幽かな同僚

イツミキトテカ

幽かな同僚

 私は高校卒業以来お世話になっている三瀬川商事を辞めようと思った。それもこれも今朝の朝礼での社長の一言が発端だ。


「こちら今日から一緒に働いてもらう田中さん。享年50歳の幽霊で生前は大手商社で営業部長をされていたそうだ。せっかくだからみんないろいろ教わってくれ」


 社長はそう言ってしばらく隣の虚空を見つめた後、笑顔で頷いて拍手をした。他の従業員も拍手をしたので空気を読んで私も拍手した。


(「社長おかしくなっちゃった。この会社もう駄目だ」)


 そんなわけで冒頭で述べたとおり私は入社2年目にして初めて会社を辞めようと思ったのである。


 会社を辞めたい時には社長に直接言うものなのだろうか。いつまでに言わなければならないのだろうか。生まれて初めて勤めた会社なので辞め方がよく分からない。後でネットで調べよう。そう思った時に社長が思い付いたように手を打った。


「そうだ、今日田中さんの歓迎会をしよう。みんな参加できるよな」


 専務と営業の山本さん、石田さんがはーい、と軽く返事をした。三瀬川商事は小さな専門商社であとは事務員の私だけだ。そもそも幽霊社員の歓迎会ってなんだ。私は小さく手を挙げた。


「あの…私行けませ」


「よしっじゃあ決まり!山本君店予約しておいて」


 私が恐る恐るあげた声は聞こえなかったようだ。社長はそう言い残すと笑顔で社長室に消えていった。専務が私の隣の空いている机を指差す。


「田中さん、あそこの席使ってください。春野さん、文房具とか必要なもの用意してあげて」


 私は目を見開き背中をビンっと伸ばしてゆっくり専務を振り返った。


(「社長だけでなく専務もおかしくなっちゃったの?今まで大変お世話になりました」)


 もはや憐れみの気持ちが芽生え始めた私に専務が思い出したように付け足した。


「田中さんあまり重たいものは持てないんだって。軽いやつにしてね。それと…石田さん!」


 専務に呼ばれた石田さんはちょうど髪をポニーテールに結わえようとしているところだった。営業に出る前の彼女のルーティンだ。髪ゴムを口に咥えたまま振り向く彼女に専務は続けた。


「今日は西方林業の社長とアポ取ってたよね。契約決まりそう?」


 石田さんはこのところ客先の西方林業に足繁く通い、当社の新商品を売り込みに行っていた。最初は契約に前向きだったのだが、急に渋り始め、順調に思えた営業は思いの外難航していた。そのため、先程の専務の言葉に石田さんは眉を寄せ、鼻息をもらし、うつむいた。先方の心変わりの理由が分からない今、ひたすら通いつめるしかないと真面目な彼女はプレッシャーを感じているようだ。そんな彼女の表情で全てを察した専務は私の方を見た。いや、正確には私を飛び越し隣の席を見ていた。


「田中さん、石田さんの案件がなかなか決まらないみたいなんです。急なんですけど一緒に行ってもらえませんか?」


(「えっ今隣の席にいる設定?怖っ」)


 私はぎょっとして椅子から立ち上がった。私は幽霊の存在は信じていない。だけどなんだか薄気味悪くて田中さんがいるだろう方向とは反対側に少し体を傾けた。髪をきっちり結び終わった石田さんが鞄を持って立ち上がる。


「石田と言います。勤務初日から手を煩わせてすみません。宜しくお願いします!」


 そう言って石田さんは私の隣の席に深々と頭を下げると事務所の扉に手をかけ、ドアを支えて誰かが通るのを待っている。ドアが閉まる直前に石田さんの穏やかな笑い声が聞こえてきて私はその場で呆然と立ち尽くした。


(「なにこれ?みんなで私を騙そうとしているの?」)


 私は幽霊の存在は信じていない。だって今まで1度も見たことがないからだ。だけど、石田さんはたまに冗談も通じないほどのお堅い人物なので、その彼女がノリでこんな茶番に付き合うとはとても思えない。それでは石田さんもおかしくなったのだろうか。それにしても5人中3人が昨日まで普通だったのに突然おかしくなるなんてことがあるだろうか。


(「みんなには本当に見えているのかも…」)


