珈琲
橋野 葛
珈琲
乳白色の壁に掛けられた黒縁の時計の長針は、一定のリズムを刻みながら5時55分を指そうとしていた。
聞き覚えのあるクラシックが流れる店内。ダークブラウンの木材で作られた机の上で、オリジナルブレンドの珈琲からあがる湯気が優雅に踊っている。
頬杖をついて外へと滑らせた視線の先、空が赤く燃え、上から紺色の深い夜が覆い被さっていく。裸になりつつある黒い街路樹が夜に溶けていく。その下で忙しなく行き交う人々は、寒そうに口から白い息を吐く。
私は人の波の中に見知った横顔を探した。
約束をしているわけではないから絶対に来るという保証はない。でも、微かな期待を抱いてカップを傾ける。
時計の針が6時を指す。それと同時に、軽やかな鈴の音と共に真後ろにある扉が開いた。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
ウェイターの言葉に彼女は凛とした表情で頷く。そのまま彼の背中を追って私の斜め前の席に座る。少し距離はあるが、彼女と向かい合う形になる。私はテーブルの下で密かに拳を握った。
彼女はメニューには一切目を向けずに、席へ案内したウェイターに注文を伝える。彼が浅いお辞儀をして去っていくと、滑らかな皮の鞄から銀色に輝くメタリックなノートパソコンを取り出した。電源を入れると彼女の黒い瞳に青い光が灯る。
作業に夢中になる彼女を、肘をついて目の前に目一杯広げた本越しに盗み見る。
私は普段、本を読まない。読む時間があるのならコントローラーを握って異世界にのめり込んでいる。だからこの本はずっと長方形の紙が挟まっていて、ブックカバーの下のタイトルすら覚えていない。
忙しなく指を動かす彼女の手元に珈琲が置かれた。それは、この店のオリジナルブレンドのもの。彼女は必ずそれだけを注文する。
取っ手に彼女の細くしなやかな指が絡まる。カップが口元に持っていかれ、湯気の向こう側で真っ白の縁が紅く色付いた。
思わず口から洩れた溜息がページに沿って流れ、私の髪を揺らす。
今まで厚い化粧の人に好意を抱くことは無かった。むしろ苦手意識を持っていた。もっと物腰が柔らかく大人しい人がタイプだと自覚していた。
でも、それは女子高校生の厚化粧の下に幼さが残っているからだと気がついた。無理をして背伸びをしている思春期らしい感じが苦手だったのだ。
一方で彼女の化粧からは未熟さが一切感じられない。私は化粧に対して知識がないが、目尻に描かれた上向きの太いアイラインが一重で少しつり上がった目を一層引き立たせる、気がする。高校生ならけばけばしいと感じる長いつけまつげすらパーツの一部になっている、ように思う。
少し耳が隠れるほどの艶のある黒髪。口元にほくろが一つ。色白の肌に紅い口紅が映えて、群青色のニットワンピースが体の線を拾う。ワンピースからのぞく脚は50デニールのタイツに包まれている。
一言にまとめれば、格好良い大人な女性だ。
彼女に熱い視線を送りながら珈琲を口に含んだ。独特の香ばしい香りが鼻に広がる。
アイドルを追いかけている子たちの気持ちが今ならよくわかる気がする。彼女が自分の見る世界にいるだけで満ち足りた気持ちになり、信じてもいない神に感謝の気持ちを込めて手を合わせる。
ふと、彼女が顔を上げて私の方を見た。反射的に視線を本に下げる。
あのまま見つめていれば、彼女は私の気持ちに気がついてくれただろうか。本を見つめながらそんな幻想を一人頭に描いた。
本から視線をゆっくり上げると、彼女の視線はパソコンに向いていた。胸の中で安堵と落胆が混じり合う。
どこかで聞いたことのあるクラシックに乗せて彼女の滑らかなタイピング音が耳に届く。夢のようなこの時間が永遠に続けばいいと願うのは、いつか夢は覚めてしまうことを知っているからだろう。
彼女は珈琲を二杯お代わりした後にパソコンを閉じた。それまで本と彼女を行ったり来たりしていた目を時計に向けると、丁度7時を指していた。彼女は決まってこの時間に店を出る。
鈍い光を放つパソコンを鞄に仕舞い伝票を手に持つ。心地よいヒールの音が横を過ぎて、遠のいていく。その瞬間、香水の甘い香りがした。
「ご馳走様でした」
背中で鳴る鈴の音が店内に虚しく響く。
すっかり夜に飲み込まれた外をガラス越しに見た。車の赤い光の中、二つの影が重なり合う。
冷めた珈琲はいつも以上に苦く感じた。
❖
休日、朝一番に起きた私は親へ「出かけてきます」とメモを残して電車に乗り込んだ。ただなんとなく、一人で遠くへ行きたかった。
何度か電車を乗り換えて適当な駅で降りる。駅周辺は栄えていそうだが、少し歩くと住宅街に田んぼがあるという何とも変なところだった。
とりあえず駅近くにあるショッピングモールに入ってあてもなく彷徨う。
