Episode:01 お詫びから始まるスタートライン

 始業式を迎えたその翌日。

 授業自体は始まるものの、最初は担当講師の自己紹介や授業の進め方やペースなどを伝えるだけで一時間を使うことになる。

 生徒達の方も春休み気分が抜け切っていないこともあって、授業と休み時間を四回繰り返し、昼休みを挟んでからもう二回繰り返す、と言う日常にはまだ遠い。


 幾度かの滞りはあったものの、午前中の授業も無事に終わり、昼休みを告げるチャイムが響く。

 学生食堂の席や購買部の食品を確保しようと駆け出す者、のんびりと鞄から弁当を用意する者、机を動かしてくっつけていく者、よほど眠いのか机に上体を突っ伏して仮眠する者などがいる中、駿河が財布を片手に蓮の席にやって来た。


「蓮ー、お前は今日は弁当?」


 授業で使用した教科書やノートを机の中に放り込みながら、蓮は駿河の方へ向き直る。


「いや、今日は購買で何か買おうかなと」


「俺も。ほんじゃ、一緒に行くか」


 勉強道具を片付けて、鞄から財布を取り出す蓮。


「机のセッティングは僕がしておくから、二人ともなるべく早くな」


 その二人が購買部へ行くと読み取った鞍馬は、自分の机と、今は空席になっている席を借りて向かい合わせに動かしている。


「さってと、今日は何が買えるかな……」


 そう呟いて椅子から腰を上げ、教室を出ようとした時、


「あー、ちょいちょい、ちょっといい?」


 蓮と駿河に声を掛けてきたのは、昨日に美姫と一緒になって談笑していたウェーブヘアの女子生徒――松前静香だった。


「おっ?なんだなんだ?俺っ?」


 自分に用があるのかと駿河は声を弾ませるが、対する静香は「いやいや、こっちこっち」と蓮の方を指した。


「……俺?」


「マジかよ、違ったか……」


 自分ではなく蓮が指名されたことに、駿河はガックリ肩を落としてしまう。

 彼が何を期待していたのかは想像に任せることにして、蓮は話を切り出す。


「えっと、松前さんだっけ?」


「そそ。松前さんね。松前漬けとか言うのはNGだから、その辺よろしく」


 北海道の郷土料理のことを言っているらしいが、今そんなことを話しに来たのではないだろう。


「でさ、九重くん。時間があるなら、ちょいとそこまで付き合って欲しいんだけど」


 クイクイと親指を窓の外へ向ける静香。

 方向からして、外に出てほしいようだ。


「別にいいけど……あぁ駿河、先に食べといてって鞍馬に伝えてくれるか」


「あいよー」


 この事を鞍馬に伝えに行く駿河を見送ってから、その彼とは反対方向へと静香に連れられる。






 一歩先を歩く静香の後ろで、蓮はどこへ連れて行かれるのかと、期待半分、不安半分だった。

 まさか昨日に会っていきなり告白……なんてことはないだろうし、人気の無いところでカツアゲ……を女子一人が男子を相手にするとも考え難い。

 まぁ酷い目に遭わされることはないだろう、多分そうだろう、と言うかそうであってくれ、と自身に言い聞かせつつ、歩みを合わせる。


 到着したのは、中庭だった。

 桜が咲いており、ベンチもいくつか設置されているので、ここで昼食を摂る学生も散見している。


「美姫ー、連れてきたよー」


 静香が手を振った先には、同じクラスメイトの雛菊と、昨日から気になっている美姫がベンチに座っている。


「!」


 蓮の視線に気付いたのか、美姫は肩を強張らせて姿勢を強引に正す。