 そう思った瞬間、私は夏にも関わらず寒気で体がぶるっと震えた。恐ろしい考えを消し去るように頭をぶんぶん振り、慌てて斜向かいに座る4人目に藁にもすがる思いでたずねた。


「山本さんは田中さん?のこと見えてます…?」


 客先への見積もりを作っていた山本さんはパソコンから顔を上げ困ったような顔をした。


「いや~見えてないよ~」


 私は心底ほっとした。やっぱり幽霊なんていないのだ。きっと3人の頭が突然おかしくなったに違いない。それはそれで怖いが幽霊よりは怖くない。私はおそらく今年1番の笑顔を見せた。


「ですよねー良かった!」


 私につられたのか山本さんもとびきりの笑顔をこちらに向ける。


「でも声は聞こえたよ」


「え゛っ!!」


 見開いた目の端に田中さんの机の上にある水溜まりを捉えた。出社してきた時にはなかったはずだ。幽霊が消えたあとに水溜まりが残る―怪談あるあるだ。それから私は日中何をして過ごしたか覚えていない。気がついたら日が暮れていて田中さんの歓迎会だった。


 ◇◇◇


「それでね…って春野さん聞いてる?」


 ビールジョッキを片手に、普段は物静かなのにお酒が入ると饒舌になることで定評のある石田さんが私の肩に腕を回してからんできた。私はウーロン茶の入ったコップの下の方を両手で軽く支えながら相槌を打った。


「き、聞いてます…(聞いてなかった…)」


 石田さんは満足そうに目を細めると喉をならしながらビールを飲み、ぷはーっと息を吐いた。


「田中さんの言ったとおり話したらね、あんなに頑なだった西方の社長がね、すんなり契約してくれたわけよ。田中さんは凄い人よ、いや、凄い幽霊よ」


 そう言って石田さんは豪快に笑い出した。その石田さんの隣の席には箸とビールと取り皿に食べ物が少し盛られているがそこには誰も座っていない。空席の対面に座る山本さんが目を輝かせた。


「田中さん、明日比良坂工業に一緒に行ってもらえませんか?担当の人にはうちの商品の良さが伝わってると思うんすけど上司の許可がなかなか下りないみたいで。俺も行き詰まってんすよね」


 既に赤ら顔の社長がうんうんと大きく首を上下させ片肘をつきながらどこともなく箸を宙に漂わせた。


「田中さぁん、うちの若いの宜しく頼みますよぉ。大手の営業ノウハウを学べる機会なんてなかなかないっ。みんなも2ヶ月のうちにたくさん吸収するんだぞ」


「2ヵ月って何ですかぁ?」


 石田さんが社長のさ迷う箸を掴み、まるでマイクのようにして聞いた。よほど今日の成約が嬉しかったと見え、いつも以上に酒が進んでいる。社長が首をかしげた。


「あれ?言ってなかったけ。田中さんは2ヶ月だけの臨時顧問だよ」


「えーっ!なんでーやだーっ!!」


 石田さんが私の肩を激しく揺さぶり駄々をこねだした。揺れに身を任せ首をがくんがくんとさせながら私は内心ほっとしていた。2ヶ月の期間限定ならば会社を辞めずに我慢できそうだ。 退職理由が「同僚が幽霊だから」では笑えない。


 山本さんが納得行かないといった面持ちで口を尖らせた。


「なんで2ヶ月なんすかぁ。2カ月後に成仏しちゃうとか?…ってか、逆になんで今まで成仏してないんすか?何か未練があるとかすか?」


 山本さんがぶっこんできた。学生時代にチャラかっただけある。こういうのは幽霊にとってナイーブな質問なのではないだろうか。案の定、歓迎会が一瞬にしてお通夜のようにしんとなったが、突然みんなの視線が田中さんの空席に集中した。どうやら田中さんが話し出したらしい。私にとってはしばしの無音の後、石田さんが口を抑え驚きの声をあげた。


