第167話 壊れた関係

 地下水路から外へと出ると、俺たちが初めてリムニ様の屋敷に向かう途中で渡った橋の下へと出た。

 ここに来るまで何度か地下水路からの出口を確認したのだが、どうやら街の景観を損ねないようにと、水路の出口はなるべく目立たないように造られているようだった。


 そんなまちづくりの気遣いに感謝しながら、俺はそっと橋の上へと登る。

 空はまだ暗く、東の彼方が僅かに朝焼けで朱く染まり始めていた。

 ここから夜明けまでは殆ど時間がない。

 明るくなれば城門が開き、市の仕入れのために商人たちが動きはじめるので、その前に宿に戻る必要があった。


「…………とにかく急ごう」


 俺は震える足を叩いて鼓舞すると、宿目掛けて全力で走り出した。




 道中、何度か起き抜けの人を見かけたが、特に見咎められることなく半日ぶりに街の南門の近くにある宿まで戻ってくることができた。

 宿の入口が見えたところで、


「あ…………」


 俺は嬉しくて思わず涙が出そうになって慌てて目を拭う。

 何と、幸運にもソロが宿の扉を開けて、営業中を知らせる看板を出すために外に出て来ていたのだ。


「お……」


 思わず大声を出しそうになったが、ここで下手に大声を出すのは得策ではないと思い直し、俺は足音を殺してソロへと駆け寄る。

 俺が足早にソロへと近づくと、


「――っ、誰だ!?」


 顔を隠しているからか、彼女は明らかに警戒しながら話す。


「それ以上あーしに近付くと、大声で人呼ぶから……」

「ソロ、大丈夫だ」


 警戒するソロに、俺は抵抗する意思はないと、両手を上げながら話す。


「俺だよ。昨日は色々あって帰れなかったけど、反省はしてるから怒るのは勘弁してくれ」

「…………あーしの知り合いに俺、何て奴はいないんだけど。顔ぐらい見せなよ」

「えっ? あ、ああ……悪い」


 毎日会話する仲とはいっても、流石に声だけじゃわからなかったか。

 俺は「悪い、悪い」と謝罪しながらフードを取って顔を見せて笑う。


「俺だ。浩一だよ」


 ここまでしても、皮肉の一つでも言われるだろうな。そう思っていたが、


「…………」


 どういうわけか、ソロは怪訝な表情を崩さぬまま一歩後ろに下がる。


 そして、思わぬ一言を告げる。


「気安く声かけてきてなんだけど、あーし、あんたこと知らないんだけど」

「…………は?」

「いや、は? じゃねーし。いきなり見ず知らずの不審者に声かけられて、朝からテンションぶち下がりなんすけど」

「い、いやいや、そんなわけないだろう」


 いくら朝帰りしたのが気に食わないからといって、いくら何でもこの仕打ちは酷すぎるのではないだろうか。

 改めて話をするのも馬鹿らしいと思うが、俺のことがわからないのなら、わかるように話してやるまでだ。


「俺だって、一か月前にリムニ様のご厚意で二階に泊めさせてもらっている浩一だよ。一時は雄二や泰三の三人で泊まっていたけど、二人が出ていったから今は俺だけが泊まっている……」

「いや、だから知らねぇし……二階にタイゾーって自由騎士様がいたのは覚えているけど、他に二人も仲間がいたなんて聞いたことねーし」

「なっ!? ソロ、本気で言っているのか?」


 ソロの言葉が信じられず、思わず詰め寄ろうとすると、彼女は俺から距離を取るように下がって入口の扉へと手をかける。


「それ以上、近付いたら人……呼ぶよ。その格好からしてあんた、大声出されたら困るんじゃないの?」

「うっ……」


 冒険者相手の宿で働いているだけあり、こういった事態になれているのか、ソロは俺をキッ、と睨みつけてくる。


「…………」


 その顔はとても冗談を言っている様子はなく、本当に俺のことを知らない様だった。


 これは一体、どういうことだ。


 質の悪い冗談ではないのだとすれば、ソロの記憶から俺の記憶が綺麗さっぱり失われたということだろうか。

 それに、俺や雄二は知らないのに、泰三のことは知っていると言ったのも気になる。

 俺と雄二だけの記憶が綺麗さっぱり抜け落ち、泰三のことだけは覚えている。

 そんな都合のいい記憶喪失なんてあるのだろうか。


 これではまるで……、


「……あのさ、いつまでここにいるつもり?」

「えっ?」

「あーしさ、これでも結構、あんたに気を使ってやったと思うんだよね」

「それって……」

「まだ、わからない?」


 ソロはスッ、と目を細めると、今まで聞いたことがないような底冷えするような声で話す。


「早く消えろって言ってんの。それすら理解できないのなら、今すぐにでも人、呼ぶけど?」

「――っ!? わ、わかった」


 流石にこれまでお世話になったソロに、害を成そうという考えは微塵も起きない。


「……今すぐ消えるから、人を呼ぶのだけは勘弁してくれ」

「ハッ、だったらとっとと消えな」

「…………迷惑かけてゴメン」


 俺はソロに向かってどうにか謝罪の言葉を絞り出すと、彼女に背を向けて走り出した。

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