 静香の誘導によって、美姫の前に立たされる蓮。

 この状況、男子が一人に対して女子が三人。

 完全にアウェーである。

 これから何が始まるのか、と蓮は緊張しながらも美姫と向き合う。


「あ、あのっ」


 先制は美姫の前置きから。


「え?」


「ごめんなさい!!」


 そして断続的に行われる謝罪。


「へあっ!?」


 何故いきなり謝られるのかと蓮は思わず変な反応をしてしまう。


「その、昨日……ハンカチ拾ってくれたよね?それで私、思いっきり引ったくって逃げて……」


「あ、あぁー、そのことか……」


 蓮の中に合点が入る。

 ハンカチを拾ってくれたのに、思いっきり引ったくって逃げてしまったことを謝りたいらしい。


「……うん、本当にごめんなさい」


 しゅん、と言う擬音が聞こえそうなほど申し訳無さそうに頭を下げる美姫に、蓮は慌てて言葉を紡ぐ。


「き、気にしてないって。確かに驚きはしたけど、悪くは思ってないし」


 だから謝らなくていいよ、と言う蓮に美姫は顔を上げるものの、その表情はまだ晴れそうにない。


「で、でも、私は気にすると言うか、ちゃんとお詫びをしなくちゃいけないと言うか……」


 躊躇いがちな美姫を見かねてか、その隣にいる雛菊が助け舟を出した。


「九重くんに悪いことをしたって思ってるから、美姫はちゃんとお詫びをしないと納得いかないみたい。だから、美姫のためにと思って、お詫びしてもらってくれる?」


 相手のためにお詫びをしてもらう、と言うのも妙な話かもしれないが。


「いきなりお詫びと言われてもなぁ……」


 何をすれば――否、この場合は何をしてもらえばいいのかと言うべきか。

 相手に何かしてもらうことに悩んだことのない蓮としては、降って湧いた難題だ。

 さてどうしたものかと悩む蓮に、今度は静香が口を出す。


「難しく考えないでよ。九重くんが美姫にしてほしいことでいいんだからさ」


「……してほしいこと」


 一瞬、蓮の中で邪な考えが過りかけたが、脳裏を横切る前に振り払った。

 さすがにそんな無体なお詫びは要求してはいけない。

 無し無し、と再考してみて、ふと思い付いた。


「じゃぁさ、明日、お弁当作って来てもらっていいかな?ウチ、親が忙しくて弁当がある時と無い時が不規則でさ」


 これなら無理ではないだろう、と挙げた蓮だが、対する美姫は目を見開いて固まる。


「お、お弁当っ?」


「それくらいならいいかなって思ったけど……難しい?」


「う、うぅんっ、大丈夫!」


 ぶんぶんと首を縦に振って見せる美姫。


「明日、九重くんの分のお弁当を持って来たらいいんだよね?」


「あ、もし無理だったら無理でいいよ、お願いしてるのはこっちなんだし……」


 朝霧さんの作るお弁当を食べてみたい、と言う欲は何とか隠しつつ、蓮は言葉を選ぶ。


「うんっ、必ず持って来るねっ」


 とは言え美姫の方は美姫の方で早速やる気になっている。

 やる気になっているのならこれ以上は何か言う必要は無いだろう。

 ふと、弁当を突いていた雛菊は、今の蓮が手ぶら――何も持っていないことに気付く。


「そう言えば九重くん、お昼はどうするの?お弁当は今日は持ってなさそうだけど……」


「……あっ!」


 雛菊にそう言われて、蓮は自分の現状に気付く。

 昼休みが始まってから既に15分は経っている。


