第89話 有岡城の虜囚


     /色葉


「これだけ寒いのにその様では、なるほど身体を悪くするのも道理だな」


 有岡城内にある土牢の中に打ち捨てられたようにしてあった人物に、わたしは声をかけた。


「……誰だ?」


 振り返り、わたしを見返した男は少し驚いたような顔になる。

 それもそうだろう。

 牢の中に突然入ってきた人物が、尻尾の生えた狐憑きの小娘であったのだから。


「色葉という。朝倉色葉。……しかし噂通りの劣悪な環境だな。まだ一ヶ月程度だろうけど、ひどく臭うぞ」


 髪はともかく、髭は伸び放題となっている青年。

 衣服は汚れており、悪臭も漂っている。

 一週間でもこんな所に閉じ込められたら気が狂ってしまいそうな、そんな空間だった。


「朝倉、だと……?」

「そうだ。そういうお前は黒田孝高で間違いないな?」


 確認するまでもなく、この若い男が黒田孝高であることは疑いようも無い。


「しかしご苦労なことだ。主にも裏切られ、村重にもこのように扱われ……。挙句には播磨の者どもにも信長にも裏切られる始末とは、不幸にも程があると思うが」

「どういうことだ?」


 それはこの男にとって聞き捨てならない台詞だったはずだ。

 男の名は黒田孝高。

 播磨国に勢力を誇る、小寺政職に仕える家臣である。


 この小寺氏は播磨国守護であった赤松氏の重臣であったものの、戦国の世の倣いとでもいうべきか、幾度かの抗争を経て、半独立勢力としての地位を築くに至った経緯があった。

 政職は孝高の能力を認め、厚遇したという。


 この播磨国においては、西から毛利家が、東からは織田家が迫ってきており、どちらに与すべきかで国内は紛糾した。

 孝高は国内の国人領主らを説得して回り、播磨国の大勢は織田方につくこととなる。


 ところが東播磨の大勢力であった別所長治が反旗を翻し、いわゆる三木合戦が勃発。

 更には摂津の有岡城の荒木村重が謀反し、これに政職が呼応してしまったのである。


 主である政職が信長に背き、毛利に通じたことを憂慮した孝高は、単身有岡城に赴き、村重の説得に挑む。


 しかし説得には失敗。

 孝高は村重に捕らえられ、今現在、有岡城の土牢に幽閉されるという憂き目に遭っているのだ。


「村重に続いて、丹波を攻略した松永久秀が信長に対して謀反してな」

「なっ……?」


 この男でも想像もできなかった事態なのだろう。

 頭が真っ白になったかのように、言葉を詰まらせる。

 わたしはそんな表情に気を良くして、先を続けた。


「丹波は明智様が攻略を担当されていたはず。だというのになぜ……?」

「お前がこんな所で寝ている間に、世間では色々あったということだ。……ともあれ丹波からは織田方が駆逐されて、この機に乗じた村重は討って出、滝川一益を破っている。信長も安土で呑気に鷹狩りなどを楽しんでいるから、こんなことになる」


 くつくつと、わたしは笑う。

 まあ仕向けたのはわたしではあるけれど。


「おかげで織田方はまったく士気が上がっていない。敗れた上に、摂津と丹波情勢が後退した以上、周囲の者どもは動揺するというもの。播磨などでは大騒ぎになっているぞ?」

「まさか」

「そうだ。お前が説得して回った連中は、早くも毛利方に傾いている。お前の家臣どもは頑張ってはいるが、孤立しつつあるな。この機に毛利や宇喜多が進軍すれば、羽柴らも支えきれず、三木城は解放されることになるか」

「…………」


 自身が捕らわれている間に目まぐるしく情勢が動いていることを知らされてか、孝高は歯噛みした。

 まあ気持ちは分かる。

 しかし有岡城に乗り込んだこの男の失策によるものであり、自業自得だ。


「噂通りだな。お前はとても頭がいい。即断即決。それは大抵の場合、自身に利をもたらすが、時折このような大失態を招く」

「私が……誤っていたと?」

「心意気は買うぞ? 敵城に一人で乗り込む度胸は大したものだ。しかし、生きて帰れねば蛮勇としか言えないだろうが」


 まあ、結果論ではあるけれど。


「で、だ。わたしはお前が欲しい。そのために正月だというのに餅を食べるのを諦めて、わざわざこんな陰気臭い土牢まで足を運んだんだ」


 今年こそは一乗谷の館でのんびりと雑煮を食べつつ、三日間くらいは家臣どもを呼びつけて酒宴三昧にしようと思っていたのに、ここにこの男が捕らわれていることを知って、それを諦めたのである。

