短話

藤原(の)コウト

邪神

 汗が止まらない。

 僕は何に、魅入られた?


 僕の母親はいわゆるカルトだった。

 父を早くに失くした悲しみを埋めるように教団とやらに属して、教主とやらの教えに従い、家によくわからないものを持ち帰ってきたり、逆に金を教団に持っていったりしてた。幼い僕を教団の集会に連れていき、儀式に参加させたりもした。

 だけどそれらは全て、些細な範囲で行われていた。キリスト教徒も日曜に教会に行くけど、行われていたのはその程度のことだ。一日一度お経を唱えたり、御神体だと言ってこけしみたいなのを並べたり、集会費に3千円を寄付したり。それくらいのことだった。生活を邪魔しない範囲で、母は幸せを追い求めていた。

 だから狂っていたのは母ではなかった。僕の兄。

 兄は宗教嫌いだった。彼は現実主義者で、神なんて不確定な存在を、自分を産んだ親が信仰していることが許せなかったらしい。

 ある時、兄は母に黙って家にあった教団の物を全部捨てた。帰ってきた母はひどく落胆した様子で、兄を怒る気力もなかったらしい。

 それから母は兄に隠れて祈りを捧げるようになった。兄が予備校に行っている間にこっそりお経を唱えて、自室に隠してある御神体を神棚に置く。僕を集会に連れて行くこともなくなった。

 ところがそれすらも、兄にバレた。

 登校日を間違えた兄が早く帰ってきて、母がお経を唱えているところに鉢合わせた。兄は怒り、母に暴力を振るった。僕は止めることもできなかった。震えて一部始終を見守っていた。

 母はそれきり動かなくなった。兄は「ストレスが溜まっていたんだ」と吐き捨ててどこかへ消えた。母の遺体と僕は二人きりで何日も過ごした。

 やがて腐臭が隣の家にまで届くようになったころ、僕は教団の人に保護されることになった。母が生前信頼していた人らしく、日記(母が日記をつけていたことも、死んでから初めて知った)にも名前が多く登場していた。僕は彼の家に預けられることになった。

 彼は母よりも宗教にハマってはいたが、まだ常識的だと言える範疇だった。ただ度々儀式に参加させられ、「母を失くした悲劇の子」として紹介するのはやめてほしかったけど。

 そこから何年も経った。教団は特に過激化することもなく、平穏に日々は続いた。母を殴る拳の音も、だいぶ記憶から薄れていた。

 僕が高校に上がった時。突然兄が帰ってきた。しかも兄は新興宗教にハマっていた。

「俺は間違っていた」

 兄は僕の前で泣きながら謝罪を始めた。

「神はいた。神はいた。俺の神は親殺しを認めてくれなかった。俺は死ななければいけない。その前にお前に謝りに来た」

 意味がまるでわからなかった。

 この人は誰だ? 本当にこれが、あれだけ神を毛嫌いしていた兄なのか?

 兄は別れ際、一冊の本を手渡してきた。

「神はお前を選んだ」

 それだけ言って、再びどこかへと消えた。

 翌日のニュースで、男が飛び降りたと報じられた。


 僕は兄に渡された本を、預け先の男に見せた。彼はパラパラとページを数枚めくり、「明日教祖様に見せに行こう」と言った。正直集会にはもう参加したくなかったけど、断れなかった。

 また集会で悲劇のヒロイン扱いされたあと、本が教祖の手に渡った。教祖も同じようにページをめくって、わなわな震えだした。

「これは邪教だ」

「浄化せねばならない」

 急遽、儀式が行われることになった。

 儀式を行えるメンバーを緊急招集して、御神体やら本やらを椅子で囲んで、いつもの儀式場を形成した。

 教徒が儀式場の外から呪文を呟き、そしてそこで僕の名が呼ばれた。

「この邪神はお前を選んだと言う」

「であれば、お前がはっきり断らねばならない」

 当然嫌と言える空気でもなく、僕は儀式場の真ん中、御神体と本が並んでいるのを見下ろしつつ立った。

 彼らは今その邪神を御神体に降ろし、対話ができるようにしているらしい。降ろされた邪神と僕が交渉し、立ち去ってくれることを頼まないといけない。

 僕は心底めんどうくさかった。でも形だけでもその役を務めようとした。

 その時だった。御神体が割れた。周りの教徒も倒れた。教祖様なんかは口から血を流したまま、ピクリともしなくなった。

 僕の頭に声が響く。これまで聞いたこともない言語。

 姿は見えない。だけど存在感だけは感じる。わかる。僕は今なにかに首を掴まれている。

 体が浮く。見られている。僕を見透かすように、こいつは僕のことを見ている。

 汗が止まらない。

 僕は一体、何に魅入られたんだ?

 邪神の声は変わらず響く。暴れるけれど、首を掴む手を振りほどけない。巨大な手だ。そして毛深い。だけどこれまで見たどんな動物とも違う。そう直感的に思った。

 邪神の声は、急に鮮明となった。


「ごめんね」


 その声を聞いた途端、僕の体は自由になった。どさりと床に落ちる。

 さっきまであった気配はもうどこにもなかった。

 どこにも。

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