「購買部に行こうと思ってたから……いや、もう遅いか?」


 それは即ち、『購買戦争は既に停戦を迎えている=もうまともなものは残っていない』と言うことに直結する。


「あ、あのっ、私のお弁当食べる?食べかけだけど……」


 自分のお詫びのせいで時間を潰してしまったと認識したのか、美姫は自分のこじんまりとした弁当箱を差し出す。


「いや、いいよ。明日に弁当作ってもらうのに、今日も貰えない」


 蓮から見ても、そんな少量で足りるのかと思うほどしかないのだ、美姫本人はそれで十分なのかもしれないが、そうだとしても尚更もらうわけにはいかない。


「まぁ、完全に売り切れてなくはないだろうし、何かは買えると思う」


 じゃぁここでっ、と蓮は軽く会釈すると踵を返して購買部のある方向へ駆け出す。


 それを見送る女子三人の内、美姫は不安げな表情を浮かべる。


「もしかして、お詫びしなくちゃいけないことが増えただけかも……?」


「さぁ?」


 それに応えてくれたのは、意地の悪そうな笑みを浮かべた静香だけだった。






 蓮が購買部に到着した時には、既に購買部周辺に学生の姿は無く、売り場に残っているのは、昼食とするには悲しすぎるラスクやドーナツの袋詰めが少しだけ。

 言葉を選ぶのなら、これだけでも残ってくれていただけ良かったと言うべきか。

 わざと酷い言い方をすれば、残飯処理をさせられる。しかも、有料で。

 しかし何も食べないよりはマシだろうとして、蓮はドーナツの袋詰めをひとつ購入して、トボトボと教室へ戻る。


 教室に戻って来ると、蓮の机の周りに駿河と鞍馬が待っていた。


「……その様子だと、ロクなものは何も残ってなかったってとこか」


 駿河の視線が、蓮の右手にあるドーナツの小袋に向けられる。


「うんまぁそんなところ……」


 盛大に溜息をつきながら席に着く蓮。

 小袋の封を開けようとしたところで、「そんなことだろうと思ったよ」と鞍馬はそれら二つを机の上に置いた。

 カレーパンとホットドッグだ。しかも封をが開けられていないところを見ても、新品。


「蓮が松前さんに連れて行かれた時点で、察しはついてたさ」


「えっ、これ、もしかして俺の分?」


 蓮は何度も瞬きしながら、二つの惣菜パンと鞍馬の顔を見比べる。


「後でいいから、代金忘れるなよ」


「あ、今払う。ありがとうな」


 持っていた財布から、鞍馬の指定金額を支払う。

 カレーパンの封を開ければ、煮込まれた香辛料と、油で揚げられたパン粉の香りが拡がり、空腹状態である蓮の食欲を否が応にもそそらせる。

 一口かぶりついたところで、待ちかねたかのように駿河が話し掛けてきた。


「さて、蓮。さっき松前さんと何をしていたのか、教えてもらおうじゃねぇか!」


「…………ん、食べ終えてからでいいか」


「……」






 それから五分ほど費やしてからカレーパンとホットドッグを食べ終えたところで、駿河の尋問が始まる。


「……で、松前さんと何をしてたかって話だっけ?中庭に連れて行かれて、朝霧さんと早咲さんも一緒だった」


「女子三人に囲まれてのハーレムかよ!?かーーーーーっ、この時点で既に羨ましいッ!」


 両手で目元を抱えて天井を仰ぐ駿河。


「それで、何を話していたんだ?」


 騒ぐ駿河を無視して、鞍馬が話を進めさせる。


「えっと……」


 要約すると、このようになる。


