第90話 畿内動乱


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 天正六年十二月三十一日。


 松永久秀謀反。

 この知らせは直ちに安土の信長の元に届けられた。


 久秀にとって、これは二度目の謀反となる。

 しかし信長は当初、これを全く信じられなかったという。


 同日、有岡城を警戒していた織田方の滝川勢に対し、突如荒木勢が討って出、これに快勝する。

 事前に松永方によってもたらされた内部情報により、滝川勢の情報が筒抜けになっていたことが要因であった。


 これにより摂津国での織田方の戦力は大きく後退する。

 安土にいた信長は事の真相を確かめるため、松井友閑を丹波に派遣。

 しかし久秀は使者に会うことも無く、年が明けて天正七年一月十四日には逆に兵をあげて京へと迫ったのである。


 これに呼応し、荒木村重もまた京へと進軍。

 慌てた信長は即座に京へと軍勢を集めたものの、松永勢や荒木勢は京の周辺を荒らしただけで積極的な攻勢には出ず、両軍睨み合いとなり、事態は膠着した。


 しかし悪い知らせは更に信長の元へと届けられる。

 明らかに久秀が捨てたとしか思えない大和国において、小規模ながらも騒乱が起きたのだ。


 まず久秀の居城であった信貴山城は何者かによって放火されて炎上し、崩壊。

 それを皮切りに大和国内でいくつもの火の手があがり、一時的に大混乱に陥ったのだった。


 これは大和を治めていた筒井順慶が何者かに暗殺され、その求心力が低下していたことにも起因する。

 順慶には子がおらず、筒井順国の次男であった筒井定次を養子とし、後継ぎに定めていた。


 しかしこの時はまだ十代と幼く、大和一国を支配するには不十分だったのである。

 特に大和では寺社勢力の力が強く、順慶の死によってこれらが反抗的な姿勢を顕在化。

 混乱に拍車をかけた。


 更には筒井家臣であった中坊秀祐と島清興との間の確執が表面化し、定次が中坊についたことで立場を無くした島は筒井家を辞すなど、混乱は継続する。


 このような中、雑賀衆や石山本願寺が今こそ好機とばかりに息を吹き返したことで、織田方は容易に軍を動かすことができず、各地で事態が膠着したのだった。


 当然これらは全て、事前に色葉が仕込んでいたものが顕在化したものである。


     ◇


「……ここまで事態が悪化するとはな」


 安土から京に入っていた信長は、不機嫌もあらわにしていた。

 今回の一連の騒動に松永久秀が絡んでいたことはもはや疑いようも無い。


 まさか大和にある領国を放棄するなど思いもよらなかったが、現にこうして久秀は丹波を得、周囲の反信長勢力が息を吹き返す始末である。

 松永方を打ち破るために丹波方面へと一気に兵を進めたくとも、それをすると摂津の荒木や石山本願寺が不穏な動きをする上に、大和の領国安定にも兵を割かねばならず、信長は頭が痛いことこの上無かった。


