遠い日の記憶 前編

 あれは小学生になって、初めての夏休みに起きた出来事。

 私はいつものように、一つ年下の弟を遊びに誘っていた。


「ほら直人、公園に行こう!」

「でも僕、今本読んでるんだけど」

「そんなの後でもできるじゃない。早く早く!」

「わかったよ」


 読んでいた本をしぶしぶ閉じて、急かす私の後を追いかけてくる直人。


 この子は家でも幼稚園でもマイペースで、なかなか自分から遊びに交ざろうとはしないけど、誘ったら必ず応えてくれる。そんな子だった。


 そして私は夏休みに入ってからというもの、毎日のように直人を外に連れ出している。

 直人は暑いの苦手なのに、そんな事はお構い無し。ちょっとわがままなくらいに、遊ぼう遊ぼうと誘っていた。


 それは一人だけ先に小学生になって、一緒にいる時間が減ってしまった反動なのかも。

 普段あまり遊べない分、夏休みの間だけでも姉弟で過ごそうと、ベッタリと甘えていた。


 けど夢中になるあまり、私は大事なことを忘れていた。

 その日は暑かった。とてもとても、暑かったのだ。


 だけど不思議なもので、楽しいことを前にすると、暑さや苦しさなんて忘れてしまい、目の前の事に夢中になってしまうみたい。


 私達は近所の公園までやって来ると二人でかくれんぼをしたり、滑り台で遊んだり。元気いっぱいに遊んでいたけれど、心と違って体の方は暑さについていけなかったみたい。


 鬼ごっこをして、鬼になった直人から逃げていた時。

 さっきまで追いかけていたはずの直人が、いつの間にかとぼとぼと歩いている事に気がついた。


「とうしたの? もう、ちゃんと追いかけてくれなきゃダメじゃない」

「ごめん。……今行くから……」


 そうは言うものの、むしろ足はどんどんふらついているし、これはただ事ではない。

 いったい、どうしたと言うのだろう……あ、しまった!


 ここにきて私はようやく、帽子をかぶってくるのを忘れていた事に気がついた。

 直人は暑いのに弱くて。それなのにこんな炎天下の中動き回ったものだから、熱中症になったのかもしれない。

 いつもならこんなミスはしないのだけど、私が早く行こうって急かしたから。


 軽率な行動をとってしまったことに愕然として、背筋に冷たい汗が流れる。

 私のせいだ。私の……。


「ど、どうしよう。そうだ保冷剤、保冷剤で冷やせば。あ、持ってきてないや」


 当たり前だ。そんな物を用意しているくらいなら、帽子だって忘れていない。

 普段なら遊ぶ時は、帽子も保冷剤もちゃんと持ち歩いているのに、どうして今日に限って。


 とりあえずふらついている直人を引っ張って、ベンチで横になってもらったけど、強い日差しは容赦なく照りつけてくる。


 どうする。どうする。

 この公園水道もないし、遊んでいたのは私達だけで、辺りに人影はない。

 誰かに助けを求めたいけど、直人をかついで行くなんてできないし。こうなったら。


「ごめん、ちょっとだけ我慢してて。すぐに助けを呼んでくるから」

「助け……保冷剤、ある?」

「うん、たっくさん持ってきてあげるから、少しの間待っててね」


 直人をベンチに残したまま、急いで駆け出して行く。

 急がなきゃ、急がなきゃ。


 だけどはやる気持ちとは裏腹に、体調の悪い直人を一人にしてしまうことが、どうしても不安だった。もしも目を離している間に、何かあったらどうしよう。

 せめて水を飲ませたり、体を冷やすことができたらよかったんだけど。

 ああ、いつもなら保冷剤を持ってきてるのに、どうして今日に限って忘れてしまったんだろう。


 そんなことを思いながら、公園から飛び出した時。

 道の先から麦わら帽子を被った女の子が、歩いてくるのが見えた。


 たぶん私よりも少し歳下の女の子。その子を見たとたん、考えるより先に体が動いた。これはチャンスかも。

 一目散に駆けて行った私は彼女の前まで来ると、細い両肩を掴んだ。


「ねえ君、保冷剤持ってない!?」


 突然現れた私を見て、目を見開く女の子。

 脅かしちゃってごめん。けど急いでるの。


 祈るような気持ちで答えを待ったけど、彼女は申し訳なさそうな顔をして、「ううん」と首を横にふる。

 残念だけど、そう上手くはいかなかったか。

 けどせっかく人がいたんだ。直人を一人にしてきたけど、この子が一緒なら。


「弟が熱中症にかかって、動けないでいるの。私、誰か大人の人呼んでくるから、悪いけど君、弟のことを見ておいてくれない。お願いね」

「えっ? えっ?」


 女の子は戸惑った様子だったけど、私は返事も聞かずに再び走り出す。

 後で思えば、強引なお願いだったって思う。いきなりあんな事を頼まれても聞いてくれるとは限らなかったけど、この時はそんな事を考える余裕なんてなかった。


 誰でもいいから、直人の事を見ていてほしい。早く大人の人を呼んでこなくちゃ。

 その二つだけが、頭の中を占めていた。


 だけど、これも後で振り返って思うことだけど、この時彼女に会ったのは本当に幸運だった。

 女の子に直人の事を任せた私は、そのまま近くにある家まで走って行って。中にいたおばさんに理由を説明して一緒に来てもらったのだけど。

 公園に戻った私を待っていたのは、何故か顔色の良くなっていた直人だった。


 まだ全快とはではいかなくても、意識はハッキリしていて。ベンチで横になっていたけど、私達に気付くと立ち上がって、「お姉ちゃん」って声をかけてきた。


「直人、立って大丈夫なの? 気持ち悪くない?」

「うん、平気。もう大丈夫だから」


 さっきまで死にそうな顔をしていたのに、僅か十分ちょいの間で何があったのだろう。もしかしたらあの女の子が、助けてくれたのかな。

 って、あれ。そういえばあの子はどこに?


 キョロキョロと辺りを見回しても、その姿はどこにもない。


「ねえ、私が行ってる間に、女の子が来なかった? 麦わら帽子をかぶった、直人と同い歳くらいの子なんだけど」

「えっと……来てない」


 ん、答えるまでに、明らかに変な間があったような。

 ひょっとして何か隠しているのかもって、思わなかったわけじゃないけど。それよりも直人が無事だった事の方が嬉しくて。

 女の子の件は、すぐに有耶無耶になった。


 だけどこの時、私はまだ気づいていなかった。

 あの麦わら帽子をかぶった女の子が、弟の中の何かを、大きく変えていた事に。

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