 彼女のハンカチを拾ってあげたら、謝られながら引ったくられて逃げられた。

 美姫本人は悪いことをしたと思っているらしく、そのお詫びをしたいと告げられた。

 何をしてほしいかと訊ねられたので、弁当を作ってきてほしいと頼んだところ、快諾してもらった。

 その後は購買部に慌てて向かったので、そこで別れた。


「……と言うことなんだけど」


「それはウッソだろお前」


 蓮は包み隠さず正直に話したのだが、駿河はそれをバッサリ切り捨てた。


「蓮にだけそんな美味しい、二重の意味で美味しいイベントが起こって、俺には何も無いなんて……俺は信じねぇぞ!」


 切り捨てた、と言うよりは、認めたくないだけのようだが。


「信じるかどうかは任せるけど……」


「知ってらぃ!お前はそんな嘘をつくような奴じゃねぇってさぁ!」


 バンッと悔しげに机を叩く駿河を尻目に、鞍馬は咀嚼したように頷く。


「つまり、蓮は明日の昼飯の心配は無いってことだな」


「そう言うことになるかな」


 そう答えつつ、蓮はドーナツの小袋を開ける。


「じゃぁ、パン買ってくれたお礼ってことで、一個ずつどうぞ」


 三個入りのその内、二個を二人に食べるように勧める。


「やっぱり蓮は良い奴だなチクショーッ!」


「なら、御相伴に預かるとしようかな」


 駿河は泣きそうになりながら、鞍馬は遠慮することなく、それぞれドーナツを頬張り、残る一つは蓮も食べる。


「(朝霧さんの弁当か……)」


 一体どんな弁当を作ってくるのだろうか、今日食べていたようなものだろうか、と期待を膨らませる蓮だが、しかしある懸念材料に気付く。


「(待てよ?中身はともかく、もしかしてあのサイズの弁当をもうひとつってことか?)」


 あの、蓮の普段の食事量の半分にも満たないような、こじんまりとした可愛らしい弁当箱の大きさを思い出す。


「……いや、やっぱりちょっとくらい心配した方がいいかもしれない」


「「??」」


 何を心配するのかと首を傾げる駿河と鞍馬。


 予鈴のチャイムが鳴り、クラスメイト達が慌ただしく教室に戻って来るのを見て、五限目の授業の準備を整えながら席に着いていく。






 放課後。

 部活動へ向かう駿河とは教室で別れ、今日のところは鞍馬と帰ることになった。

 昇降口で上履きからスニーカーに履き替えながら、蓮は鞍馬に尋ねた。


「なぁ、鞍馬」


「ん、どうした?」


「女の子から弁当作ってきてもらう時って、どんな準備をすればいい?」


「また唐突だな……」


 上履きをロッカーに放り込みつつ、外へ出る。


「駿河は上手く答えてくれるかわからないし、ここは彼女持ちで経験豊富な鞍馬に聞くしかないかなって」


「お前な、あいつがこれ聞いてたらまた泣くぞ」


 二人の見えないところでくしゃみをぶちかましているだろう駿河のことは置いておき、内容はともかく真面目な相談のようなので、鞍馬は思考を回す。


「そうだな……予め何人と食べるか分かっているなら、人数分のお手拭きを用意しておくとか、自分用の箸を持って来ておくとか、『作って来る側を手間取らせないこと』だな」


「手間取らせないか……」


 心の中でメモを取っていく蓮。


「あぁ、それと一番大事なのが、『食べた感想は必ず言うこと』だ。それも、回りくどい言い方より率直な感想を……いや、"状況によっては"オブラートに包んだ言い方を選ぶことだ」