 しかし事態は畿内だけに収まっていない。

 この機を逃すはずもなく、中国の毛利や甲斐の武田の蠢動が著しい。

 とはいえこれを取るに足らないと、切って捨ておくこともできなかった。


 特に武田家は長篠の戦い以降、一時的に力を落としていたものの、現在ではかなりその力を回復させていることは明白である。

 これは同盟国である越前の朝倉が援助を惜しんでいないからだ。


 朝倉の経済力を背景に立て直しを計った武田勝頼は、上杉謙信の死後、上杉家の家督継承にも介入し、上野方面の割譲を受け、勢力を拡大。


 徳川家康がこれを牽制し、国境では小競り合いが続いているものの、家康は逆に押される始末である。

 北条家の存在もあって、今のところ武田の大規模な攻勢は行われていないものの、東の状況は芳しくはなかった。


 中国方面では羽柴秀吉が宇喜多直家の調略を行っているものの、まだ結果は出ていない。


 そして最大の懸案が、越前の朝倉だった。

 武田と同じく上杉の家督継承に介入し、その際には上杉景勝に協力して援軍を派遣し、これを大いに助けている。


 結果、上杉景勝が上杉家の家督継承を果たし、朝倉家に友好的な政権が樹立した。

 この内乱で上杉家は力を弱めたこともあって、朝倉にはもはや北側に脅威は無く、むしろ上杉家を従えんばかりの勢いであるという。


 そんな朝倉の動きは、今のところ無い。

 不気味なほどの静けさであった。


「久秀め。最初からそのつもりだったのか」


 今回の騒動を全て久秀が演出したとするならば、梟雄の名が実に相応しい。

 もしかすると、村重の謀反にも関与していたのかもしれないし、やはり噂通り、筒井順慶を暗殺したのも久秀なのだろう。

 そして現状の流れからすると、その目的は京であろうか。


「貞勝、京の様子はどうか」

「やや治安の低下が見られます。松永勢が最初、京の外を焼き討ちしたせいもあって、避難する者も押し寄せておりますゆえ」

「公家どもの動きは」

「殿が参られたこともあり、今のところ動揺はありません」


 京都所司代である村井貞勝の返事に、信長は頷いた。


「光秀、久秀の動きは?」

「は。こちらが押せば引き、引けば押してくるようで、小競り合いにすら発展しておりませぬ」

「ここまで進軍しておきながら、戦う気が無いということか」

「恐らくは」


 数の上では織田方有利は動かない。

 数で劣る久秀はまともに戦う気は無く、かつて波多野秀治がそうしたように、丹波の地形を活かすために引き込んだ上で、翻弄するつもりなのだろう。


 その策には乗る気は無いが、しかしこうしている間にも八上城やその他の城の改修や補修を行わせているようで、兵糧も丹後経由で大量に運び込んでいる、との情報がある。

 早々にどうにかしなければ、再び長期の籠城戦に発展するかもしれない。


「忌々しい。こうなると丹後の一色も加担していることになるな。もしくは海路で毛利あたりから兵糧を得ているのか」

「八上城だけでなく、有岡城や石山本願寺にも、新たに物資が搬入されているとのこと。これでは……」

「毛利め。あそこは領国が広く、経済力だけはあるからな。厄介な敵だ」


 ともあれこの戦局を打破するにはどうすべきか。

 とにかく一つ一つ潰していくしか方法は無い。

 しかし一つを潰そうとすると、他が動く。

 そのため動けずにいるのが現状である。


「殿、いったん羽柴殿を播磨から呼び戻しては如何でしょうか。中国戦線に振り分けられている兵力を全て畿内平定に向ければ、現状の打破は可能かと」


 貞勝の言に、待たれよと口を挟んだのは光秀である。


「それも一つの方法ではあるが、それでは三木城の別所が息を吹き返す。播磨は完全に毛利に靡くことになるだろう。となれば、宇喜多直家への調略は失敗し、毛利が播磨を平定して畿内に押し寄せるやも知れぬ」

「されど畿内をどうにかせねば、中国どころではありますまい」

「それはそうであるが……」


 光秀が恐れるのは、現在の均衡が崩れることである。


「殿、徳川様に援軍を頼むことはできませぬか? 今、我らだけで全ての戦線に兵を振り分けていては、兵が足りませぬ。どこか一つでも平定することができれば、流れは自然と我ら有利になるはず」

「家康は動けんだろう」

「……武田ですか」


 光秀も分かっていなかったわけではない。

 武田勝頼は虎視眈々と織田領を狙っているであろうし、それを牽制しているのは同盟国である徳川家康である以上、迂闊に軍勢など動かせるはずもないことに。


「それにな、光秀。今この均衡を崩すかもしれない、一番恐ろしいものは何だと考える?」


 不意に問われ、光秀は思考を巡らした。

 やはり毛利の積極的侵攻が一番恐ろしいと思うが、どうやらそれではないらしい。

 となると……。


「まさか殿は、越前の朝倉を憂慮されているのですか」

「当然だろう」


 今のところ、周辺国で一番動きが読めないのが越前の朝倉である。


「今の朝倉には後顧の憂いが全くない。しかもその軍勢は、義景の時を遥かに上回るだろう。もしこれが近江に進軍してきたならば、どうなる?」

「そ、それは」


 光秀はぞっとなった。

 現在、羽柴秀吉が播磨に出張っていることもあって、北陸方面の抑えは丹羽長秀や柴田勝家が担っている。


 しかし現在の兵力は畿内に振り分けられているため、多くはない。

 そもそも荒木村重の謀反さえなければ、越前侵攻が実行されていたはずだったのだ。


 そしてそのことを、朝倉が察知していないはずもない。

 万が一、朝倉が近江に進出してきた場合、非常に由々しきことになるのは目に見えていた。


「朝倉の動き次第では窮地に陥りますな……」


 貞勝が唸る。


「朝倉には波多野を支援していたという噂もあるからな。それに、この機とばかりに本願寺が援軍要請をするかもしれん」


 信長の憂慮は何よりであったが、しかし打開策が無い。

 これではまるで、かつて武田信玄が西上作戦を行い、京を目指そうとしていた時と同じような状況ではないか。


「ともあれ丹羽殿には若狭を、柴田殿には近江を固めてもらわねばなりません。今は冬ですから、朝倉が動くとなれば春でしょうから、それまでにできる限りの備えをすべきかと」

