暗く正常なままに

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暗く正常なままに

 街が明るい。もうすぐ二十三時になろうかという頃合いなのに。何の変哲も無い木曜日、平日だっていうのに。左へ右へと行き交いながら、時折楽しそうに弾む人々の声が夜の冷えた空気に染みた。《ニケ》のパブリックレイヤには、誰のものともわからない〔つぶやき〕が表示されては次のものに塗りつぶされていた。

 私はその繁栄を思わせる光景を、橋の隅っこの方、人の流れから外れたところで、ぼうっと眺めていた。誰も彼も幸せそうだ。ネオンに照らされて、キラキラ輝いてる。

 この街の明かりはもう何十年も消えていない、らしい。私がこの街に初めて来た時、確かまだ小学生だった頃には、もうすでに暗い夜というモノはなくなっていた。つまるところ、私はこの街については直近一〇年にも満たない浅はかな歴史しか知らない、ということになる。

 むしろ数十年前まで遡れば、この街にも『暗い夜』があったということの方が信じがたい。その程度には現代っ子な私からしたら、光と情報でごった返すこの光景の方か見慣れたものだ。

 私と人の流れとの間にできた無人の空間を、一匹の野良猫が通り過ぎていく。本来は白いのであろう全身の体毛はあちこち埃で薄汚れ、まるで何度も使われてすっかり汚れたモップのようだ。それでもてくてくと歩いていくその横顔は凛々しいもので、人間社会の中で生き延びている逞しさを感じさせる。 

 人慣れした様子を見るに、もう長い間この街で暮らしているんだろう。そう思うとなんだか愛着らしきものが湧いてきて、自然とその猫が通り過ぎていくのを目で追った。

 すると、主人の興味を察した《ニケ》が、その猫に付属した情報レイヤを私の視界に表示させた。いくつかの〔タグ〕が付いていたので開いて目を通してみる。


{直近1時間・3件}【なんか目障り】【誰か拾ってやれよ笑】【きったねぇw】


 やや乱暴なジェスチャでそれを閉じると、思わずはぁと一つ大きなため息が出た。どうして人間はこうなのだろうとつくづく思う。いや、こんなんだからここまで異常な社会に対しても何の疑問も抱かずに受け入れることができるのか、といつもの結論にたどり着いた。

 ィィイーーーン、という独特の走行音と、ひゅうひゅうと風を切る音が耳に届いた。肩越しにちらりと後ろを振り返ると、ちょうど一本の電車が橋の下を潜ろうとしているところだった。もう随分と昔に自動化された車両には操縦席がなく、車内の乗客が正面からでもよく見えた。皆一様に虚空に向かって指を振っては、見えない何かに話しかけたり笑いかけたり、忙しない。


「『新型個別通信装置』、《ニケ》の開発が進んだのは二〇三〇年代前半である。それ以前に主流だった携帯電話、いわゆるスマホとは一線を画する通信・情報処理速度、本格的なAIの導入、超小型化による利便性の高さ、拡張現実技術による近未来性など、まさに現代技術の極致である女神の名を冠したこれらが普及するのに、そう時間は要さなかった。二〇四〇年代に突入した現在においては、日本国民の約九十五%が、メガネ型や、コンタクト型など、様々な形態の《ニケ》を日常の中で使用している。

 その開発元は二〇三七年より一般企業から政府関連機関へと移っており、二〇五〇年までに《ニケ》使用率一〇〇%を目指し、六歳からの《ニケ》装着を義務化する法案を、現在審議中である。」


《ニケ》について調べると、こんなような説明文がたくさん表示されるし、学校の社会の授業でも同じようなことは聞かされる。確かに便利だ。友達とのやり取りやら何やらで、私の日常生活はこの機械無しには上手く回らないと思う。

 