「状況によってはって、例えばどんな状況?」


 シチュエーションが想像出来ないため、素直に聞くしかない。


「蓮。もし、作ってきてくれた弁当が不味かったとしたら、「不味い」ってストレートに言うか?」


「言えるわけないだろ、せっかく作ってきてくれたのに。……あ、状況によってって、そういうことか?」


 つまり、相手には事実を伝えつつも、出来るだけ傷付かない言い方をしろと、鞍馬は言うのだ。


「まぁ……女子が特別に作る弁当なら、わざとでもなければ変なものは作ってこないと思うけどな」


 あくまで僕の経験上では、と付け足す鞍馬。


「なるほどな。ありがとう、鞍馬」


「どういたしまして」


 蓮の相談に区切りがついて、少しが過ぎたところで、鞍馬は不意に足の向ける方向を変える。


「じゃぁ、僕はこの辺で」


「あそっか、彼女さんの女子校ってそっちだっけ」


 鞍馬の言うところの"彼女"は、四季咲学園とは近隣にある女子校に所属しているらしい。

「らしい」と言う不確定系なのは、蓮も駿河もその彼女の姿を見たことが無いからだ。

 その鞍馬が曰く、「見せたら減る」と言う理由で、撮った写真のひとつも見せてくれないのだ。

 蓮は「そう言うものなのか?」と疑念を抱きつつも納得し、駿河は「ちょっとくらい見せてくれても良いだろケチ!」と怒る。


 ひとまずのところ、鞍馬とも別れた蓮は、自宅への帰路を辿らずに、別の方へ向かう。

 先程に鞍馬に相談し、良い答えをいただいたので、もう少しだけ考えごとをしたいのだ。






 蓮が向かった先は、雰囲気のあるレトロな喫茶店だった。

 彼の趣味の一つとして、こう言った喫茶店やコーヒーショップを巡り回ることだ。

 その中でも自宅から一番近く、頻繁に通いやすい場所がここ『フルール・ド・スリジェ』だ。


「あらー、いらっしゃーい」


「どうも、こんにちは」


 のんびりした様子の妙齢の女性であるマスターに挨拶を交わし、早速カウンター席に着く蓮。


「ホットブレンドで」


「はいはーい」


 メニューも見ずに言葉短くオーダーし、マスターも聞き慣れたように頷いては、豆をコーヒーメーカーに注いでいく。


「最近ねぇ、アルバイト雇い始めたのよ」


「へぇ。今は奥にいるんですか?」


「うんそう。募集かけたらすぐに来てくれたから、ありがたいありがたい」


 ガーガーと豆をが挽かれていく音をバックに、新しい学年になってどうなっただの、もうじき三歳になるマスターの娘さんはどうだの、と他愛もない内容に花を咲かせる中、マスターではない、最近雇ったと言うアルバイトがお手拭きとお冷を差し出してきた。


