「こころの天気」

「こころの天気」


 ある日突然、生きる意味が分からなく時がある。

 ふと、糸が途切れるような。そんな不思議な瞬間。

 三井香苗みついかなえは、三十三年間の人生で、二回その瞬間があった。

 一回目は、高校の剣道大会で負けたとき。

 二回目は、大学受験で落ちたとき。

 これまでやってきたことが無駄なんじゃないか。大切な時間をすべてをそれに捧げた。苦しい練習にも、悩ましい難題に直面しても立ち向かってきた自分が、全て無駄だったんじゃないか。そんな、自分の時間が否定されたような、そんな感覚が押し寄せてきて、全てがどうでもよくなる。そんな感覚。


 ――これまではそうだったんだけどなあ……。


 今日、人生で三度目のそれに直面した香苗は、首を傾げていた。

 これまでは、明確な理由と結果があった。俗に言う〝失敗〟があったからこそ、切り替えることができた。

 ただ、今回は何かに敗れたわけじゃない。

 何かに落ちたわけでもない。

 誰かに貶されたわけでもない。

 ただ、いつも通りに起き、いつも通りに朝食を作り、いつも通り子供の送り迎えをして、いつも通りに出勤し、いつも通りの仕事をこなして、特に問題なく業務を終えて、家へと帰る。

 そんな何の変哲もない日常の、何ら特別なことのない帰り道。

 暖房が効いていて温かい駅から外に出ると、気温八度にもなる十二月初旬の寒さが体を襲った。

 ぴゅうと吹いた木枯らしとともに、それはやってきた。

 家事、育児、スーパーのパートに、病気を抱えた両親の世話。

 毎日それをただひたすら繰り返しているだけ。まるで機械のように毎日を消費していくだけ。

 そんな虚ろな時間に、果たして意味があるのか。


「疲れた」


 不意に口から零れた言葉が、消えていく。


 ――愚痴言ったって変わらないか。


 今日ももうすぐ終わり。

 また、明日が来る。


「はぁ……」


 追い打ちをかけるように、香苗の鼻に雫がポツリと降ってくる。

 天気予報では晴れだったのに、雨が降り始めている。


 早く洗濯物しまわないと――香苗は心のもやもやに蓋をして駆け込んだ。


「ただいま」


 今日はお義母さんも検診で一日だけ入院。子供たちもまだ帰ってきていないようで、夫もまだ仕事中。

 誰もいない、すっからかんな我が家に虚しく声が木霊した。



       ※



 年の瀬、忘年会シーズン。

 居酒屋はどこも予約でいっぱいで、三十分かけて見つかったチェーンの居酒屋に入る。早速注文して届いたビールを流し込むと、幼馴染の島田広美しまだひろみはビールをグビグビと飲み干した。


「ぷはっ……で、どうよ」


 豪快な飲みっぷりを見せたかと思えば、豪快な食べっぷりを見せる広美。ただ、あらかじめ相談事を送っていたため、ズバッと本題を切り込んでくる。


 昔から変わらないなぁ、と苦笑いを浮かべながら希美は「うーん……って感じ」と言葉を濁した。


「アタシその辺の知識無いからあれだけど、病院とか行ったん?」


「行ったよ。カウンセリングやってもらって、絵を描くこと勧められた」


「アートセラピーってやつ?」


「みたいな感じ。しっかし、効果あるのかなぁ」


「それもうやってんの?」


「えーと……十二月頭位からだから、二週間くらいかな。簡単な絵を何回かだけだけど」


「そうか。誰かに見せてる?」


「カウンセリングの先生と、ネットにアップしてるくらいかな。反応とか反響はないけどね」


「ほー……家族には?」


「見せてない」


「なんで?」


「んー……心配かけるだろうし」


「へー。効果はどう?」


「まだ実感はできてないかな。正直、今も毎日が辛い」


「ふーん……」という広美の応答で、この話題は終了。そこからは昔話に花を咲かせた。


 香苗にとって、久々に楽しいと思える時だった。


 飲み放題の時間が終わり、外に出るとすっかり夜。若干雲がかかっているが、隙間から覗ける月がいやに奇麗で「満月じゃん」と呟いた。


「ホントだ。いいねー」


「……ね、香苗。絵さ、見せてよ」


「えー?」


「笑わないからさ」


 しょうがないなぁ、と渋々広美にSNSでアップしているイラストを見せた。


「おー、いいじゃん」


 画面に映し出されているのは、雲間から太陽の光が漏れる〝光芒〟の絵だ。


「ちょっと安心した」


「なんでよ」


「思ったよりちゃんとした絵で」


「ぬっ! 馬鹿にしたな? 小学校のころ銀賞取ったこと忘れた?」


「私その時金賞だったし」


「ぬがーっ! マウント取るなぁ!」


「ハハッ。ま、近いうちまた飲もうよ。その時は多分――」


 そこまで言いかけたところで、広美は口を噤んだ。なかなか口を開かない彼女を待てず「多分?」と問いかけてみると「やっぱナシ!」と駅の方へ向かった。


「あー今ごまかしたでしょ!」


「気のせい気のせい! ほら、帰るよ!」



       ※



 昨日の予報では、今朝は雨。


 ただでさえ寒いのに――と布団の中でもぞもぞしていると、寝坊しないためにとセットしたアラームが鳴りだした。


 ――あー……起きないと……。


 まだ昨日の酒が抜けきっていないのか、いつも以上に体は重い。鞭を打って起き上がる。「どっこいしょ」と不意に出た言葉にいささかの年齢を感じていると、香苗はある違和感に気がついた。


「……ん?」


 アラームを止めたにもかかわらず、携帯の通知ランプが点滅している。黄緑色で、これまで見たことのない色。


「なにこれ?」


 これまで見たことのない色。不思議に思いながら画面を見ると、イラストを上げているアプリからの通知だった。


「これ……!」


 アプリを立ち上げると、自分のイラストを投稿したメッセージに、ハートマークが一つ灯っていた。


「誰か見てくれたってこと……?」


 どうしたらいいかわからないまま携帯とにらめっこしていると、またピコンと通知が届いた。


 今度はメッセージ付きだ。


 ――とてもきれいなイラストですね!


 たった十四文字の簡単な文。ただ、それだけのはずなのに「……やった!」と香苗はその場で立ち上がった。


 ――やった、やった!


 家族を起こさないように小声で何回も喜びを爆発させていると、寝室からのそのそと夫が起きてくる。


「おはよ」


「あぁ、おはよ。なんかあったのか?」


「ちょっといいことがねー」


 不思議そうな表情を浮かべながら「そっか」というと、トースターにパンをセットしてから、洗面所に向かった。


 誰かに絵を見てもらえる。そのことに気が付くだけで、同じことの繰り返しのようだった毎日に色が付いたようで、どこか心も軽くなっていた。


 香苗は鼻歌交じりにカーテンを開く。


 天気予報は大外れ。空は雲一つなく、一面が青空だった。


「今度はこの天気を描こうかな!」


 ――今の私みたい。


 そんなことを考えながら、希美は色づいた今日を過ごした。

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