第577話 抜けた先には……
迫りくるドーベルマンを前に、ソラは呆然と立ち尽くす。
頭では今すぐ逃げなきゃと思っているのに、体は全く言うことを聞いてくれない。
ソラはただ、極限状態でゆっくりとなった世界の中で、ドーベルマンの鋭い牙が自分の首に吸い込まれていくのを見ていることしかできなかった。
「――っ!?」
すぐにでも襲いかかってくる痛みを覚悟して、ソラはギュッ、と目を瞑る。
(姉さん……ミーファ…………そして、コーイチさん)
瞼の裏に三人の大切な人の顔が浮かび上がり、ソラは堪え切れず涙を流す。
死ぬ前にせめてもう一度、愛しい人たちの温もりを感じたかった……そう思いながらソラは諦めたように体の力を抜くと同時に、
「ソラッ!?」
ソラを呼ぶ鋭い声が聞こえ、彼女の体が強く引っ張られる。
次の瞬間、ソラがいた場所にドーベルマンが飛び込むが、そこにはすでに彼女の居場所はなく、ガチン、と犬の咢が鋭い音を響かせる。
「ガウッ!?」
目標を見失ったドーベルマンは、素早く着地をして辺りを見渡すが、そこには既に捉えたはずの獲物の姿はなかった。
「…………」
それでもドーベルマンは冷静に、見失った目標を探すためにスンスン、と他の動物より優れた鼻を鳴らして索敵する。
「――ッ!?」
すぐさま匂いの行く先を見つけたドーベルマンは、匂いが消えた先である壁に取り付いてカリカリと前脚で壁を叩く。
「………………ガゥ」
だが、いくら叩いても壁がビクとも動くことはなく、ドーベルマンは程なく諦めて、本来の目的に戻っていく。
それから暫くして、通路内に骨を砕くような音と、クチャクチャと何かを捕食する薄気味悪い音が響き渡った。
「ソラ、大丈夫?」
「ううっ……」
近くで自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、ソラはおそるおそる目を開ける。
すると、眼前に泣きそうな顔でこちらを見ているアイシャの顔が飛び込んできた。
「アイシャさん?」
「そうだよ。よかった。本当に間一髪だったんだからね」
ソラの無事を確認したアイシャは、感極まって彼女の首に抱き付いて愛おしそうに頬擦りをする。
「わぷっ……」
その荒々しい愛情表現に、ソラは目を白黒させながら堪らず笑顔を零す。
(…………良かった。私、生きてる)
ソラはアイシャからの頬擦りを甘んじて受けながら、ゆっくりと視線を巡らせ周囲を確認する。
目に見える範囲のものはこれまでと変わらず、石に囲まれた地下空間だったが、どうやら先程までいた通路とは違い、何処かの小部屋に迷い込んだようだった。
ソラは未だに頬擦りをしてくるアイシャの手から逃れると、身を起こして居住まいを正して何が起きたかを彼女に尋ねる。
「アイシャさん、あの……一体何があったのですか?」
「あのね、私も信じられないんだけどね」
少し落ち着いたのか、アイシャは静かに頷きながら近くの石の壁を指差す。
「さっき私が癇癪起こして壁を叩いたでしょ? 実はあの壁はこの部屋に通じる隠し扉だったみたいなの」
扉を開閉するためには一定の力で壁を叩く必要があるようだが、アイシャは偶然にもその扉を叩いたようだった。
「そんな偶然が……」
「本当、奇跡みたいよね」
流石に自分でも出来過ぎだと思ったのか、アイシャは赤くなっている手をひらひらと振りながら苦笑する。
「私も最初は何が起きたかわからず混乱したんだけど、壁の向こうから犬の鳴き声が聞こえて、そこからはソラを助けなきゃって……」
そうしてこの部屋に入った時と同じように壁を何度も叩き、扉の秘密に気付いたアイシャは、扉を開いてソラを救出したのだった。
「そうだったんですね……」
アイシャから事の顛末を聞いたソラは、ゆっくりと手を付いて彼女に向かって深々と頭を下げる。
「危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
「も、もうやめてよ。私とソラの仲でしょ」
余り畏まった態度を取られるのは慣れていないのか、アイシャは慌てた様子で手を伸ばしてソラの顔を上げさせる。
「それに、礼なら外に出てからよ。ようやく目的のものは見つけたけど、まだ、無事に帰れると決まった訳じゃないんだからね」
「そう……ですね」
そう言ってソラは、自分たちが入って来た壁と逆側を見る。
そこには通路をいくら探しても見つからなかった、待望の地上へと続くと思われる上り階段があった。
階段を一つ登った先にすぐさま出口があるとは思っていないが、それでも地下でなくなれば、最悪でも窓を破壊すれば外に出られる。
そう思いながら勢いよく階段を上ったソラたちが見たのは、これまでの石に囲まれた冷たい地下空間とは違い床は絨毯、石の柱に壁はモルタルといった家の中といった雰囲気だった。
それを見たソラとアイシャは、喜色を浮かべながら二人で抱き合う。
「やった! とうとう地下から出られたんだわ」
「はい、後は外に出られる場所を探しましょう」
「はぁ……とりあえず家に帰って思いっきり寝たいわ」
ここまで来ればもう一安心、そう思ったアイシャが安堵の溜息を吐く。
「よし、それじゃあ後は外に出る窓でも探して……」
そう言いながらソラの方を見たアイシャの言葉が途中で止まる。
「……ソラ?」
一体何事か、ソラが緊張した面持ちで不安そうに何かを探していた。
キョロキョロと周囲を見渡し、頭の耳を忙しなく動かしている。
最大限の警戒態勢を取るソラに、アイシャは嫌な予感がして思わず彼女の手を取る。
「……ソラ?」
「アイシャさん……ちょっと戻りましょう」
「えっ?」
「いいから早く!」
呆然とするアイシャに、ソラは慌てたように彼女の手を取ると、せっかく上がってきたばかりの階段を降り始める。
そうして階段を数メートル下り、壁の凹凸で僅かに死角になっている場所を見つけたソラは、自分とアイシャの体を押し込んでそっと階上の様子を伺う。
「ソラ、一体何が……」
「静かに!」
狼狽するアイシャに、ソラは人差し指を立てて黙るように促しながら、彼女に上の通路を見るように指差す。
「…………」
訳がわからないが、ソラがいたずらでこんなことをするはずがないと察したアイシャは、黙って頷いて二人で階上の様子を伺う。
すると程なくして、ズシン、ズシン、と地響きを響かせながら何かが歩いてくる気配がした。
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