 でも、時折ふと頭をよぎるのだ。この《ニケ》社会は異常なんじゃないか、と。


 いやいや、そんなはずは、と根拠も何もない仮定を否定しようと、試しに自分の《ニケ》をスリープにして、周囲を見渡してみたことがある。するとどうだろうか、学校の教室内や廊下でも、電車の中でも、街中でも、病院の待合室でも、図書館すら、どこでも、どこでも、どこでも。全員が全員 《ニケ》の見せる夢の中にいた。そんな馬鹿な、と笑い飛ばすはずだったことが現実だった。私はその事実に押しつぶされそうになって、足がすくんで吐き気が込み上げてきた。きっとあの時の私の顔は、それはそれはひどかったに違いない。学校帰りの電車内で、突然顔面蒼白になってドアにもたれ、過呼吸を起こして卒倒しそうになった。その異常な様子を察してか、たまたま乗り合わせた主婦や学生が心配そうに声をかけてきた。私は「大丈夫です」と言おうとしてその心優しい人たちの目を見ようとした。

 できなかった。その人たちが見ていたのは私ではなかった。いや、正確に言えば私を見ていた、彼らの《ニケ》で読み取れる私についての情報を通して。体温、心拍数、瞳孔、体の震え、発汗状況、その他肉体の些細な変化から読み取れる情報をつぶさに見ていた。もちろん、心から気遣ってくれているんだろう。不安そうな顔を見れば、《ニケ》を通さずともそれくらいのことはわかった。しかし、私の喉からかろうじて漏れたのは乾いた笑いだけだった。

 偶然タイミング良く開いてくれたドアから、降りたこともない駅のホームに飛び出して、逃げるように走った。背後から私を引きとめようとする大きな声が聞こえたが、全く気にも止まらなかった。階段も駆け上がり、そのまま止まることなく女子トイレの個室にかけこんで乱暴に施錠する。激しい動悸の乱れは、いきなり全速で走ったからというだけではなかった。疑念は確信に変わり、脳内を蝕んでいく。私は震える手を必死になだめて、装着していたメガネ型の《ニケ》を外した。そのまま出来るだけ見ないように、ブレザーのポケットにしまった。視界が少し晴れやかになって、乱れた呼吸を整えるために大きく深呼吸をすると、いくらか冷静さが戻ってくる。かなり過剰な反応をしてしまった。『コスモ』にさっきの学生が、私の一連の行動について何か投稿しているかもしれない。そう思うと《ニケ》を使って確認したくなったが、どうにもかけ直す気になれなかった。

 しかしこれではっきりした。この社会は異常だ。


 それからというもの、私は以前と変わらず《ニケ》を使い続けた。帰りの電車でも、いつもと変わらず反対方向の電車に乗った友達と楽しく『会話』しながら帰り、帰宅が済んだらソファに寝そべって《ニケ》でくだらない動画を見た。以前と変わらず夕食の間も家族で話すことはなかった。全員揃って食卓についているのに、各々が《ニケ》に夢中だ。それから寝るまで友達とおしゃべりして、起きたら早速 《ニケ》を装着してその日の天気予報やニュースをチェックし、学校に向かう。そんな毎日を繰り返した。けれど、以前と変わったことが一つだけあった。私がこの社会の異常性に触れてしまったことだ。ほんの小さな違いではあったけれど、電車の中での『会話』の間に他の乗客の様子をなんとなく見渡したり、夕食中に家族とコミュニケーションを取ろうとしたり、寝る前は早めに《ニケ》を外すようになった。

 一見すると良いことのように思えるかもしれない。しかしその考えは全くの見当違いだ。焦点のあっていない目で指を振って、時折笑みを浮かべてはブツブツと何か声を発する集団に、実の娘からの呼びかけにほとんど答えずに虚空を見つめている両親、友達との連絡をあまりしなくなったことで疎遠になって、その信頼の薄さが露呈した。静かな夜の不安によく寝付けなくもなった。

 そんな生活を一ヶ月続けた結果、体重は六キロ落ちた。一日三時間も寝れなくなった。食事は喉を通らなくなって、ゼリーとサプリが主食になった。一週間前からは学校にも行けなくなって、ほとんど会話をしない両親から何年ぶりかもわからない説教をくらった。「この子はおかしくなってしまった」と病院に連れて行かれもした。これが今の私だ。