「5年も…そんなもんなんですね。その間何を…旅行!?」


 推察するに田中さんは亡くなってから5年間成仏できず旅行して過ごしていたらしい。専務が遠くをみつめて溜め息をもらした。


「へぇ、幽霊って宇宙空間で存在出来るんですか。良いなぁ、僕も死んだら行ってみよう」


 推察するに田中さんは成仏出来ない間宇宙旅行もしたらしい。結構死後をエンジョイしている。いつの間にか減っている田中さんのビールを注ぎ足しながら山本さんがたずねた。


「そしたらなんでまたうちで働こうと思ったんすか?遊んで暮らせるんだから死んでまで働かなくても」


 ねぇ、と山本さんがみんなに同意を求めた。幽霊に遊んで暮らすも何もないと思ったが、確かに死んでまで働く理由は気になる。社長はビールを飲み干し、ジョッキをゴトッとテーブルに置いた。


「お金が必要なんだそうだ。娘さんが2ヶ月後に結婚するからそのお祝いを自分の稼いだお金で用意したいらしい。泣ける話だろぉ」


 そう言うと社長はおいおいと泣き始めた。つられて石田さんもわんわん泣き出す。専務はさめざめとだ。山本さんも今にもしくしく泣き出しそうだったが袖で目元を拭い無理やり明るい声を絞り出した。


「今日は田中さんの歓迎会ですよ。みんなが泣くから田中さんも困ってるじゃないですか。ほらほら、焼き魚もきたし温かいうちに食べましょ」


 そう言って、田中さんリクエストの焼き魚に手をのばすと箸で身をほぐしほろほろとした白身を田中さんに取り分けてあげた。山本さんは自分にも取り分けると残った分はみんなが取りやすいようにテーブルの真ん中に置き、早速自分の焼き魚を食べ始めた。


「あれ?なんか塩気少ないかも」


 山本さんがテーブル端に置かれた塩入れを掴み取りキャップを捻った。その動作に私は違和感を覚える。その塩入れのキャップは上に開けるタイプだったような…。私ははっとし手を伸ばして叫んだ。


「山本さん!それキャップ外しちゃってます!!」


「ふぇっ?」


 山本さんの間抜けな声が聞こえたときには時すでに遅し、大きく口の開いた塩入れから大量の塩がテーブルにぶちまけられ正面の田中さんの席にまで飛び散っていた。すみませんっ、と慌てる山本さんの隣で社長が口をあんぐりさせて上を見上げた。


「田中さんが逝きかけてる…っ!」


「お清めの塩的な!?」


 それからはとてもじゃないが歓迎会どころではなくなった。社長は立ち上がりその場でおろおろと回りだし、山本さんは土下座でひたすら謝り続け、石田さんは手を合わせお経を唱え始めた。端から見れば地獄絵図の個室である。結局、5年も成仏できないほどの強い未練と専務がスマホで調べた即席の降霊術のおかげで田中さんはなんとか一命を取り留めたのであった。


 ◇◇◇


 幽霊の同僚と送る会社生活にも慣れてきた頃、人類に恨みでもあるのかと思うほど太陽光線が攻撃的に地上に降り注ぐカンカン照りの真夏日に年に2回のその日はやって来た。


「それじゃあ棚卸宜しく!」


 社長の掛け声を合図に、私と山本さんと田中さんは商品を保管している郊外の倉庫に向かった。今日は半年に1度、帳簿と在庫の数が一致しているか確認する実地棚卸の日だ。午前中切りのいいところまできたので早めに近くのファミレスで昼休憩を取ることにした。ドリンクバーのジュースを片手に席に戻ってきた山本さんが両手を上に大きく伸びをした。


「いや~田中さんのおかげで今回かなりスムーズですよ~」


 これには私も頷いた。


「本当に。狭いところとか高いところにある在庫がいっつも数えにくくて一苦労なんですよね。助かりました」


 そう言って私は田中さんが座っているであろう方へ向かって頭を下げた。膨大な在庫数の割に三瀬川商事の倉庫は小さい。そのため実地棚卸は毎回汗だく埃まみれで倉庫を這いずり回る苦行となり、数が合わないとなればなおのことであった。それが今回、田中さんが猫の額ほどの狭い隙間をすいすいすり抜け、見つからない在庫を俯瞰で探し出し、まさにドローンのような働きをしたおかげでかなりの時間短縮になった。山本さんがしげしげとこちらを眺めて唸った。


「…そうですかね?…春野さん体調悪そうだって田中さんが心配してるけど…?」


 私は驚き首を激しく振った。


「全然そんなことないですよ!確かに暑かったんでどっと疲れはしましたけど。ご飯食べてお昼からも頑張ります」


「だな。しっかり食べてとっとと終わらせよう」


 ちょうど頼んだハンバーグ定食が運ばれてきたのでその話は中断になった。それにしても幽霊に体調を心配されるようでは私もまだまだである。椅子に座りっぱなしの事務仕事でたるんだ体に活を入れるようにハンバーグを勢いよく頬張った。


