第17話 第三次長島攻め


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 天正二年五月。


 本拠地である美濃から尾張国津島へと移った織田信長は、かつてない大動員令を発した。

 第三次長島攻めである。


 信長の嫡男・織田信忠率いる市江口方面軍に、柴田勝家率いる賀鳥口方面軍。

 そして本隊は信長自身が率いる早尾口方面軍で、さらには九鬼嘉隆率いる水軍も加えて、長島城を完全包囲する計画である。


 畿内方面の抑えに明智光秀、越前方面の抑えに羽柴秀吉がそれぞれの任地に残った以外は、ほぼ全ての織田方の武将が動員され、その兵力は八万と号する大軍となる予定であった。


 信長はこの長島攻略のため、持てるほぼ全ての力を結集するつもりだったのである。


「さて……このたびは勝てるのですの?」


 家臣との評定を終え、自室へと戻ってきた信長へと、気だるげで、しかし可憐な声が投げかけられる。

 しかもどこか不遜な物言いであったが、信長は気にすることも無く、その場に座り込んだ。


「これで勝てねば、俺は無能ということになるな」

「ふふ……左様ですわね」


 扇子で口元を覆いつつ、その娘――鈴鹿はくすくすと笑みをこぼした。


「であれば、わたくしが代わっても良いのですよ?」

「……それではつまらん。それにここでもまたそなたに頼るようでは、やはり俺が無能であると自ら認めているようなものだ。あまり無能を晒すと、そなたに食い殺されかねないだろう」

「それは……お戯れを」


 まだ二十にも満たないであろう娘を前に、信長は寛大にというよりは、同格の相手に対する態度でもって接していた。それは傍目からは異様な光景とも思えるものだ。

 仮に鈴鹿が信長の寵姫であったとしても、あり得ないことだといえるだろう。


 歴史を振り返れば、時の権力者の妻が夫の代わりに権力を振るうことはままあったが、少なくとも信長はそんなことを許すような性格でもない。

 そして実際には、鈴鹿は信長の寵姫などではなく、側室でもなく、ましてや正室でもない。


「やれやれ……。そなたはますます母親に似てくるな。あれも蝮の娘だけあって、怖い女子であったが」


 信長が思い出すのは、自身の正室だった女のことだ。

 名を帰蝶といった。

 かの美濃の蝮と呼ばれた、斎藤道三の娘である。


 その帰蝶が産んだのが、この鈴鹿であった。

 しかし生まれながらに二本の角をもった鬼子として生まれ、帰蝶自身もその代償とばかりに命を落とす。


 かつてうつけと呼ばれた信長も、さすがにこの娘を公に育てることは憚られたようで、名も与えずに山里へと隠したのだった。

 それから十五年が経ち、再び信長の前に現れた鈴鹿と名乗った娘に信長は驚愕した。


 母親そっくりの容姿だったことが、かつての記憶を呼び起こしたからだ。

 そしてあろうことか、信長はその場で娘に食い殺されそうになる。


 しかし娘は途中でそれをやめ、彼に仕えることを約したのだった。

 そして必要であるならば、自身の力を用いても構わない。されど――という条件を口にした鈴鹿。


 以来数年が経過するが、陣中にあっては頻繁に信長に同伴する姫として、素性不明ながらも織田家中では鈴鹿のことは知られている。

 まだ年若いがいずれ側室にするのだろうだとか、実は隠し子の類ではないのだとか、噂は色々だ。


 さらに帰蝶のことを知る譜代家臣や、かつての斎藤家旧臣が鈴鹿の顔を見たことで、いつの間にか鈴鹿のことは、奇しくも濃姫と呼ばれるようになっていたのである。


 そして信長自身、この娘が本当に自身の子であるかどうかという確証は無かった。

 帰蝶の子には違いなかろうが、このような鬼子が生まれた以上、自身が関与した以上の何かがあったと考えたからだ。


 結果、鈴鹿のことは娘というよりは、やはり側室に近いかそれ以上の待遇を与えることに、さほど抵抗も無かったのである。


「しかし……忸怩たる思いはあるな。いかに危急のことであったとはいえ、そなたの力を借りることになろうとは。まあ勝負から逃げた、俺の敗北は認めなくてはなるまいか」


 信長が思い出すのは、甲斐の虎と呼ばれた武田信玄のことだ。

 天下布武を目指す信長にとって、周辺国はほぼ敵だらけであり、朝倉氏・浅井氏・三好氏・石山本願寺・延暦寺・六角氏などその他多数の諸将が反信長となって包囲網を敷かれ、更に武田信玄の西上作戦により同盟国の徳川氏は三方ヶ原の戦いで大敗し、信長は絶体絶命の窮地に追いやられていたのである。


