第210話 大切な人
「いつも本当にありがとね」
「本当、あんたにはいくら感謝しても足りないよ」
声が聞こえる距離まで近付くと、商品を物色していた奥様方が行商人に礼を言いながら商品を受け取っているのが見えた。
果たして、わざわざ地下までやって来る行商人が売る商品の値段は高いのか、安いのか。
とはいっても、真っ当な値段で売っているとは到底思えない。
「……どれどれ」
俺は最近、どうにか読めるようになった文字を目で追いながら商品の値段を見ていく。
「…………えっ?」
その意外な値段を見て、俺は思わず声を上げる。
こうして違法な営業をしているのだから、てっきり相場の二倍、三倍の値段を吹っ掛けてくるのかと思われたが、書かれている値段はどれも地上の相場より少し色を付けたぐらいで、手間を考えれば分相応といっても差し支えないほどだった。
商品を買い漁る奥様方もその辺の事情が分かっているからか、売り出されている商品を次々と買っていく。
しかし、その商売方法は決してまともとは言えなかった。
「なあ、あんた。このトマトもらえるかい?」
「…………ああ」
「こっちは下着をおくれ。二枚だよ」
「…………ああ」
「ほら、銅貨五枚でいいかい?」
「…………ああ」
奥様達から次々と投げかけられる言葉に、行商人は何かブツブツと無愛想に応えているようだが、ハッキリ言って何を言っているのか全くわからない。
しかも、本人は腕を組んだ仁王立ちの姿勢から殆ど動くことなく、商売の主導権は完全に奥様方が握っているようだった。
そんな状況でも誰一人として文句を言うことなく、商談は淡々と進んでいく。
「おにーちゃん、おねーちゃん、はやくはやく~!」
並べられた商品が次々と売れていく様子を見て、ミーファが焦ったように俺たちの裾を引っ張る。
「ミーファのおにく、なくなっちゃう!」
「あらあら、それは大変。コーイチさん、それに姉さんも、慎重になるのはわかりますが、たまには大胆にいくのも悪くないと思いますよ」
地団太を踏んで焦りをみせるミーファに、ソラが落ち着くように優しく頭を撫でながら俺に向かって笑顔を向ける。
「コーイチさん、大丈夫ですよ。あの人。怪しいですが悪い人ではなさそうですから」
「……わかるの?」
「わかるというほど大袈裟なものではありませんが、あの方からは嫌な人特有の臭いがしませんから」
これでも私、鼻はいいんですよ? と言いながらソラはエヘンと胸を張ってみせる。
「……なるほど」
長女は耳で、次女は鼻か……となると三女は目がいいのだろうか。
などとアホなことを考えている場合ではなく、確かにこのまま商品がなくなっていくのを指をくわえたまま待つのは愚かであろう。
俺は大きく息を吐くと、不安そうなミーファの頭を一撫でして、ソラに向かって頷いてみせる。
「わかった……行こう」
「ええ、いざとなった私が守ってあげますから安心して下さい」
「それは……できれば俺の役目にしたいな」
俺がそう言うと、
「ええ、期待していますね」
ソラは大きく頷くと、暗闇の中でもハッキリとわかる眩しい笑みを浮かべてみせる。
…………全く、この子は。
ソラの天使のような笑顔に、俺は自分の鼓動が早くなっているのを自覚する。
前にレンリさんがソラのことをお姫様と言っていたが、あながちその表現は間違っていないのではないかと思った。
流石に奥様方の列に割り込むわけにはいかないので、奥様方たちの買い物が一段落ついてから行商人の前へと進み出た。
「…………見ない顔だな」
俺の姿を見た行商人が首だけこちらへ向けて小さな声でボソボソと話す。
「人間であるお前がどうしてここにいる?」
「えっとその……」
ギリギリ聞き取れたその問いに、俺は何て答えて良いものか迷う。
声が小さいのもあるが、くぐもったその声は男か女か、若いのか老いているのかも定かではない。
一番近いのは、テレビであるモザイク処理された人が喋る合成音声のように思えたが、そんなものがこの世界にあるとは思えないので、地声でそういった声なのだろう。
「どうした? 何故答えない」
俺が答えに窮していると、行商人は腰を落として身構える。
「……まさか、答えられないような存在なのか?」
「ち、違います……って、あれ? 違わないのか?」
そういえば俺、賞金首になったんだっけ?
思わず漏れたそんな一言だったが、
「…………何だと?」
次の瞬間、世界の気温が二度は下がったような気がした。
「答えろ……お前は何者だ?」
「あ、ああ……」
行商人の迫力に、俺の全身の毛穴からぶわっ、と汗が噴き出す。
「どうした? 答えないのか? それとも答えるつもりはないのか?」
「あ、あ、あの……」
ヤバイ……このまま黙っていては殺される。
早く何か答えないと思うのだが、初めて浴びる本物の殺気に、体だけでなく口までもが、まるで水中にいるかのように思うように動かせない。
「もういい、答えないのなら……」
沈黙を貫く俺に業を煮やしたのか、行商人が一歩踏み出すと同時に、
「ま、待って下さい!」
ソラが俺と行商人との間に割って入るように両手を広げて立ち塞がる。
「この人は、私の大切な人なんです」
「大切な人……だと?」
「はい、その……」
ソラはちらりと俺を振り返り、頬を赤く染めたかと思うと、とんでもないことを言い出す。
「この人は、私のこ、ここ、こ、恋人なんです!」
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