「美濃方面の備えも必要だろう」

「確かに」


 武田領と接していることもあって、美濃方面の守りは手堅いものの、道は悪くとも越前からの侵入もありえるのだ。


「郡上八幡の遠藤慶隆に越前方面の監視強化はすでに命じてある。ここはそう簡単には抜けんだろうが、万が一ここを落とされると、越前と飛騨の連携が可能になって、岐阜が危うくなるな」

「これは……よろしくない状況ですな」


 つまるところ、朝倉の動き次第ではかなりの窮地に立たされることを意味する。

 迎撃できれば良いが、北陸を瞬く間に平定した今の朝倉家の実力は、以前の比ではないかもしれない。


 これまで朝倉を放っていたツケが、ここで回ってくることになったことに、信長は歯噛みする。

 せめてもう一年早く越前侵攻を考えていれば、こうはならなかったのかもしれない。

 もちろん、情勢がそれを許さなかったこともあるが。


「殿、一つよろしいでしょうか」


 ここで貞勝が声を上げた。


「何だ?」

「我らと朝倉は、かつては不倶戴天の敵同士ではあったとはいえ、義景が滅んだ以降の朝倉家とは敵対しておりません。これまで朝倉が不用意にこちらに攻め寄せなかったことからも、敵対の意思は無い可能性があります。もちろん断言はできませんが……」

「貞勝、何が言いたい?」

「は、つまり手を結ぶことはできないか、と申し上げているのです」


 それは信長にとっても光秀にとっても、思わぬことだった。


「手を結ぶ? 朝倉と?」

「はい。確かに朝倉は今のところ、敵か味方かわかりませぬ。そして現状、敵に回すはあまりに不利。であれば、味方に引き入れるのです」


 村井貞勝は京都所司代として織田政権の行政全般を担っており、その行政能力は非常に優れている。

 一方で軍務にはさほど携わっていないことが、今回のまず敵を作らない、という発想に行き着いたともいえる。


「つまり、上洛させるのです」

「ほう」


 感心したように、信長は頷いた。


「名目は京の治安回復……松永久秀の討伐でよろしいでしょう。朝倉がこれを受け、丹波平定に乗り出す間に有岡城を落とすも良し、協力して丹波を平定するも良し、大和を平定するも良し、とにかく時間を稼ぐことができれば、選択肢は広まりましょう」

「ふむ……面白いことを言うな、貞勝は」

「如何でしょうか?」

「朝倉が乗ってこなかった場合はどうする?」


 これは十分に考えられる可能性でもあった。

 かつて信長は、朝倉義景に対して再三に渡って上洛命令をし、これを無視し続けた義景に対して越前侵攻を行い、いわゆる金ヶ崎の戦いに発展することになる。


「今回の上洛は殿からではなく、朝廷に行わせるのです。もちろん殿からであるとは察するでしょうが、その返答次第では朝倉の腹の内も分かるというもの。また断った場合は朝敵とする名目も立ちます。当初から敵と想定していたのですから、仮に断ってきたとしても、現状に変化はありません」

「なるほどな。うまく考えてある。まあその可能性は高いだろうが、やっても損は無し、ということか」

「然様にございます」


「しかし殿、仮に朝倉が了承したとしても、素直に信じるのは危険ではありませぬか?」


 ここで杞憂を示したのは光秀であった。


「相変わらずの心配性であるな」

「それは認めますが……。仮に上洛となったとして、朝倉勢は必ず我らが領内を通過することになります。特に近江方面を通過させるのは危ういかと」

「それも一理ある。ならば若狭を通過させることにしよう」

「それがよろしいかと思います」

「細かいことはもっと詰める必要もあるが、それは朝倉が上洛要請を受けてからのことだな。それよりも今は、次善策についても考える必要があるだろう」


 こうして。

 村井貞勝の提案によって為された朝倉家への上洛要請が、新たなる局面へと時代を導くことになるのであった。

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