「ふぅ~終わったぁ~」


 実地棚卸は午後からも順調に進み、予定より早く、夕方16時頃には全ての在庫の確認が終わった。いつもなら1度で数が合うことはなく、会社に戻って帳簿のミスがないか確認したり、次の日も引き続き棚卸したりしなければならないが、今回はなんと一発OKで、電話で報告した際に専務が驚いたほどだった。


「今日は直帰して良いってー」


 山本さんの大きな声が積まれた製品の隙間から聞こえてきた。私は山本さんと少し離れたところで製品搬入口のシャッターを締め、内側から鍵を掛けながら声だけで返事をする。


「了解でーす。私、最後戸締まりしときますんで先にあがっててくださーい」


「えっいいの?サンキュー!出口の鍵、机の上に置いとくから」


 そう言って山本さんが倉庫内に1つしかない机をコンコンと叩く音がした。私は額を伝う汗を拭い声を張り上げる。


「はーい、お疲れさまでーす」


「うぃ~お疲れ~」


 山本さんの足音が出口に向かって遠ざかっていった。田中さんの足音は聞こえないが幽霊だからさもありなんである。もう1ヶ所ある搬入口はさっき山本さんがシャッターを閉めていた。念のため鍵が掛かってるか確認しよう。それで戸締まりは終わりだ。


(「よしっ」)


 私は掌で膝を軽く叩き、立ち上がろうとした。その瞬間、目眩がして嫌な冷や汗がどっと吹き出してきた。顔が異常に火照っている。そう感じたが最後私の意識は急速に遠退いていった。


 ―ピシッ―ピシシッ―


(「…何の音…?」)


 何かが裂けるような渇いた音で私は目を覚ました。辺りは既に真っ暗で随分と長い間気を失っていたことになる。


(「あっぶな…帰ろ」)


 軽い熱中症だったのだろうか、幸い今はなんともないようだ。体に異常がないことを確認して立ち上がり、手探りで出口へ向かおうと歩き出したが、足を踏み出せば何かにぶつかる次第でその度に痛さに悶え苦しみ、なかなか前に進めなかった。明かり取りすら無い倉庫は真っ暗闇で平行感覚も掴めない。探り探り進んできたが製品が所狭しと置かれた倉庫で自分が今どこにいるのかさっぱり分からなくなり、途端に心細くなった私は気を紛らわそうと少し大きな声を出してみた。


「暗くて何も見えないぃ」


 しんとした倉庫に独り言が反響し物寂しさが更に増した。軽くため息を落とし出口探しを再開しようとしたその時倉庫の電球が一瞬光った。


「えっ?何?!なにっ!?」


 思わず身を竦める私の頭上でピシッという音がした。電球がジーと唸りながら光ってはまた消える。次第に点滅の間隔が短くなってきた。ピシピシという音もだんだん大きくなって倉庫内に響き渡る。恐怖で震える足を抱え込み私はその場にしゃがみこんだ。テレビや映画で見たことがある。これは幽霊の悪戯―ポルターガイスト現象だ!


 私は少し前まで幽霊の存在を信じていなかった。だが幽霊は実在するのだ!田中さんがその生き証人ならぬ死に証人である。私は幽霊に見つからないように身を縮め、荒い呼吸を止めるように手で口を塞いだ。製品にゆっくりともたれ掛かり、ふと地面に視線を落とすと、私のすぐそばで水のような液体がひとりでに地面を這いずり回っている。


「ひぃっ!!」


 私は声をあげ、尻餅をついた。電球が点く度に液体がのたくっていることが分かる。何か文字が書かれていることに気がつき、私は目を凝らした。


 ― 出口こっちだよ→ ―


 特徴的な丸文字に見覚えがある。


「もしかして…田中さん?!」


 ― (^-^)/ ―


 私の呼び掛けに絵文字が応えた。点滅する電球の光を頼りに私は出口を見つけ無事に倉庫を出ることができた。次の日、専務を通訳に話を聞くと、どうやら田中さんはなかなか出てこない私を不審に思って倉庫に戻り、倒れている私を発見したようだ。急いで山本さんを追いかけたが既に見当たらず、会社に戻ってもみんなが帰っている時間になってしまいそうだったので近くの人に助けを求めたが気がついてもらえず、私の目が覚めるまでずっと待っていてくれたらしい。倉庫の電気のスイッチが固くて押せず、ポルターガイストで怖がらせてごめんねとのことだった。なんていい幽霊だ。こういう幽霊に私もなりたい。


