第552話 お気に入りの女の子の下へ

「コーイチ……じゃない?」


 最初見た時は浩一かと思ったが、彼から発せられる匂いが違うことに気付いたシドは、相棒と瓜二つの男を警戒するようにソラを抱く。


「お前は誰だ? あたしたちに何の用だ」

「まあまあ、警戒するのはわかるけど、今はそれどころじゃないでしょ?」

「何だと!?」

「妹さん……このまま放っておくのはよくないよ」


 そう言いながらシドのすぐ脇に腰を落とした男は、無遠慮にソラに向けて手を伸ばす。


「――っ!?」

「妹さんを助けたいのなら、動かないで……」


 反射的に逃げようとするシドの鼻先に人差し指を突き付けて動きをけん制した男は、懐から皮袋を取り出すと、ソラの口元に差し出す。


「ほら、水だよ。舌を濡らすだけでもいいから、頑張って口に入れて」

「…………は、はい」


 そっと差し出された皮袋に口を付けたソラは、喉を鳴らして皮袋の中身を飲んでいく。


「いい子だ」


 ソラが水を飲んだのを確認した男は、続けてもう一つ水の入った皮袋を取り出すと、ズボンから手拭いを取り出して濡らしていく。


「次は両腕を上げて……脇の下を冷やせば体温が下がって大分楽になるから」

「はい……」


 ソラがのっそりと腕を上げると、男は素早く彼女の脇の下、首筋に濡らした手拭いを差し入れる。

 すると男の言葉通り少しは楽になったのか、ソラの顔色が元に戻り、荒々しかった呼吸も収まって来る。



 それを見て男は満足そうに頷くと、残っている皮袋をソラに差し出す。


「まだ飲めるなら、もっと水分を摂った方がいいよ」

「はい……」


 まだ意識が朦朧しているソラは、差し出された皮袋にそっと口を付けて喉を鳴らしながら水を飲んでいく。



「ソラ……よかった」


 まだ自力で立ち上がることはできなさそうだが、すっかり落ち着いた様子のソラを見てシドはホッ、と胸を撫で下ろす。


 ソラの体をしっかりと支えながら、シドは男に向かって頭を下げる。


「ありがとう。あなたのお蔭で妹が助かったよ」

「いやいや、まだ安心できないよ」

「そ、そうなのか?」


 不安そうに表情を曇らせるシドに、軽薄な笑みを張りつけた男は顎で先の通路を示しながら話す。


「そうなんだ。だから先ずはここから離れようか? 実は涼むのにいい場所を知っているんだ」

「…………そんなこと言って、怪しい所に連れて行くつもりじゃないよな?」

「そこは信用してもらうしかないかな?」


 まだ警戒するシドに、男は大袈裟に肩を竦めてみせる。


「でも、これだけは言っておくよ。少なくとも今の僕は、純粋にその子を救うために動いている。この言葉に嘘はないよ」

「…………」


 男の言葉を聞いたシドは、彼の顔をまじまじと見つめた後、


「…………わかった」


 ソラの命には代えられないと、男の提案に乗ることにする。


「ただし、これだけは言っておく。もし、ソラに手を出そうものなら、あたしは死ぬ気で暴れるからな」

「ハハハ、大丈夫だよ。こう見えて僕はとても弱いからね」


 犬歯を剥き出しにして威嚇するシドに、男は降参するように両手を上にあげる。


「それに安心していいよ。今から行くのは、僕のお気に入りの女の子の家だからさ」


 そう言って男は白い歯を見せて笑うと「こっちだよ」と言ってさらに薄暗い路地へと入って行った。




 疲れたのか眠ってしまったソラを背負ったシドは、明らかに怪しい、軽薄な男の後に続いてルストの街のスラム街を歩く。


 光あるところには必ず闇が生まれるとよく言うが、どうやらこのルストの街もその例外に漏れず、華やかな表舞台から転がり落ちた者が一定数いるようだった。



 うどんを追いかけてスリの男たちを追い詰めた場所も随分と汚いと思ったが、その先はさらにひどい有り様だった。


 道幅こそ多少は広くなったが、何故か空が布で覆われて昼間でも暗く、そこかしこに得体のしれないものが散乱していた。


 普通の人より鋭敏な鼻を持つシドは、グランドの街の下水道を思い出して顔をしかめる。


 今にも朽ちてしまいそうな家の中にいる人の格好もかなりみすぼらしく、まともな格好をしたシドたちを見て襲おうとしているのか、中から無遠慮に見つめてくる視線に耐えるのも辛かった。



 お気に入りの女の子の家に行く。男はそう言ったが、とてもそんな雰囲気とはいえない状況に、シドは堪らず男に向かって声をかける。


「おい、まだ着かないのか?」

「まだだよ。心配する気持ちはわかるけど、もう少しだから我慢して。そこまで行けば、ここよりは幾分かマシだからさ」

「…………本当かよ」


 奥に行けば行くほど汚くなっていくのに、そのさらに先にまともな場所があるとは思えないが、ここまで来てしまった以上、男に黙って回れ右して帰るのも憚られる。


 少なくとも男のお蔭でソラは回復し、この街では決して安くはない水を無償で提供してもらった恩がある。

 それに、浩一と瓜二つの見た目をした男がどうしても悪い者には思えなくて、つい辛く当たってしまったことを、素直に感謝の意を伝えられなかったことをシドは密かに後悔していた。


 だから、男が言う場所までは行ってみよう。そこから先、どうするかは自分たちで決めればいい。そう思いながらシドは男の後に続いた。




 そうして男の後に続いて歩くこと数分、唐突に布のトンネルを抜けたかと思うと、彼の言う通り多少はまともな通りに出た。


 といっても、相変わらず人気はなく、またしても路地裏のように狭い通路に、所狭しと家が並ぶ有様に、ここもまたスラム街の中であることが伺えた。


「こっちだよ」


 一軒一軒はかなり狭いのか、短い感覚で扉が並ぶ中を男は迷いなく歩を進めると、一つの木製の扉の前に立ってノックをする。


「こんな昼間にゴメン、僕だ。ラドロだけど開けてくれるかな?」

「ラドロ様? あっ、は~い」


 ラドロと名乗った男の声に反応して、すぐさま中から声が返って来る。



 パタパタという足音が聞こえ、扉が開くと、中から一人の女性が出てくる。


「あっ、本当にラドロ様だ。どうしたんですか? こんな昼間に?」

「いや、ちょっと休ませたい子がいてね。君の家を借りたいんだけどいいかな?」

「……いいですけど。また女の子ですか?」


 いつものことなのか、女性は呆れたように嘆息しながらラドロの背後にいる人影を見て、


「あれ? シド……それにソラ?」


 驚いたように姉妹の名前を呼ぶ。


「えっ?」


 名前を呼ばれたシドは、女性の顔を見て驚いたように声を上げる。


「あ、あんた……すっぽんぽんの踊り子じゃねぇか」

「ハハハ……すっぽんぽんって一応、アイシャって名前があるんだけどね」


 シドの指摘に昨日の夜、ソラを魅了した酒場の踊り子、アイシャは乾いた笑い声を上げた。

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