流行に敏感な女性が着ていそうな服に身を包んだマネキンが永遠と続き、それらを物色しながら女性たちが楽しそうに歩いていく。1階から3階まで見回った結果、あまり心惹かれる店は無さそうだ。
別の場所に行こうかとぼんやり考えながら視線を泳がせていると、異様に白く輝く店が目に留まった。ショーケースの中にアクセサリーが丁寧に並べてあり、それを眺める細い背中に見覚えがあった。
最低だとわかっていても、店の横の壁にもたれかかってスマホを見るフリをする。
「青色のが良いんです。あの子は青が好きだから」
「でしたら、こちらはいかがでしょう」
店員が勧めたのは、シルバーにマリンブルーの線が入った指輪だった。店内の白い照明が指輪を一層輝かせる。
その人は指輪に二つ目の穴が開きそうになるくらいじっくりと眺め、目をつぶって上を向いた。頭に思い浮かべた彼女の指にはめているのだろうか。
「ちょっと考えさせてください」
「かしこまりました。どうぞごゆっくりご覧になってください」
何度もショーケースに顔を近づけるその人は時々上を向く。不意にスマホを開き、何かを検索して閉じ、また開く。一度店を後にしたが30分すると戻ってきた。
それから2時間たっぷりと悩み、店員に再度相談し、結局その指輪を購入することに決めた。道端で迷いも無く抱きしめ合うのに意外と優柔不断なのだと思った。
「いつ、彼氏さんに渡されるのですか?」
会計の途中、おしゃべりな女性店員は無神経なことを尋ねた。その人は背中まである長い髪を静かに揺らし、微笑みながら立方体の箱を受け取る。
「来週の、彼女の誕生日に渡すんです」
女性店員はハッとした顔をして深々と頭を下げた。謝罪を述べる店員に、その人は小さく手を振る。
「大丈夫ですよ。ありがとうございました」
店員に軽くお辞儀をしてから、低いヒールの音と甘い香りを漂わせて歩いていく。それは、彼女と同じ香水だった。
その人は最後まで静寂を纏っていた。穏やかで、おしとやかで、奥ゆかしい。昔の私なら、きっとあの人のような女性に好意を抱いていた。
でも、今抱く感情はとても黒く重い。
細かいプリーツの入った紺色のワンピースをなびかせて歩くその人に背を向け、足早にその場を立ち去った。
ショッピングモール内のベンチに勢いよく座って横に下げていたカバンを前で抱える。
知ってはいたけれど、改めて目の当たりにすると熱いものが喉の奥から込み上げてくる。
彼女はあれを受け取って、あの人に微笑むんだろうか。そう考えて、私は彼女がどんな顔で笑うのか知らないことに気がついた。
店員から指輪を受け取った時のあの人の言葉を思い出して、赤いスケジュール帳をカバンから取り出す。
無機質に並ぶ数字を指先でなぞりながら思った。彼女の誕生日、ああ、私はそれすら知らない。
スケジュール帳を閉じて上を見上げる。このまま目を閉じたところで、私にはあの人が思い浮かべた彼女と同じ姿を思い描くことはできない。
瞼を開くと押し込めた感情が目から溢れ出した。
❖
相変わらず題名の分からないクラシックとタイピング音が閑静な店内に流れる。
今日は彼女と遠い席になってしまった。彼女をあの席に案内した店員を心の中で少し恨む。でも、遠ければ大胆に見てもバレないのだから結局はどちらでも良いか。彼女がこの店に来てくれさえすれば私は彼女を一目見ることができるのだ。
彼女はいつも通り珈琲を飲みながら作業をしていた。心なしか彼女の指が軽やかな気がする。
今週は今日しか店に来ていなく、指にあの輝きがないということは、きっと今日が彼女の誕生日。机の上に置いてあるスケジュール帳を開きかけて、そっと閉じた。テーブルにある珈琲の中で私の顔が揺れる。
パソコンを閉じる音がして顔を上げた。6時55分。彼女が店を出るには、いつもより5分早い。それでも、彼女は鞄にパソコンを入れて立ち上がった。真っすぐレジへと足を進める。それを見た店員がそそくさとレジへと歩いて行った。
呼び止めようかと腰を浮かせて乾いた口を開く。でも、そのまま腰を下ろしてカップに手を伸ばした。
ハイヒールと共に扉の左上についている鈴が残酷な音色を奏でる。
寒そうに首を竦める人々が早歩きで過ぎていく。彼女たちは互いの手が離れないよう固く繋いでいた。
空はもうほとんどが深い青に侵食されてしまった。段々と夜が長くなっているのを感じる。そのまま日が昇らず、世界は永遠に夜の中に閉じ込められるのではないか。そんな錯覚を抱く。
でも結局、私がどんなに明けない夜を願っても彼女たちのために太陽は昇り、その煌めきの中で二人が目覚める。
口元に持ってきたカップに息を吐いた。湯気が渦潮のように回って消える。猫舌で苦いものが苦手だった私にとって、温かい珈琲は不味い飲み物でしかなかった。
珈琲 橋野 葛 @kiyo66
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