 ◇◇◇


 ある晴れた日曜日の昼下がり。私は花柄のワンピース姿で百貨店の大画面の前に立っていた。腕時計で待ち合わせ時刻を過ぎていることを確認し、あたりを見回したところで少し離れた場所に待ち人を見つけた。


「石田さんもう来てたんですね」


 私は腕を組み仁王立ちする石田さんに手を振りながら近づいた。こちらに気がついた石田さんは眼鏡を上げて微笑む。


「お二人ともこんにちは。田中さん、私服おしゃれですね。えっ?百貨店だから一張羅着てきた?」


 そう言って和やかに笑う石田さんを横目に私は田中さんが既に居たことに驚いていた。いつからいたのだろうか、全く気がつかなかった。こういうときにいつも思う。私もみんなのように田中さんを見たり聞いたり出来れば良いのに。そもそも田中さんって一体どんな顔なのだろうか…。


「春野さん置いてくよ」


 呼ばれて顔をあげると、既に石田さんが店に向かって歩き出していた。私は慌てて後をついていく。今日は田中さんに頼まれて、結婚する娘さんへのお祝いを買いに来たのだ。その後、私たちは百貨店をぐるりと回り、気に入るものが無かったので、近くの個人の店を巡り、なんとか納得のいく娘さんへのお祝いを見つけ出した。


「それにしても私いる意味ありましたかね?」


 田中さんが付き合ってくれたお礼にと立ち寄った喫茶店で珈琲を啜りながら私は自虐気味に呟いた。お祝いを選んでいる間、私は意見を求められれば答えはしたが、田中さんの表情や話が分からないので田中さんの求めるアドバイスが出来たとは思えなかった。窓ガラス越しに見える石田さんが微笑んでいる。


「田中さんの娘さん、春野さんと同じ年でなんだか雰囲気も似てるんだって。だから春野さんの意見はとっても参考になったって」


 石田さんはそう言うと隣の席の何もない空間に笑いかけた。


「そうなんですか?知らなかった…それならあのお祝い絶対喜んでくれますよ。私だったらすごく嬉しい」


 少しでも役に立てたなら良かったと私はほっとした気分でまだまだ熱い珈琲を啜った。田中さんが三瀬川商事で働くのもあと僅かだ。最初はあんなに嫌だった幽霊の同僚がもうすぐ居なくなると思うと何だか寂しいものがある。


 お会計の時になって、社長から田中さんのお給料を預かってきた石田さんが気まずそうにした。


「田中さんお金足りなくなっちゃったんでここは私が払います。それじゃまた明日」


 店を出てからも石田さんは何も無い空間としばらく押し問答をしていた。気にしないでくださいと手を振る石田さんの様子から察するに恐らく田中さんが払うといって聞かないようだった。次の日、石田さんの机には大量の1円玉が賽の河原の石積みのように積まれ、その横に筆圧の薄い「昨日はありがとう」というメモが置かれていた。


 ◇◇◇


 その日は秋晴れが爽やかな絶好の結婚式日和だった。ウエディングベルが3回高らかに鳴り響き、開け放たれた扉から幸せの真っ只中にいる若い新郎新婦が大勢の拍手に包まれながら階段をゆっくり降りてきた。


「田中さんあそこにいます!泣いてますね」


 専務が指差した扉のそばで、遺影を持った留め袖の女性がハンカチを目頭にあて、新郎新婦の後ろ姿を優しい眼差しで眺めていた。光に反射して遺影はよく見えないが、恐らくこの女性が田中さんの奥さんでその隣に田中さんもいるのだろう。


「ていうか、なんでみなさんまで来てるんですかぁ」


 私は大きな木の後ろに身を潜めて式場を覗き見る社長、専務、山本さんをじっと睨んだ。私と石田さんは、娘さんの結婚式にお祝いを持ってきてほしいと頼まれていた。隙を見て彼女に田中さんからのお祝いを渡す作戦だ。