 しかもこっそりと忍び込んでここにいるものだから、多少は苦労もしているし。


「なん……だと?」

「察しが悪いな。こんな所にいて頭の中まで腐りかけているのか」


 わたしの口の悪さにも文句を言うこともなく、孝高は必至で思考を巡らせているようではあったものの、明確な回答にはつながらなかったようだ。

 色々と、事情が呑み込めていないらしい。


「ここから出してやると言っている」

「助けるだと? しかし、なぜ……」

「だからお前が欲しいからだと言っただろうが。お前、本当に頭がいいのか?」


 多少苛々し始めたせいで、わたしの尻尾が不穏に動いた。


 ここは寒いし、じめっぽいし、暗いし、臭いし。

 孝高はこんな所に閉じ込められていたせいか、惚けてるし。


 家臣どもならすぐにも身構えたことだろうけど、孝高にしてみればこれがどういうわたしの心理状態を示しているかは分からない。

 まあ知らぬが仏、というやつだが。


「待て、待ってくれ……。貴殿は何者なんだ? なぜ、そんなことを……」

「自己紹介ならしたぞ?」

「聞いた。朝倉……」

「色葉、だ。わたしの名前を忘れるなんて、無礼な奴だな」


 半眼になってもう一度名乗れば、孝高はさらに戸惑ったようになった。


「朝倉というのは……まさか、あの越前の朝倉のことか?」

「そうだ。わたしの父上が、朝倉家の当主をやってるそ」


 播磨国からは多少離れているとはいえ、越前の朝倉のことは知っているようだ。


「つまり朝倉の姫が、こんな所に一人で……?」

「そういうことだ。感謝しろ。このわたしがわざわざ足を運んで、自ら助けてやろうと言っているんだからな」

「あり得ない。何の謀りか」


 どうやら信じられないらしい。

 わたしは溜息をついた。


「村重にこんなことをされて、人間不信にでもなったのか?」

「そんなことはない。しかし女子が一人、こんな所に来れるはずもないだろう。荒木殿の策か何かか」


 常識で考えればそうだけど……面倒臭いな。


「来れるとも。……ほら、な?」


 わたしはそうだと思いついて、自身の尻尾を見せてやった。

 薄暗くて分かりずらかったし、土牢の臭いのせいでこれもまた消されていたのであるが、周囲には血臭が漂っているし、尻尾は赤く塗れている。


 当然これは、ひとの血だ。

 ここに来るまでに、何人かが犠牲になった証でもあった。


 わたしの尻尾にはたかれた人間などは、それこそ木っ端微塵になる。

 無残にもタタキのような有様になってしまうのであるが、さりとて優しく殺してやる義理も無い。


 ここで初めて孝高は、わたしの危うさに気づいたのだろう。

 ぞっとしたような表情を面に出した。


「ひと……ではないのか」

「そういう見てくれではないだろう? まあ、わたしは自分を人外とは思ってはいないがな。まあいい。信じられないのももっともか。とりあえずここから出してやる。足腰は立つのか?」

「……問題無い」


 やや覚束ない足取りではあったものの、立って歩くことはできそうだ。


「ならついてこい。外ではお前の家臣どもが待っている」


     ◇


 見張りはあらかた片付けていたことや、乙葉がしっかりと退路を確保していてくれたこともあり、脱出は侵入よりも容易だった。

 塀などはわたしが孝高を引っ掴み、強引に飛び越えたりしつつして突破。

 特に恨みも無かったが、見張りの何人かには死んでもらったから、そのうち騒ぎにはなるだろう。

 もっとも後の祭りではあるけれど。


「殿!」


 有岡城の外で待機していた複数の者のうち、一人が慌てて駆け寄ってきた。

 孝高よりやや若く、名を栗山利安という。

 孝高の家臣である。


「善助か」

「ご無事で何より……!」


 感極まったような利安らはしばらく放っておいて、わたしは少し離れて控えていた乙葉を呼ぶ。


「様子は?」

「大丈夫。まだ誰にも見つかってないから」

「それは何より」

「色葉様。あれが黒田孝高なの?」

「らしいな」


 本人からは一度も名乗らなかったが、家臣どものあの様子からは間違いないだろう。

 孝高が村重に捕らわれて以来、家臣どもは有岡城下に侵入するなどして、主の安否をこれまでずっと探っていたのだった。


 そのためまずわたしは家臣の中でも孝高の側近であった栗山利安に接触し、今夜の脱出計画を持ち掛けたのである。

 藁をもすがる思いだった栗山らはこれに応じ、こういう運びとなった次第であった。


「ふーん……。何だか弱そう。冴えない感じだし」

「一ヶ月も大した食事も与えられず、あんな土牢に放り込まれていれば、心身ともに弱るだろう。しかしあいつは運がいいがな」


 わたしの知る史実では、やはり栗山利安らによって孝高は救出されるが、それは約一年後を待たなければならない。

 そしてあのような過酷な環境で一年も幽閉されたことで、孝高の足は不自由になってしまう。

 だが今はまだ一ヶ月程度だったこともあり、身体は弱ってきているようではあるが、特に不自由は無いようだ。


 しばらく家臣らと話し合っていた孝高を、わたしは根気よく待った。

 こちらのことを信じられていない孝高へと、家臣どもから説明させた方が納得がいくと判断したからである。


 当然だがあの家臣どもは、すでにわたしのことを承知している。

 正信らと丹波の波多野の元に赴き、その後越前には戻らず、京や摂津、播磨などを色々渡り歩き、色々と暗躍している中で栗山らと出会い、黒田孝高のことを知って、今回の計画に及んだのだ。


