第18話 第二次九頭竜川の戦い


     ◇


 天正二年五月。


 奥越前の支配につまずいた越前一向一揆は、矛先を変え、旧朝倉家臣でほぼ唯一、一揆勢に対して抵抗を続けていた丹生郡にある織田城を包囲していた。


 率いるのは七里頼周。

 対する織田城城主は朝倉景綱であった。

 現在は織田家臣となっており、当然一揆の標的となっている。


 圧倒的な数の一揆勢に対し、景綱も奮戦するものの衆寡敵せず、その夜、逃亡の算段を企てていた。

 これまで付き従っていた家臣及び城内に籠る五百の兵は、当然見捨てる算段である。


「ふうん。聞いた話では刀根坂の戦いでも主君を見捨てて逃げ帰ったそうじゃないか。ずいぶんな家臣もいたものだな?」


 揶揄するような声が、夜の闇に響く。

 女――いや、まだ娘の声だろうか。


「誰だ!?」

「朝倉色葉――そう名乗れば分かるか?」


 闇から現れたのは、紛れもなく少女であった。

 しかし小娘とは思えない異様な威圧を放ち、口元は皮肉げに歪んでいる。


 そして噂に違わぬ尻尾と耳。

 ひとの子とは思えぬ美貌。


 話によれば朝倉景鏡と共に平泉寺衆を率い、一向一揆勢を撃退したという妖の少女。


「では……お前が義景の落胤だと言うのか……?」

「ふん。噂というのもは、本当に早いものだな」

「そのような妖しき者が、いったい何の用だというのだ!?」


 知らず怯えてしまっているせいか、その声は自然大きくなってしまう。

 そんな景綱へと、そっと色葉は唇に指を当て、静かにと言外に告げた。


「家臣に逃亡を知られてもいいのか? それはそれで見物だが、ここで諦められては少しわたしが困る。それでも逃げると言うのならば、お前を殺す。……このように、な?」


 色葉は笑みを浮かべつつ、左手に持っていたものを掲げてみせた。

 それは坊主の生首。


 よく見れば色葉の全身は朱に塗れており、今し方戦場を駆けてきたような有様であった。

 それを足元に落とすと、無造作に踏みつけ、そのままベキバキと踏み砕く。


「すぐに討って出るがいい。ここに来るまでの間に適当に暴れておいたから、外の一揆どもは、今や混乱の極みにあるはずだ。今ならば簡単に潰走させられるぞ?」

「そ、そのようなこと……!」

「……ふん、意気地が無いのか。なるほど、父上がわたしをここに行くのを薦めたのは、そういうことか。なら恐怖で追い立ててやるまでだな?」


 その嗜虐的な表情に、景綱は足が震えだすのを止められなかった。

 ゆっくりと、色葉が歩み寄ってくる。


 ここままでは殺される。

 本能がそう訴えかけ、色葉の指先が景綱に届く寸前で、彼はどうにか声を絞り出すことに成功していた。


「わ、分かった! 言う通りにする! だからそれ以上は近づくな!」

「ああ、それでいい」


 頷きながらも、色葉は少しも気が晴れなかった。

 口の端は確かに笑みに歪んでいるものの、その目は少しも笑っていない。

 正直言って不愉快極まりなかったからだ。


 裏切りはいい。

 ある意味で積極的な行動で、物事に対して柔軟に対応できる力であると、少なくとも色葉はそう考えている。


 特にこの時代にあっては必要な対応力であろう。

 そのような行為はいつの時代にあっても好まれる類のものではないが、裏切られる方が悪いとも考えていたからだ。


 もっとも、自身が裏切られた際に果たして寛容でいられるかどうかは、また別問題であるが。


 ともあれ、策無き逃亡は看過できなかった。

 しかもこれまで従ってきた家臣を見捨てるなど、言語道断ではないのか。


 白川郷で内ヶ島勢に攻められた時、貞宗らを見捨てて逃げることを考えつつも、まるで実行する気が無かった理由は、恐らくこの辺りの自身の性格に由来するらしい。


「胸糞悪い」


 ばたばたと駆け戻っていく景綱を見送りつつ、色葉は冷めていく感情のまま思考する。


「とはいえわざわざわたしがここまで出向いたんだ。せいぜい役に立ってもらうとしようか」


 その夜、朝倉景綱率いる織田城の手勢は、決死隊となって一向一揆勢へと突撃した。


 織田城を囲んでいた一揆勢は、相手の分からぬ奇襲を受け混乱していた挙句、総大将であった七里頼周が何者かに首を取られたことで、統制がとれずに瓦解。

 しかし圧倒的多数の一揆勢に果敢に突撃した景綱もまた、名誉の戦死を遂げたのである。


 朝倉景綱は討死したが、表面上その決死の覚悟で織田城を守り、七里頼周を敗死させた上に一揆勢を潰走させたことは、越前一向一揆に衝撃を与えた。


 また色葉が織田城攻防戦において景綱に加勢し、景綱が討死した後は残兵を率いて一揆勢を徹底的に追い立て、織田城を守り通したことは丹生郡の民に大いに広まった。


 この一件や、越前一向一揆の総指揮をとっていた下間頼照の悪政もあって、徐々に反一向一揆の機運が高まっていくことになる。


 そして天正二年七月。


 景鏡の居城であった亥山城は杉浦玄任の支配するところとなっており、これを奪還すべく、景鏡率いる平泉寺衆が大野郡南袋へと侵攻した。

 その数五千。


 迎え撃つ杉浦玄任率いる一揆勢、一万余り。

 大野郡のうち、北袋と南袋は九頭竜川によって分断されており、両者はこの九頭竜川を挟んでの対陣となった。


 河川は非常に強固な障害となるため、渡河作戦は難しく、一般的に攻める方が不利となる。

 そのため両軍は動けず、睨み合う日々が続いた。


「何故攻めぬのか。このまま突っ立っているだけでは勝負にならぬぞ」


 平泉寺衆を率いる坊官の一人、三段崎宝蔵坊は数日経っても動かない景鏡へと、我慢もこれまでと詰め寄った。


「渡河が危険なことは百も承知。しかし永正三年の加賀一向一揆との合戦は知っているであろう。あの時の勝利は劣勢でありながら果敢に攻めたがゆえ。いかに相手が烏合の衆とはいえ、その数は脅威。ひとたび動き出せば雲霞のごとく押し寄せ、我らは呑み込まれようぞ」