「だって気になるだろ」


 口を尖らせて言う社長に専務と山本さんも追随して口を尖らせた。呆れてため息をつく私の裾を石田さんが引っ張った。


「娘さん今1人になった。田中さんも合図してる。行くよっ」


 私は小さなピンクの箱をしっかり抱え新婦に駆け寄った。目元がなんとなく遺影を持った留め袖の女性と似ている。恐らく母親似なのだろう。走ってくる私と石田さんに気がつきその若く綺麗な新婦はやんわり微笑んだ。私たちを新郎の知り合いだと思っているのだろう。石田さんが緊張した面持ちで言った。


「ご結婚おめでとうございます。私たち田中さんの…あなたのお父様にお世話になっていて…」


 しどろもどろに話し出した石田さんに、新婦が怪訝な顔をした。田中さんは5年も前に亡くなっていて、その知り合いと名乗る女性が2人、娘の結婚式に現れたらそんな表情になるのも当然だ。しかも、「(生前)お世話になった」ではなく、「(死後)お世話になっている」なのだから意味不明である。不審者だと思われて追い出されたら全てが水の泡だ。私はピンクの小箱を新婦に押し付けた。


「田中さんがあなたの結婚のお祝いにと私たちに託したものです。開けてください」


 周りをきょろきょろと見回し助けを求める素振りを見せた新婦に、箱を無理やり持たせたまま、私は勝手にリボンをほどき中身を取り出してみせた。


 それは磨きあげられたウォルナットの下地に象嵌細工が施されたシックな宝石箱だった。私は金色に輝く小さな鍵を回し、その蓋を開ける。と同時にその宝石箱から軽やかに音楽が溢れ出してきた。「エーデルワイス」である。新婦は目を見開くと、私の手から宝石箱を受け取り、オルゴールが鳴り止むまで目を閉じてじっと耳を傾けていた。


「田中さんそれ選ぶのにすごく時間かかったんですよ。あなたが喜んでくれるかとても気にしてました」


 鳴り止んだオルゴールを胸に抱き、はらはらと涙を流す新婦に私と石田さんは田中さんがお祝いを選んでいるときの様子を伝えた。どれだけ田中さんが娘さんのことを思っているのか伝えたかったのだ。娘さんは次から次に溢れる涙を拭いつつも微笑みながら時折頷き、私たちの話を聞いていた。


「父は買い物に時間の掛かる人でした。特に贈り物は。母へのプレゼントを一緒に買いに行ったときもなかなか決まらなくて…。人を喜ばせたいって気持ちが強かったんでしょうね」


 そう言って彼女はオルゴール付きの宝石箱を愛しそうに撫でた。


「エーデルワイスは私が初めてピアノの発表会で弾いた曲なんです。父は世界一上手だって、それは熱烈に誉めてくれました。親バカですよね」


 当時を思いだし笑う娘さんの笑顔が優しい。彼女は天を仰いで呟いた。


「このドレス姿も見てほしかったなぁ」


「お前は世界一綺麗だよ」


 落ち着いた男性の声が聞こえて私と娘さんは声の主をとっさに探した。そこにはモーニングコート姿の優しそうな紳士が1人幽かに佇んでいた。私はすぐにそれが田中さんだと分かった。母親似だと思っていた娘さんが完全に父親似だったからだ。


「パパ…!!」


 呼び掛けられた田中さんは娘さんに傍から見ても分かるほど愛情のこもった眼差しを向けた。


「母さんのこと頼んだよ。そしてこれからも幸せに生きていってくれ」


 そう言い終わるか終わらないかの時、金色の光が田中さんを包みこんだ。全てが金色になる間際、田中さんがこちらを見て、ありがとう、と口を動かしたような気がした。どこか暖かみを感じるその光は紙吹雪のように空に舞い上がり、そして天高く昇っていった。


 ◇◇◇


 三瀨川商事の私の隣の机は空席である。その空席には花が絶えず飾られ、写真立てが1つ置かれている。夏に会社で記念撮影した時の写真だ。社長、専務、山本さん、石田さん、私、そして、うすぼんやりとした白い影が写り込んでいる。俗に言う心霊写真だ。


 だけど、私はこの写真がお気に入りだ。



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幽かな同僚 イツミキトテカ @itsumiki

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