第98話 マーシェン先生

「…………」


 二人の子供が去った後、俺は暫くの間、扉の前で立ち尽くしていた。

 かなり年季が入った扉からは、かなり離れた位置からでもクスリ独特の鼻につくツン、とした匂いがして、俺は学校の保健室を思い出した。


 他の人はどうか知らないが、俺は学校の保健室が何だか苦手だった。


 その理由は、誰もが見聞きしたであろう学校の七不思議、その一つに数えられる夜中に校内を走り回る人体模型という話が苦手だったからだ。

 俺が通っていた小学校には、通所より大きな百五十センチはあろうかという巨大な人体模型があり、とても精巧な造りをしていて今にも動き出しそうだったのだ。

 さらに、北欧の何処かの国で、本物の死体を使って造る人体模型があるという話を聞いたのもあって、小学校にある人体模型もそうやって造られたに違いないと思い込んでしまい、益々保健室に入れなくなってしまったのだった。


 その所為で学校でお腹が痛くなった時、死ぬほど辛かったな……そんな思い出したくもない悲しい過去に浸っていると、


「…………そこの君」


 扉の向こうから、物静かな声が聞こえ、俺は身を固くする。


「何を躊躇っているのか知らないが、患者なのだろう? 早く入りなさい」

「は、はい……」


 その有無を言わさない迫力ある声に俺は逆らえるはずもなく、扉へと近づいておそるおそる扉に手をかける。


「し、失礼します……」


 そう一言告げて、俺は診察室の中へと足を踏み入れた。




 診察室に入ると、壁一面の薬品棚が目につくと同時に、廊下とは比べものにならないくらい薬品の濃厚がした。

 人によってはいい匂いと思うんだろうけど、やっぱり俺は苦手だな。そう思っていると、


「ふむ、来たね」


 部屋一杯に薬品棚がある所為でかなり狭くなっている室内、その奥で背もたれのない椅子に腰かけている老人と目が合う。

 頭頂部で白髪をまとめ、胸元まで届くほど長い顎髭が特徴の老人、マーシェン先生の見た目の第一印象は、山奥に住んでいる仙人だった。

 その見た目もさることながら、かなりの高齢のはずなのに全く曲がっていないピン、と伸びた背に、着流しのようなゆったりとした服を着ていてもわかるがっしりと締まった体躯、そして未だに現役だといっても通じる鋭い眼光を見る限り、かつてはジェイドさんを鍛え上げた凄腕の冒険者だったという話も納得だった。

 何処か浮世離れした雰囲気を持つマーシェン先生に対し、俺は思わず呆然と見惚れてしまっていた。


「……そんな所に突っ立ってどうしたのかね? 診察に来たのだろう?」


 すると、立ち尽くす俺に、マーシェン先生から声がかかる。


「君、名前は?」

「あっ、はい。俺は浩一といいます」

「なるほど……コーイチね」


 俺の名前を聞いたマーシェン先生は、サラサラと羽ペンを走らせて紙に俺の名前と思われる文字を書く……おそらく俺のカルテを作成しているのだろう。

 この世界の文字が読めないが、サラサラと書かれた文字はとても流暢で、もしかしなくてもマーシェン先生はめちゃくちゃ文字が上手なのではないかと思った。


「どうした? 儂の顔に何か付いているかね?」

「あっ、いえ……すみません」


 まさか綺麗な文字に見惚れていたというわけにはいかず、代わりに俺は別の質問をぶつけてみる。


「その、あなたが……マーシェン先生はエイラさんとテオさんの……」

「ああ、二人は儂の大切な子供…………だったよ」

「――っ!?」


 だった。その言葉に、俺は心臓を鷲掴みされたかのような気持ちになり、堪らず自分の胸を押さえる。


「……あ、あれ?」


 さらに、目からはポロポロと涙が零れ落ちるので、俺は慌てて涙を拭うのだが、涙は次から次へと溢れてくる。


「……クソッ、どうして。す、すみません」

「…………謝る必要はない」


 マーシェン先生はゆっくりとかぶりを振ると、「ふぅ」と大きく息を吐く。


「あの子たちのことは残念だが、儂の中では既に済んだことだ。君が気にする必要はない」

「で、ですが……」

「儂は医者だ。常日頃から命に触れ合っている身とすれば、身内の一人二人が死んだくらいで慌てるようでは務まらんよ」


 そこでマーシェン先生は、俺の肩を優しく叩きながら優し気な笑みを浮かべる。


「儂からすれば、赤の他人である君が泣いてくれるだけで十分だ。それだけで、あの子たちが正しいことをしてその任を全うしたことがわかるからな」

「………………ず、ずみまぜん」


 俺は再び謝罪の言葉を口にすると、堰を切ったかのように滂沱の涙を流す。


 ここに来る前は、どんな叱責を受けるのだろうと恐怖を覚えていた。

 子供たちからマーシェン先生の人となりを聞いて、もしかしたら怒鳴り散らされた挙句、思いっきり殴られるのでは、と思っていた。

 だが、そんな俺の浅はかな考えを見透かしていたのかもしれないが、マーシェン先生はそれでも俺を責めることなく、さらには慰めの言葉をかけてくれたのだった。


 予想に反してマーシェン先生に優しい言葉をかけられ、安心して緊張の糸が切れたのと、馬鹿なことを考えていた自分が恥ずかしくて、涙を止めることができなかった。




 その後も、まるで幼子のように泣き続ける俺を見て、マーシェン先生は呆れたように苦笑しながらも、治療を始めようと俺へと手を差し伸べる。


「やれやれ、とりあえず治療を始めたいから幹部だけでも見せてくれんかの?」

「…………ばい」


 俺は泣きながら指示に従うと、マーシェン先生は呆れたように苦笑しながら俺の左手を引き寄せて包帯を解きはじめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る