 信玄は信長がまともに戦っても勝てるとも思えない軍略の天才であり、その配下も見るべき人材を多数要していた。

 何より武田軍団は精強で知られ、士気も高く、信長をしても難敵であったのである。

 実際に盟友である徳川家康は信玄に徹底的にやられ、命からがら敗走したという。


 この窮地を救ったのは、信玄の突然の死だった。

 これにより武田勢は西上作戦を停止し、撤退。


 そして信玄の死は病死とされているが、実際はそうでないことも信長は知っている。

 なぜならばそのために、鈴鹿を密かに信玄のもとに遣わせたのだから。


 鈴鹿曰く、信玄は実際に病魔に蝕まれていたようで、容易に事を為せた、とも言っていた。何もせずとも、そのうち勝手に死んでいたかもしれない、とも。


 もちろん今となっては分からないが、鈴鹿の力で織田が窮地を脱したことだけは、確かだったのである。


「わたくしを得たことも、また運であり、力でしょう。ふふ……しかし摩利支天の加護とやらも、大したことありませんでしたわ」


 それでも良い物見遊山になった、と言って、鈴鹿は戻ってきた。

 信長にしてみれば信玄暗殺の成否に滅亡がかかっていただけに、そんな余裕など微塵もなかったのであるが、鈴鹿にしてみればその程度のことだったというわけだ。


 この娘がその気になれば、この日ノ本など容易くその手に落ちるのかもしれない。


「それはそれとして……。殿、このたびはどのように致すおつもりですの?」


 話を長島攻略に戻した鈴鹿が、興味深そうに尋ねてくる。


「徹底的に滅ぼすつもりだ。これで仕舞いにするためにもな」


 信長を悩ませている長島一向一揆攻略は、これで実に三度目となる。


 事の発端は元亀元年に始まった石山合戦に伴う門徒の蜂起であり、長島一向一揆勢は長島城を攻め落とした上で更に小木江城や桑名城を攻撃。

 小木江を守っていた信長の弟・織田信興は自刃して果て、また桑名城の滝川一益も敗走した。


 これに対し、元亀二年に行われた第一次長島侵攻は、織田家臣であった氏家卜全などが討死し、一揆勢の勝利に終わっている。


 また天正元年には第二次長島侵攻を敢行。

 信長は北伊勢一帯を平定するも、戦況は芳しくなく、長島への攻撃は見送りとなって撤退。


 しかしこの撤退の最中に追撃に遭い、相当な被害を出したものの、旧朝倉家臣で信長に降っていた富田長繁らの活躍もあって、信長は岐阜に引き揚げることに辛うじて成功するといった有様であった。


 そして三度目が、このたびの大動員令であった。


「では一人も生かさぬ……と?」

「その通りだ。不服か?」

「いえ、そう致しましょう。殿をこれほど難儀させたのです。楽に死なすこともありませんわ。……そうですわね。飢え死にするまで追い詰めたあと、まとめて焼き殺すというのは如何でしょう? 心身ともに枯れ切っているでしょうから、それはよく燃えることでしょうね」


 世にも恐ろしいことを、今夜の夕餉について語るが如く話す鈴鹿に、さすがの信長もやや呆れたようだった。


「まさに鬼畜の所業であるな」

「あら……その通り。わたくしは鬼ですので」

「……まあ良い。そなたの言うように致そう。どの道あの者どもは信興を殺している。報いは受けて然るべきだ」

「はい。そうですわね。その折は、是非お連れ下さいませ。民が踊り狂う様は、さぞかし興が乗ることでしょう」


 天女の笑みで、鈴鹿は嬉しそうにそう微笑むのだった。


 そして翌六月。

 陣容を整えた織田軍八万は、陸は三方から、そして海上からも長島に向けて進軍を開始。


 それに対する長島一向一揆勢、総数約十万。

 緒戦の迎撃戦で手痛い敗北を喫した一揆勢は、長島城、屋長島城、中江城、篠橋城、大鳥居城の各城に籠っての籠城戦の構えをみせた。


 そのうち大鳥居城と篠橋城の二城の一揆勢から降伏が申し込まれたが、信長はこれを拒否し、兵糧攻めを継続する。

 翌七月、大鳥居城より脱出の動きを察知した信長は、これを攻撃して男女問わずに打ち殺し、千ほどの首をあげた。


 この状況に篠橋城に籠る一揆勢は、長島城へと撤退。

 更に翌八月には兵糧攻めが功を奏し、長島城に籠る一揆勢の指導者であった、下間頼旦から降伏が申し入れられた。


 城内の者の助命を条件にした開城に、信長は同意。

 いよいよ退去する日となったが、城外に出てきた一揆勢は織田軍により悉くが鉄砲の的とされ、下間頼旦を含む多数の門徒が射殺されることになった。

 助命は信長の謀りであり、元より降伏など許すつもりなど毛頭無かったのである。


 この騙し討ちにはさすがに一揆勢も怒り狂い、決死隊が織田軍へと突喊。


 これには織田勢も散々打ち負かされて、信長の叔父である織田信次、織田三奉行のうちの一つ「藤左衛門家」の織田信直、信長の庶兄であった織田信広、また弟であった織田秀成、信長の従兄弟であった織田信成や織田信昌などといった織田一門の者が多数、討ち死にする。


 この事態に信長は激怒し、残る長島城と中江城に関しては兵糧攻めでも生温いと火を放ち、城内に籠る二万の門徒を文字通り焼き殺した。


 こうして長島一向一揆は壊滅することになるのである。

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