「いらっしゃ……って、もしかして九重くんっ?」


「えっ?」


 聞き覚えのある声によって呼ばれた名字に、蓮は弾かれたように振り向く。


 そこにいたのは、ウェイトレス姿の雛菊だった。


「早咲さん……?」


「あ、と、い、いらっしゃいませ」


 顔見知りがいたことに驚きつつも、雛菊はすぐに「いらっしゃいませ」を告げ直す。


「あれ?もしかして二人、知り合い?」


 二人の様子を見てか、マスターは挽かれて粉末状になった豆を蒸しながら問い掛ける。


「あ、はい。同じクラスの」


 雛菊がそう答えると、マスターは「あぁなるほどね」と納得する。


「そう言えば、二人共同い年で同じ学校に通ってるし、ばったり会っても不思議じゃないか」


「まぁ、そうですね?」


 とは言っても、学年ひとつにつき100人以上いる中で、学園以外で意図せずに会うと言うのも、そうそう起こり得るものでもないのだが。


「アルバイトを雇ったって聞いて、まさかそれがクラスメイトでしたって、ちょっと予想外だな……」


 蓮は雛菊が差し出してきたお手拭きの封を切り、まだ温かいタオルで手を拭いていく。


「九重くん、店長と話し慣れてるみたいだけど、もしかしてここの常連さんだったりするの?」


「まぁ、頻繁にってほどじゃないけど、一年の頃から月に2、3回はここに来てるかな」


 すっかり顔も覚えられてるよ、と苦笑する蓮。

 雛菊の方も納得したようで、「そうなんだ」と頷く。

 二人がそう話している内に、カウンターの方から珈琲豆の香ばしい香りが漂ってくる。


「はーい、ブレンドひとつね」


 幾何学模様のカップとソーサーに煎れたてのコーヒーが注がれ、マスターの手から蓮の席に置かれる。


「いただきます」


 まずは香りから。

 リラクゼーション効果のある香りを楽しみつつ、一口啜る。


「えっ、九重くんってブラック飲めるの?」


 カウンターの向こうから、雛菊の意外そうな声が聞こえた。


「ん?うん、そうだけど」


 それがどうかしたのか、と蓮はカップをソーサーに下ろす。


「あ、ごめんなさい。私の友達でブラックが飲める人っていないから、ちょっと意外に思っただけ」


「別に謝ることじゃないよ。好みが違うかそうじゃないかってだけだし。……確かに、意外に思われることは多いけど」


 蓮自身、喫茶店巡りをしている時、初めて入る店でコーヒーを飲む際に、よくその店のマスターから「ブラックで大丈夫なのか?」と訊かれることが多い。


「それに、俺みたいな学生がこう言うところに出入りしてる方が珍しいんじゃないかな」


「……それは、そうかも?」


 雛菊もそれには同意できた。

 少なくとも『フルール・ド・スリジェ』では、蓮や雛菊のような学生はごく少数で、客層の大半は近隣の中高年者によるリピーターだ。

 恐らく、個人経営の喫茶店とはどこも似たようなものなのだろう。


「まぁ、美味しいコーヒーが飲みたくてここに来ることもあるし、ちょっと考えごとをしたいって時も、なんだかんだ言ってここに来るのは理由があって来てる」


 今日は考えごとの方だけど、と付け足す。


「考えごと?」


 それは何かと訊ねる雛菊を見て、蓮は「せっかくだし……」と先程鞍馬に相談したことを、雛菊にもすることにした。


「早咲さん、女の子から弁当を作ってきてもらう時って、どんな準備をすればいいかな?」


「……あ、美姫のことね」


 蓮の言うその「女の子」が美姫のことだと気付いて、雛菊の中で合点が入る。


「準備、準備?うーん……私は『男の子からお弁当を作ってきてもらう』ってケースを体験してないから、何とも言えないんだけど……」


 鞍馬と言う男子の視点からだけでなく、女子の視点からではどうだと考えた蓮だが、雛菊は考え込んでしまう。


「……そうね。今回のことは、あくまでも『美姫の九重くんに対するお詫び』だから、九重くんは何も準備しなくてもいいと思う。そうでなくともきっと美姫のことだから、自分が全部用意すると思う」


 雛菊の意見は、女の子と言う不特定多数ではなく、"朝霧美姫"と言う個人を指したものだ。

 美姫のことをよく知る友人からの視点だからこそだろう。


「でも、美姫が忘れ物をしないとも限らないし、九重くんの方でも何かしらの用意があれば、もしもの時も大丈夫だと思う」


「じゃぁ、やっぱりお手拭きとかマイ箸とかは持って行く方がいいか」


 作ってきてくれる側への配慮と言う点では、雛菊も鞍馬と同じのようだ。


「ありがとう早咲さん、参考になった」


「参考になったのなら、何よりだけど」


 話し込んでいる内に、コーヒーの方も飲みやすい温度になってきたようで、蓮はカップを手にとってもう一口啜る。


「すみませーん、注文いいですかー?」


 ふと、テーブル席にいるお客からの声が掛かった。


「はいっ、かしこまりました!」


 その声にすぐ反応した雛菊は、パッと踵を返してオーダーを取りに向かった。

 相談に乗ってもらったのはいいが、仕事の邪魔をしたか、と蓮はそれ以上雛菊に話しかけることはせずに、静かに思考に更ける。


 鞍馬と雛菊、二人からの意見を整理、要点を纏めてみる。


 一つ目は、作ってきてくれる側を手間取らせないこと。


 二つ目は、食べた感想は率直な意見で言うこと。しかし状況によって言葉を選ぶ必要があること。


 三つ目は、これはあくまでも美姫によるお詫びであるため、施しを受ける側である蓮が何か用意することはない。が、万が一の備えはしておくといざという時に困らなくて済む。


 これら三点をしっかり覚えておくことだな、と蓮は心の中で深く頷く。

 もうしばらくだけその三点を反芻してから、蓮はコーヒーを飲み干して会計を済ませて、今度こそ自宅への帰路を辿る。


 明日を、楽しみにしつつ。

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