 二十三時をとっくに過ぎても、街の明かりは消える気配を見せない。静まるどころかますます活気づいている。終電がなくなった電車は盛んに行き交い、闇を知らない人々は和気藹々と夜の街を練り歩く。橋の隅にいる私のことなんか目もくれない。《ニケ》は楽しいモノしか見せない。女神は下々の民に理想しか語りかけない。そこが地獄だと悟らせない。愚かな人間が息絶えるまで夢を見せ続ける。おかしい。異常だ。はっきり言って狂ってる。この世界は、社会は、人間は。そして、それに順応できなかった私も。

 

 だから、私は死ぬことを決めた。

 

 パーカーのポケットにしまっていた手のひら大の黒い箱を取り出して、電源を入れた。通称 《ラオコーン》と呼ばれるその機械は、起動すると一定の間 《ニケ》の通信を妨害する電波を放出し、使用者をその監視の目からそらす。使用した痕跡も残りづらいことから、主に窃盗などの軽犯罪に使われることが多い、というのが世間一般の知識だった。かなり値が張る代物だけど、『コスモ』で知り合った人物から安く購入することができた。おそらく、いや確実に犯罪者の類だろうと思うけれど、そんなことはどうでも良かった。

 ともあれ、これで私は自由になった。自分が死ぬところを動画に収められて、拡散、《ニケ》の世界に漂い続けるのは御免だ。冷やかしならまだしも、中身のないとりあえずの同情をもらうのはもっと勘弁。回れ右をすると、眼前に七車線もの路線を抱える大きな駅舎が広がった。それぞれの線路からはいくつも連なった車両が絶え間なく行ったり来たりしている。その景色をほんの束の間眺めた後、背もたれ代わりだった欄干に手を掛けた。すっかり衰えてしまった筋肉を酷使して右足から鉄棒のように跨ぐ。止まることなくそのまま同じ足で、小さくはみ出た橋の縁に着地した。左足もそれに続く。両手をしっかりと支えにしたまま下を覗くと、ちょうど駅舎へ向かう電車が目に入った。結構な速度だ。それを見送ってから、目的の位置へと縁を伝って移動する。中は空洞になっているようで、一歩踏み出すたびにコツコツと音が鳴り、なんだか愉快になった。小学生の頃に遊んだ平均台のような感覚を数メートル分楽しんだら、ちょうど橋の真ん中で止まる。眼下の線路は、右から数えても左から数えても四本目だ。《ニケ》で時間を確認する。二十三時十九分。あと二分だ。

 遺書を用意するつもりはなかったけれど、ほんの少し、不意に何かを残したい気がした。テキストボックスを表示させ、短く文字を打つ。打ち上げた文字を確認すると、なんだか少し物足りないような気がして一言付け足した。よし。そのままパブリックレイヤに投稿した。そしてすぐに新たな〔つぶやき〕にかき消される。まぁ、こんなものだと独り納得した。残りはあと一分。《ニケ》の電源を落とした。街がほんのり暗くなったような気がする。事実、何割かの明かりは《ニケ》の見せる幻覚のようなものだった。相変わらず、誰も彼もが幸せそうだった。外から見ると夢遊病の集団にしか見えないけれど。ふと、五歳くらいの幼い男の子がこちらを見つめているのに気がついた。まだ《ニケ》を使っていないらしい。なぜ柵の向こうに人がいるのか、と不思議そうな顔をしていた。一緒にいる母親らしき女性はもれなく《ニケ》の虜で、私に気づいた様子はない。きっと、あの少年も数年後には母親と同じようになっているだろう。悲しいとか、憐れだとか、そんな同情はなかった。この社会ではそれが普通なのだから。せめて、せめて私と同じ道を辿らないことを願う。電車の走行音が徐々に近づいてくるのがわかった。唯一私を見つけてくれた小さなヒーローに笑顔で手を振ると、満面の笑みで大きく手を振り返してくれた。走行音はもう間近だ。私は、飛んだ。急ブレーキの音と強い照明。

 



 さよなら、輝き狂った世界!

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