「13℃くらい」

「13℃くらい」



 ふっ、と息を空中に投げ捨てると、飛び出た息は寒空に晒されて白く濁った。


 息が白くなるのは、気温が13℃以下のとき。つまり今は13℃以下。


 ――もうこんな季節かぁ。


 ついこの前まで暑かったのに、と小言を呟きながら早川詩織はやかわしおりは携帯を起動した。

 時間は二十三時四十分。

 気が付けば終電だ。


 ――疲れたなぁ。


 年末が近づき、どの企業も最後の追い込みをかけ始めている最中なのだろう、くたびれた会社員が何名か白線の内側に並んで携帯とにらめっこしていた。


 ――みんな大変だなぁ。


 そんなことを思いながら携帯の電源を落とすと、真っ暗な画面に自分の顔が映りこむ。

 並んでいる会社員の人とほとんど同じ顔。メイクも崩れかけ、目は今にも閉じそうで、とても二十八歳には思えないくたびれ方。


 これはまずい、と笑みを作ってみるが、どこかぎこちなく、力ない笑顔。作り笑い、苦笑いという表現が一番近い自分の顔を見ながら「ひっどい」と、誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。


 大学を卒業して就職し、社会人六年生。

 まだまだ世間的には若手だが、入れ替わりの激しい詩織の会社ではもう中堅の域に入る、そんな年齢。

 後輩の育成、自分の業績といった業務に加え、会社の方針に意見するよう指示があったり、年末の納会で司会を任されることになったり。

 正に多忙の一言。

 これから先やっていけるのかな――と不安に駆り立てられている詩織の肩を、トントンと誰かが叩いた。


「わっ!」と身をすくませる詩織。そんな姿を見て「ビックリしすぎだろ」と笑いながら、一人の青年が詩織の傍に立っていた。


「よっ、久しぶり」


 同僚でもなければ、取引先でも見覚えはない。


 夜中に、女子へ話しかける一人の男。ジャケットに妙な馴れ馴れしさが圧倒的不審者に見えて、詩織は「……どなたですか」と身構えながら尋ねる。


「えっ、わかんない?」


「……記憶にないです」


「えーひっでー! ほら、俺だよ俺、小学校のころ隣に住んでた!」と言いながら、髪をかき上げて額を指差す。


 指の先には、斜めに入った三センチくらいの傷――。


「その傷……もしかして陽太?」


「そっ! 久しぶり、詩織姉ちゃん!」


 少しお酒が入っているのか、ほんのり頬を赤らめて話す青年の名は、石川陽太いしかわようた。小学校二年生まで実家の隣に住んでいた同級生で、ほとんど毎日一緒に遊んでいた幼馴染だ。


「久しぶり! だいぶ変わったね」


 詩織の記憶にあるのは、小学生の姿まで。

 一歳年上の詩織が中学に進学すると同時に、徐々に男子は男子、女子は女子で遊ぶようになり、すっかり疎遠に。


 今考えればよくあるパターンだったな、と耽っていると「変わらないねー」と、屈託のない笑顔で話している彼に昔の面影がわずかに残っていた。


「うるさい。陽太はずいぶん変わったね」


 幼いころは、おかっぱのような髪型で、大人しい格好のイメージだった陽太だが、目の前にいる幼馴染は、髪を赤に染めてピアスを空けている、いわゆるチャラ男になっていた。


「まあ仕事柄ね、しょうがないんよ。来月半ばくらいに黒に染める予定」


「仕事柄って、アンタ何してんの?」


「驚くなよ? 舞台立ってんの」


「舞台って……お笑い?」


「違う違う、役者の方。舞台で役柄に合わせて色変えたんだよ」


「役者⁉ なんで――」と、質問を遮るように反対車線に電車が到着した。


「あ、俺こっちだから。今度ゆっくり飯でも食いながら話そうぜ」


 取り合えず連絡先だけ交換すると、矢継ぎ早に電車へ乗り込んでいった。


「……台風みたいなやつ」


 出発した電車を見送りながら、詩織は呟いた。

 ちゃらんぽらんなな見た目。どこか軽い印象を感じる言動。

 しかし、この終電を利用しようとしていた乗客の中で唯一彼だけが、活力に溢れていた。



       ※



 詩織は、人目をはばからずにジョッキのビールをぐびぐびと流し込んだ。


 労働で疲れ切った体に染み渡るビールの感覚に、思わず「ぷぁっ!」と中年男性のような言葉を漏らす詩織を見て「女、捨ててるなぁ」と陽太は呆れながら枝豆を貪る。


 再開から二日後の夜。公演終わりの陽太と仕事終わりの詩織のタイミングが丁度重なり、十五年ぶりの食事会となっていた。

 久しぶりで緊張するかと思えば、アルコールの力を借りた結果大盛り上がり。過去の恋愛、思い出話、喋らないようになってからのお互いのことなどなど。お互いの知らない期間を埋めていくように、話を続けていく。

 そして、気が付けば今日も結局終電ギリギリとなっていた。


「あー、なんか輝いてるよアンタ。羨ましいわ」


 遠方の人なのだろう、何人かすでにタクシー乗り場に並んでいた。


「まあ、やりたいことできてるからね。つまらない時間なんか一時も無いよ」


 改札を抜け、ホームまでたどり着くと、ふらふらと千鳥足の詩織はベンチにぐたっと座り込んだ。

 ふっ、と前回と同じように息を吐いてみた。

 今日は息が白くならない。

 息が白くなるのは気温が13℃以下の時。どうやら今夜は前回よりも少しだけ暖かいらしい。


「しっかし、よくご両親許してくれたね。頑固そうだったのに」


「いやー、結局許してもらえなくて半ば家出だよ」


「えっ⁉ ホント……?」


「ホントホント。もう随分帰ってない」


「へぇ……あの泣き虫陽太がねぇ」


「ずいぶん泣かされたなぁ。今となっては懐かしいよ。時間の流れってのはすごいね。どんなに悪い思い出でもいいものに変わってる」


「ちょ、そんな酷いことしてないでしょ」


「ははは、ごめんごめん。ちょっと盛った」


 そんな会話をしていると、やはり今日も電車は反対車線の方が先に訪れた。


「今日は楽しかった」


「アタシも」


「また誘っていい?」


 この駅からお互い三駅先に住んでいるという偶然。もはや腐れ縁のような運命に苦笑いを浮かべ「もちろん」と詩織は応えた。


 陽太が「よかった」といった瞬間に扉が閉まり始める。


 じゃあね、と言葉に出そうと右手を挙げた瞬間、声を遮るように陽太が続けた。


「初恋の人と飲めるのって幸せだ」


「……へっ?」


 予想外の言葉。間抜けな声を最後に、電車のドアが閉まる。

 そんな表情を見て、電車内からゲラゲラと笑う陽太の顔が遠ざかっていく。

 去り際の風が、髪をなびかせると同時に、去り際の一言が、酒が入り火照りきった詩織の体に追い打ちをかける。


「はぁ……⁉」


 混乱とともに溢れ出た吐息が、今度はバッチリ白く濁った。

 息が白くなるのは、基本的に13℃以下。

 ただ、例外がある。

 それは、肉まんを食べたときやコーンポタージュスープを飲んだ時のように、通常よりも息が温かいとき。

 突然の告白で舞い上がった詩織の体から出てくる息は、間違いなくいつもよりも温かくなっていた。

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