「肝に命じましょう。……この先、会う可能性もありますからな」

「おお、それにだ。その狐憑きの姫君は何とも見目麗しいとのことであるぞ? 民から異様に人気があると、丹羽殿が申しておった」

「はあ」

「しかし一方で自ら戦場に出て、その有様や鬼のようだとも言われているらしい。知っておるか? 何でも越後出兵の折に姉小路頼綱殿が共に戦われたというが、背後に立たれただけでそれはもう、悲壮な様子であったとか」

「……あの姉小路殿が、ですか」


 かつて飛騨を治めていた姉小路頼綱は、今でこそ朝倉家臣に成り下がってしまったものの、かつては織田家の同盟相手である。

 頼綱は京の公家とのつながりも深く、信長も頼綱との同盟関係を重視していた節があった。


 もっともその飛騨国は朝倉家と武田家による電撃的な侵攻により侵略され、今では対外的には朝倉領となっているものの、実際にそれを治めているのは武田家臣であるという、複雑な土地になってしまっている。


「しかし中納言殿もまこと紆余曲折であるな。国を失ったと思ったら、今や越中一国を預かる身と聞くし、世の中というのは分からないものだ」


 確かに世の中というのは分からないものである。

 光秀自身、このように織田家中においての出世頭になるとは思ってもいなかったからだ。

 とはいえ。


「……村井様は、実に巷の噂にお詳しいのですな」


 光秀をして、やや呆れるくらいの精通ぶりである。


「おお、そうか? いや京などに長くいると、いくらでも噂話が聞こえるようになっての。まあ年寄りの道楽とでも思ってくれていれば良い」

「はあ……」

「そうそう。噂話ついでに一つ思い出したぞ。我らが向かっている疋壇城であるが、ここを守っている将のことを知っておるか?」

「それは存じています」


 疋壇城は越前国境を守る最前線の拠点だ。

 そこを守っている人物について、知らない方がおかしいというものである。


「当然であるな。――姉川十一段崩し。まずは磯野殿に会うとしようか」

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