 ちなみに黒田孝高という名前よりも、黒田官兵衛という名の方が、現代では通りがいいらしい――とは、アカシアの知識である。

 そしてこの人物は、羽柴秀吉の側近として仕え、その軍事的才能をもって秀吉を天下人に押しやったことでも有名だ。


 現在の孝高は未だ小寺政職ではあるものの、織田家に帰順して以降は、信長から派遣された羽柴秀吉の元で働くことが多くなり、小寺政職が信長から反したことを契機に、有岡城脱出後は名実ともに秀吉の家臣となることになる。


 そういうわけで、今の孝高の立場は非常に曖昧なものであると言えるだろう。

 そこに目を付けた、というわけである。

 だいぶたってから、よろよろと孝高がわたしの前にやってきて、膝をついて頭を下げた。


「この命を助けていただいたこと、感謝いたす」

「ようやく信じたか?」

「我が命を救ってくれたことに関しては、紛れも無き事実ゆえ」

「ふん、まあいいだろう。で、わたしの話は覚えているな? 助けた代償というわけではないが、わたしはお前の才が欲しい」


 単刀直入に告げる。

 しかし孝高は首を縦に振らなかった。


「私は播磨に戻らなければならぬ。家臣や領民もいる。何より播磨はこれから更なる動乱の渦に巻き込まれるかもしれない。だというのにそれらを捨て、越前に向かうことは難しいことなれば」

「……存外民想いだな。ならば、今後どうするつもりだ? お前の主は毛利に与したわけだが」

「私はやはり、このまま織田家につくのが最善であると考えている。政職様が裏切られたのならば尚のこと。でなくては黒田家に、どのような災厄が降りかかるか分からない」

「災厄、か」


 そこでわたしは意味ありげに肩をすくめてみせた。


「その反応からすると、お前の家臣どもはまだ伝えていないようだな?」

「……?」

「あ、朝倉殿。それは――」


 話を聞いていた栗山が慌てたように話に割って入ったが、わたしは鼻を鳴らして一蹴する。


「どうせすぐに知れることだ」

「なんだ? 何か、あったのか?」

「人質に出していたお前の息子、松寿丸だったか。有岡城にお前が入ったきり戻ってこないものだから、お前も裏切ったと断じ、処刑されたぞ?」

「な――」


 言葉を失う孝高へと、わたしはやや意地の悪い気分になってそれを眺めた。


「ば、馬鹿な! 私は裏切ってなどいない! なぜ、織田様は――!」

「そういう性格だからな、信長という男は。主を見誤ったのではないか?」


 くすくすと笑みを浮かべつつ、揶揄してやる。

 この男でも、さすがに息子を失ったと聞いては平静ではいられなかったらしい。

 絶望もあらわに家臣たちを見返すものの、それに応えることのできる者はおらず。


「そういうわけだ。織田につくのもいいが、果たして未来はあるのか? いや、その未来は奪われたのか」

「朝倉殿、そこまでにしてはいただけませぬか!」


 追い詰めるわたしにたまらなくなったように、栗山が声を大にした。


「……なに?」


 むっとなったのは、隣にいた乙葉である。

 無礼、とでも思ったのだろう。

 が、それをそっと制してやったので、特に噛み付いたりはしなかったが。


「許せ。この男がわたしに靡かないものだから、ついいじめたくなっただけだ。――孝高、もう一度聞くが、わたしに仕えるつもりはないか?」

「…………」

「やれやれ。少し刺激が強すぎたか。ならそのまま聞け。……お前がこのまま織田に残るというのなら、それもいい。流れからして、お前は秀吉に仕えることになるだろう。秀吉もお前を重用する。最初のうちは、な」


 これはあくまで史実での話である。


「しかし次第にお前を遠ざけるようになる。お前の才を恐れてな。まあそれでも、それなりの大身にはなれるかもしれない。もっとも、織田家が存続していればの話ではあるが」


 朝倉と織田は、近い将来戦になる。

 織田はもちろん強敵ではあるが、これを破らなければ天下統一などあり得ないだろう。

 史実とは当然違った道になるだろうし、現にそうなってきている。


「今すぐに、とは言わない。ただ今夜助けたことを恩と感じるのならば、わたしのことを覚えておけ。いずれ、機会があった時に、もう一度考えればいい」


 孝高からは特段の反応は無かったものの、まあいい。

 焦る必要は無い。

 それにこれで縁はできたのだし、調略というのはのんびりとするものだろう。


「乙葉、行くぞ」

「え、いいの?」

「いい。これでこちらでの仕事はとりあえず終わりだ。一乗谷に帰るぞ」

「帰れるの? やった♪」


 嬉しそうにじゃれてくる乙葉の頭を撫でつつ、わたしは思い出したかのように足を止め、最後に言ってやった。


「言い忘れたが、お前の息子は生きている。竹中重治とやらに感謝することだ。今ならば死に目にも十分に間に合うだろうから」

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