 宝蔵坊の言う永正三年の合戦とは、かつてこの越前国に加賀一向一揆を中心とする越中、能登ら一向一揆の連合軍、総勢三十万が押し寄せてきた時のことである。


 迎え撃つ朝倉勢は一万程度ではあったものの、九頭竜川を挟んで対峙し、朝倉家の名将であった朝倉宗滴の活躍でこれを撃退。

 これが世にいう九頭竜川の戦いであり、今より七十年近く昔の出来事である。


 今回の合戦は永正三年に行われた合戦の場所よりもずっと上流に位置しているが、奇しくも一向一揆勢と朝倉勢の戦いが、再び九頭竜川を挟んで行われようとしていたのだった。


「たわけ。それでは村岡山城攻めの失敗を繰り返すことになるわ。完璧な奇襲によらねば渡河作戦など自決とさほど変わらんぞ」


 血気盛んな平泉寺衆を抑制しつつ、景鏡は更に二日を待った。


「報告! 下間頼照率いる一揆勢約二万、吉田郡方面より接近しつつあり!」


 その日の朝、この一報に、朝倉勢は色めき合った。

 このままでは目の前の杉浦勢を相手にしていては、背後から迫る下間勢に挟撃されることになる。

 そうなれば壊滅は必至だ。


「慌てるな皆の衆! この情報は対岸の一揆どもにも伝わっているはず。いまに川を越えて押し寄せてくるぞ。敵を討ち取るは今!」


 ここで踏みとどまってどうするというのか。

 今は一刻も早く陣をひいて、平泉寺に籠り、籠城の構えをとるべきではないのか。


 朝倉勢の中核を為す平泉寺衆が徐々に混乱していく様に、景鏡はその体たらくに舌打ちする。

 攻めている時は良いが、受けに回った途端弱くなるのがまさに平泉寺衆の弱点であった。


 すぐに混乱してしまうのは練度が足りていないからであり、指揮系統も今一つである。

 村岡山城の戦いで大混乱に陥ったのは記憶に新しいが、ここで再現されるわけにはいかなかった。


「敵は浮足立っているぞ。今こそ好機」


 一揆の大将・杉浦玄任は、下間勢の援軍の報せに勝機ありとみなし、一気に渡河を決行。

 朝倉勢も踏みとどまってはいたものの、もともと一揆勢は多勢であり、数に物を言わせて突撃を開始した。


 渡河中は極端に機動力が削がれるため、弓矢や鉄砲の良い的となる。

 とはいえ弓矢はともかく、鉄砲の備えは朝倉勢にそれほど多くなかったこともあり、徐々に渡河を成功させつつあった一揆勢優勢に傾いていく。


 状況に変化があったのは、午後になってからである。

 玄任の元に急報が届けられたのだ。


「亥山城陥落! 背後に敵が迫っています!」

「なんだと!?」


 寝耳に水とはこのことで、一揆勢は大きく動揺した。


「何者の仕業か!」

「分かりませぬが、亥山城には蛇の目の軍旗が翻っております! また三盛木瓜を掲げる一軍も近づいており、亥山城を落とした一軍と合流するかのような動きをみせております。その数およそ二千!」


 三盛木瓜とは朝倉氏の家紋であり、それを掲げる以上、その進軍中の一軍を率いるのは朝倉一門の誰かということになる。

 現に今、朝倉景鏡の率いる一軍も、同様の軍旗を掲げていた。


「挟撃の好機かと思ったが、先に仕掛けられるとは……。しかし蛇の目だと? 堀江景忠め、我らを裏切るとは何事か!」


 亥山城を落とした者を察した玄任は、その場で歯噛みする。

 蛇の目といえば堀江の家紋であったからだ。


「ええい! このままでは敗北は必至ぞ! 挟撃を完成される前に目の前の景鏡の軍を突破して、活路を開く。その上で頼照殿と合流し、しかる後に逆進して仏敵を討つぞ!」


 すでに亥山城が陥落した以上、ここで反転しても今度は景鏡勢の渡河攻撃を招くだけで、一揆勢は完全に孤立し、挟撃の上殲滅させられてしまう。

 そもそも現在まさにこちらが渡河攻撃中であり、ここでの反転など反攻を招くだけだ。


 この上は兵力で勝る今の内に九頭竜川を越え、勢いのまま敵陣を突破するのが最善であると玄任は考え、それは正しかった。

 しかし九頭竜川を容易に渡河できるかといえば、それはまた別の話である。


 玄任は決死の覚悟を決め、全軍をもって突撃を敢行。

 しかし九頭竜川に阻まれ、また景鏡勢の必至の抵抗に遭って渡河に至らず、夕刻には朝倉別動隊の接近を背後に許し、大激戦となった。


 挟み撃ちとなった一揆勢は川へと追い立てられ、溺れる者数知れずという有様となり、壊滅。

 玄任は這う這うの体で、九頭竜川流域を下流へと落ち延びていったのである。

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