第168話 俺だけがいない

 ソロに背を向けて走り出した俺は、再びフードを被りながら徐々に目を覚ましつつ街中を闇雲に走った。


 どうして……どうしてこうなってしまったのだろうか。


 この街に来て一か月、右も左もわからなかった俺に、口は悪いが根気よくあれこれと世話を焼いてくれ、昨日は文字を覚えたいという俺のために家から絵本まで持ってきてくれたソロから放たれた言葉は、俺の心を深く抉った。


 どうしてソロがまるで何者かに記憶を改竄されたかのように、俺と雄二のことを忘れてしまったのだろうか。

 このことが、俺がネームタグを失ったことと関係があるのかどうかはわからないが、もう二度とソロに軽口を叩いてもらえないのではないか。そう思うと、悲しくて涙が出てくる。


 だけど、ここで立ち止まって泣いている時間はない。

 ソロに協力を取り付けることができなかったのなら、他の人に協力を仰ぐしかない。

 この街で他に俺に協力してくれそうな人は、マーシェン先生かジェイドさん、もしくは雄二の仲間のギルド所属の冒険者たちだろうか。


 他にもよく行く飲食店や、市場の店主たちと言った顔見知りレベルの人たちは大勢いるが、流石に彼等に無茶な要求をできるほど信頼を築けているとは思えない。

 ただ、マーシェン先生は、日中は診察で忙しいのと、日々多くの患者が訪れるので、誰にもバレずに会うのは非常に難易度が高い。


 それに、あそこには何も知らない子供たちが多くいる。


 もし、俺が訪れた所為で子供たちに被害が及ぶようなことがあれば、エイラさんやテオさんに何と申し開きしたらいいかわからない。


 となると残りは、ジェイドさん率いる冒険者ギルドの人たちだが……もし、冒険者たちがソロと同じように俺のことを忘れてしまっていたら。

 ネームタグを持たない俺は、彼等に襲われて命を奪われても文句一つ言えない。


「…………」


 ギルドに所属していない俺がいきなりギルドを訪れるのは、流石にハードルが高い。

 先ずは街の人たちの様子だけでも伺ってみよう。

 ……それなら万が一の時に、逃げ切ることができる。

 うん、そうしよう。


 そう決めた俺は、ネームタグを持たなくても店主たちとコミュニケーションが取れる、シドと初めて出会った屋台街へと向けて走り出した。




 それから俺は人目を忍んで街の西側にあるマーケットへと向かった。

 途中、顔を隠している俺を見て明らかに怪しいと訝しむ人が何人かいたが、流石にいきなり見ず知らずの人間に、ネームタグを見せろと強要してきたり、わざわざ自警団まで通報したりという酔狂な人はいなかった。


 そうしてやって来た場所は、俺にこの街での買い物の基礎を教えてくれた青果店だった。

 店の近くまでやって来ると、初めて見た時と同じ、帽子をかぶった日焼けした店主が歩く人たちに威勢のいい掛け声をあげながら客の呼び込みをしていた。


「…………」


 遠目から青果店の様子を伺いながら、俺はどうやって店主に話しかけようか考える。

 さっきは勢いに任せて何も考えずにソロに話しかけてとんでもない目に遭ったので、同じ轍は踏まないようにしたい。

 どのようにすれば怪しまれないかと、いくつかシミュレーションしてみたが、やはり勇気を出して堂々と話しかけるのが一番かもしれない。


 …………大丈夫。バレなきゃ大丈夫。


 俺は何度も自分にそう言い聞かせながら、フードを外して青果店へと向かった。


 いかにも普通に買い物していますという雰囲気を出しながら、俺はゆっくりとした足取りで青果店へと近付く。


「はいよ。毎度ありがとうございました!」


 青果店へと近づくと、調度よく接客が一段落した店主が深々と頭を下げていた。

 話しかけるなら今かもしれない。

 この機を逃すと次はいつになるかわらないので、俺は思い切って店主へと話しかける。


「あ、あにょっ!?」

「ん?」


 緊張で思わず声が裏返って噛んでしまったが、店主は特に気にした様子もなく俺に笑顔を向ける。


「いらっしゃい。初めて見る顔だな。この街にはつい最近来たのかい?」

「えっ? あ、はい、まぁ……」


 今度は予想をしていたので、それほど動揺を出さずに済んだが、やはり青果店の店主も俺のことを忘れてしまっているようだ。


「それで、今日はどうしたんだい。何か入用か?」

「あっ、えっとですね……」


 こういう時のために、俺は用意していた解答を話す。


「その、実は身内に病人が出て病院を探しているのですが、この街では孤児院で診療所を経営しているとか?」

「おおっ、そりゃマーシェン先生のことだな。それならここの道をだな……」


 俺の質問に店主は嫌な顔をせず、丁寧に孤児院の道を教えてくれる。


「そしたら坂が見えてくるからそこをな……」


 もう既に知っている道なので別にしっかりと聞く必要はないのだが、こうして顔見知りに赤の他人扱いされるのはやはりかなり辛い。

 もしかして、ソロをはじめ街の人々全員が俺を嵌めるために演技しているのではないか。

 そう勘ぐってしまうほど、俺は今の状況を信じられないでいた。


「…………というわけだ。わかったか?」

「えっ?」

「診療所の道だよ。わかったのか?」

「あっ……はい、わかりました。ありがとうございます」


 俺は店主に向かって深々と頭を下げて礼を言うと、体裁だけでも取らねばと、診療所へ向けて歩きはじめた。

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