「こころの天気」
「こころの天気」
ある日突然、生きる意味が分からなく時がある。
ふと、糸が途切れるような。そんな不思議な瞬間。
一回目は、高校の剣道大会で負けたとき。
二回目は、大学受験で落ちたとき。
これまでやってきたことが無駄なんじゃないか。大切な時間をすべてをそれに捧げた。苦しい練習にも、悩ましい難題に直面しても立ち向かってきた自分が、全て無駄だったんじゃないか。そんな、自分の時間が否定されたような、そんな感覚が押し寄せてきて、全てがどうでもよくなる。そんな感覚。
――これまではそうだったんだけどなあ……。
今日、人生で三度目のそれに直面した香苗は、首を傾げていた。
これまでは、明確な理由と結果があった。俗に言う〝失敗〟があったからこそ、切り替えることができた。
ただ、今回は何かに敗れたわけじゃない。
何かに落ちたわけでもない。
誰かに貶されたわけでもない。
ただ、いつも通りに起き、いつも通りに朝食を作り、いつも通り子供の送り迎えをして、いつも通りに出勤し、いつも通りの仕事をこなして、特に問題なく業務を終えて、家へと帰る。
そんな何の変哲もない日常の、何ら特別なことのない帰り道。
暖房が効いていて温かい駅から外に出ると、気温八度にもなる十二月初旬の寒さが体を襲った。
ぴゅうと吹いた木枯らしとともに、それはやってきた。
家事、育児、スーパーのパートに、病気を抱えた両親の世話。
毎日それをただひたすら繰り返しているだけ。まるで機械のように毎日を消費していくだけ。
そんな虚ろな時間に、果たして意味があるのか。
「疲れた」
不意に口から零れた言葉が、消えていく。
――愚痴言ったって変わらないか。
今日ももうすぐ終わり。
また、明日が来る。
「はぁ……」
追い打ちをかけるように、香苗の鼻に雫がポツリと降ってくる。
天気予報では晴れだったのに、雨が降り始めている。
早く洗濯物しまわないと――香苗は心のもやもやに蓋をして駆け込んだ。
「ただいま」
今日はお義母さんも検診で一日だけ入院。子供たちもまだ帰ってきていないようで、夫もまだ仕事中。
誰もいない、すっからかんな我が家に虚しく声が木霊した。
※
年の瀬、忘年会シーズン。
居酒屋はどこも予約でいっぱいで、三十分かけて見つかったチェーンの居酒屋に入る。早速注文して届いたビールを流し込むと、幼馴染の
「ぷはっ……で、どうよ」
豪快な飲みっぷりを見せたかと思えば、豪快な食べっぷりを見せる広美。ただ、あらかじめ相談事を送っていたため、ズバッと本題を切り込んでくる。
昔から変わらないなぁ、と苦笑いを浮かべながら希美は「うーん……って感じ」と言葉を濁した。
「アタシその辺の知識無いからあれだけど、病院とか行ったん?」
「行ったよ。カウンセリングやってもらって、絵を描くこと勧められた」
「アートセラピーってやつ?」
「みたいな感じ。しっかし、効果あるのかなぁ」
「それもうやってんの?」
「えーと……十二月頭位からだから、二週間くらいかな。簡単な絵を何回かだけだけど」
「そうか。誰かに見せてる?」
「カウンセリングの先生と、ネットにアップしてるくらいかな。反応とか反響はないけどね」
「ほー……家族には?」
「見せてない」
「なんで?」
「んー……心配かけるだろうし」
「へー。効果はどう?」
「まだ実感はできてないかな。正直、今も毎日が辛い」
「ふーん……」という広美の応答で、この話題は終了。そこからは昔話に花を咲かせた。
香苗にとって、久々に楽しいと思える時だった。
飲み放題の時間が終わり、外に出るとすっかり夜。若干雲がかかっているが、隙間から覗ける月がいやに奇麗で「満月じゃん」と呟いた。
「ホントだ。いいねー」
「……ね、香苗。絵さ、見せてよ」
「えー?」
「笑わないからさ」
しょうがないなぁ、と渋々広美にSNSでアップしているイラストを見せた。
「おー、いいじゃん」
画面に映し出されているのは、雲間から太陽の光が漏れる〝光芒〟の絵だ。
「ちょっと安心した」
「なんでよ」
「思ったよりちゃんとした絵で」
「ぬっ! 馬鹿にしたな? 小学校のころ銀賞取ったこと忘れた?」
「私その時金賞だったし」
「ぬがーっ! マウント取るなぁ!」
「ハハッ。ま、近いうちまた飲もうよ。その時は多分――」
そこまで言いかけたところで、広美は口を噤んだ。なかなか口を開かない彼女を待てず「多分?」と問いかけてみると「やっぱナシ!」と駅の方へ向かった。
「あー今ごまかしたでしょ!」
「気のせい気のせい! ほら、帰るよ!」
※
昨日の予報では、今朝は雨。
ただでさえ寒いのに――と布団の中でもぞもぞしていると、寝坊しないためにとセットしたアラームが鳴りだした。
――あー……起きないと……。
まだ昨日の酒が抜けきっていないのか、いつも以上に体は重い。鞭を打って起き上がる。「どっこいしょ」と不意に出た言葉にいささかの年齢を感じていると、香苗はある違和感に気がついた。
「……ん?」
アラームを止めたにもかかわらず、携帯の通知ランプが点滅している。黄緑色で、これまで見たことのない色。
「なにこれ?」
これまで見たことのない色。不思議に思いながら画面を見ると、イラストを上げているアプリからの通知だった。
「これ……!」
アプリを立ち上げると、自分のイラストを投稿したメッセージに、ハートマークが一つ灯っていた。
「誰か見てくれたってこと……?」
どうしたらいいかわからないまま携帯とにらめっこしていると、またピコンと通知が届いた。
今度はメッセージ付きだ。
――とてもきれいなイラストですね!
たった十四文字の簡単な文。ただ、それだけのはずなのに「……やった!」と香苗はその場で立ち上がった。
――やった、やった!
家族を起こさないように小声で何回も喜びを爆発させていると、寝室からのそのそと夫が起きてくる。
「おはよ」
「あぁ、おはよ。なんかあったのか?」
「ちょっといいことがねー」
不思議そうな表情を浮かべながら「そっか」というと、トースターにパンをセットしてから、洗面所に向かった。
誰かに絵を見てもらえる。そのことに気が付くだけで、同じことの繰り返しのようだった毎日に色が付いたようで、どこか心も軽くなっていた。
香苗は鼻歌交じりにカーテンを開く。
天気予報は大外れ。空は雲一つなく、一面が青空だった。
「今度はこの天気を描こうかな!」
――今の私みたい。
そんなことを考えながら、希美は色づいた今日を過ごした。
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