最終章 4.現実

「どうなってんだ……?」


 慌てて周囲を見渡す。

 年季の入った二段ベッドに、小傷が目立った二つ並ぶ机、そのすぐ前にある窓の風から大きくなびく深緑色のカーテン。


 あの部屋だ。


 昔からとてもよく知っている場所。

 子供の頃から毎日をここで過ごした。

 そうここは自分自身が二十歳まで過ごしたあの児童養護施設の自室だ。


「……リラ? いるんだろ……?」


 部屋はまるで黙り込むように静まり返り、ドアの隙間からわずかに通る風の音と、夕焼けに染まる外からカラスの鳴き声がこだまするように響くだけだ。


 そんな中、慌てて部屋の外へ向かう。


 ドアを開けた瞬間、目の前にあった水垢の残る窓ガラスに自分がおぼろげに映った。

 

 ――Tシャツにデニムを履いている姿が。


「これは……剣……、剣は!?」


 持っていなかった。

 剣だけではなく、先程まで着ていた服や靴、持ち物まで全てない。

 妹に召喚される以前のあの頃のままだ。


 まるで全てが夢だったかのように――


「どういうことだよ……」


 この状況に打ちひしがれ、頭が真っ白になった時だった。


「お兄ちゃん」


 そのあどけない声へ振り向くと、へ自分を召喚させた少女がそこに立っていた。


「いおり……!」


 妹に会いたかった思いと、理解出来ない今の現状をぶつけるように、思わずいおりの肩に強くしがみついた。


「ど、どうしたの!? お兄ちゃん」


「……どうなってるんだ! なんで戻ってきてるんだよ……! オレはまだ戻っちゃダメだ、ダメなんだ、オレはあの世界にまだいなくちゃダメなんだよ……!! いおりもそう言ってただろ……? お前の願いだろ……みんなが危険なんだよ……はやくまた飛ばしてくれよ……お願いだから……早く、早く……!」


「……何言ってるの?」


 その言葉に思わずいおりの小さな体から手を離し、目の前の不思議そうな顔を呆然ぼうぜんと見つめた。


「え……?」


「どうしたの? なんかお兄ちゃんおかしいよ……」


 その意に反する言葉に、平然さを更に失いそうになった。


「……に、兄ちゃんをあの時飛ばしただろ? あの世界に……いおりの誕生日の日に……なぁ……」


 どうにか落ち着き返答したが、次の言葉を聞くのがとてつもなく恐ろしかった。


「昨日の誕生日? お兄ちゃんじゃなくて、シャボン玉なら飛ばしたけど……」


「シャボン玉……?」


「うん! すっごく晴れた空に飛ばして、とっても綺麗でキラキラしてたよね!」

 

 いおりは無邪気に笑い、楽しそうにその事を思い出しているかのようだった。


「なんでだよ……」 


「なんでって、お兄ちゃんも笑って飛ばしてたじゃない! もう、さっきからおかしいよ!」


「……」

 

 もう口を開く事さえ出来なかった。


「今日から別々のおうちだね。お兄ちゃんといおり……待ってるから、早くお迎えに来てね……!」

 

 平然と言う妹のその言葉に更なる現実を突き付けられた気がした。

 これまでにでリラやエダー達と必死に戦い続けた時間も覚悟も思いさえも、全ての自分を拒否されたかのようにも思えた。


「……」


「……お兄ちゃん?」


「あぁ、ごめんな……。速く迎えに来るから……」


 これ以上は耐えられず、またあの部屋へふらふらと戻ってしまった。

 ドアをゆっくりと閉めると、そのまま崩れる落ちる様にドアに背中を預けると、膝を抱え、耐え難い落胆と共に下を向いた。


「なんなんだよ……どういうことだよ……オレは戻ってきたっていうのかよ……ここに……」

 

 一粒また一粒と目から透明なものが膝に落ち、デニムのインディゴが更に濃紺となっていく。


 頭の中には神地リスターンでの思い出が次々に溢れてくる。

 リラやエダー、リンガー王国の女王や兵士達の思い、ティスタやセーレの思いを知り、受け止め、分かち合い、助けたいと思った、守りたいと思った。

 前へ進みたいと思っていたあの気持ちは一体どこに置けばいいのだろうか。


「これで終わりなのか……? ほんとに……?」


 この部屋が視界に入れば入るほど次々に溢れてくる。思いも涙も。

  

「オレは……また、まただ、何も出来なかった……あの頃のままじゃないか……」


 この過去の過ちを受け止めてくれ、自分を優しく抱き締めてくれた彼女ももうここにはいない。

 

 窓から風が強く入ってきている。

 カーテンがバサバサと音を立てると同時に雷の音も遠くから聞こえ始めた。

 先程より暗雲が立ち込め、空は暗くなろうとしている。


「助けたいんだよ……、そのチャンスさえ奪うっていうのかよ……」


 どう足掻いても自分はスタートにさえ立てない。

 そう思えば思うほど息が詰まり、胸が締め付けられる。


 すると、ドアをノックする音が聞こえた。


「お兄ちゃん? 入るよ」

 

 慌てて立ち上がり涙を拭った瞬間、ドアがゆっくりと開いた。

 その向こうにはいおりが心配そうな顔をして立っている。


「いおり……」


「お兄ちゃん、どうしたの? 大丈夫? さっきからなんか変だから……」


 いおりはこちらの顔を覗き込みながら、いたわるように話しかけてきた。


「……兄ちゃんはダメな奴だなって……ほんとに、肝心な時にいつもそうなんだ……」


「なんでそんなこと言うの? ……お兄ちゃんはいおりのためにいつだって、すごく頑張ってきたじゃない。いおり、知ってるよ。お兄ちゃんがいおりの知らないところで必死に支えてくれたこと」


 その暖かな言葉にまた視界がぼやけ始める。

 いおりの前にかがみ、目線を合わせるとそっと頭をなでた。


「……いおりはほんとに優しい子だな」


 その真っ白な横髪がこの指に触れた時、愛しさがじんわりと染み出した。


 妹と同じ髪色を持つ、強くも儚い彼女にもう二度と会えないのだろうか。

 つい先程までこの腕の中にいたのに。

 暖かな体温さえ感じていたのに。


 もう守ることさえ出来ない距離にいるこの現実に、彼女への思いが溢れ出し、次々に思い出が蘇る。


「……兄ちゃんな、大事な人をまた守れなかったんだ……」

 

「大事な人?」


「そう……とても大切に思える人。次こそは絶対に守ろうと思ったんだ。……今度こそ、もう二度と……何があっても……! この手から離したくなかったのに……やっと、やっとこの気持ちに気付けたのに……」


 妹の小さな頭から離した右手は小刻みに震えていた。

 この手からまた大切な人がすり抜けた。

 どうしようもない程にまた止めどなく涙が流れ出る。

 この耐え切れない置き場のなくなった気持ちは一体どこへ放ったらいいのだろう。


「……お兄ちゃん、そのは大事にしなきゃだめだよ。もう自分を犠牲にしないで」


 その言葉にハッとし、いおりを見上げた。

 妹は優しく微笑み、こちらを見つめている。

 まるで時間が止まったかのようだった。


 すると次の瞬間、雷鳴が激しく鳴り響き、つんざくような音とまばゆい光が部屋中に轟いた。

 窓からは更に突風が吹き付け、まるで狂い踊っているかのようにカーテンが激しくなびく。

 

 その窓の外から誰かの声がわずかに聞こえた気がした。


『ケイスケ、ケイスケ……!』


 その声はもう二度と聞こえることがないと思っていた。

 だが、聞こえる。

 今ここに響いている。

 


 ――また時間が動き出そうとしている。



 体を持っていかれそうな程に強く窓から吹き付ける逆風の中、顔を腕で覆いながらも必死に前を見続け、声の元へ足を一歩一歩踏み続ける。


「……オレはもう見て見ぬふりはしない……! 自分の……この気持ちに……!」


 この手を必死にあの窓へ伸ばす。


 もう少しで手が届きそうな時だった。


 まばゆいほどの光に包まれた。



 ――気が付くと、囁くように鳴く虫の声と木葉を優しく揺らす風の音と共に、誰かが泣いている声が耳元で聞こえた。

 

 そして、この体を包み込む暖かな腕の中にいることも。


「……ケイスケ……行かないで……お願い……」


「リラ……!」


 途端に彼女をきつく抱きしめた。

 もう二度と会えないかと思っていた彼女を。

 この手から決して離さぬように強く、強く。


「ケイスケの体が消え始めたの……もう、二度と……会えないかと……」


 自分の胸に顔を押し付けるように泣きじゃくる彼女の暖かな体温を再び感じた時、幸せと共に心の奥底から安堵あんどした。



「……敬介、そなたの思い、承知した」


 輝く満天の星が映し出された湖の方角から響き渡るようにその声がこだました。


 二人で振り向くと、誰かがその星の絨毯じゅうたんのような湖の上に立ち、こちらをじっと見つめている。


 いや、違う。


 その背中には華麗かれいで大きな蝶羽ちょうばねを持ち、ゆったりとその羽を動かしながら、散りばめられた星屑の中に優雅に浮かんでいたのだ。


 それはまだあどけなさが残る少女だった。

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