2020.11.13九州大学文藝部・先題噺

九大文芸部

「すいれんは咲いたが」ver.常世

 昨日、妻が死んだ。病死であった。

 妻は元々病弱でベッドの上で過ごすこともよくあった。それでも、元気な時は家事をこなしていたし、私と1週間ほど旅行に行く事もあった。しかし、2か月前から彼女はずっと床に臥せるようになった。医者によると、心臓の病で治療法が見つかっていない病気なのだという。彼は残念ながらそう長くはもちますまいと言い、帰っていった。彼が信頼できる人であっただけに、私はその事実に愕然として医者が帰った後もそのことを妻に話せなかった。

 愛する妻が、死ぬ?残り何日で?そして、それまでに私は何をできる?その日、静かに眠っている妻の横で、寝付けなかった私はそのようなことを考えていた。考えれば考えるほど眠れなくなったが、そんな事はどうでも良かった。妻が不治の病で死んでしまうまで何をするべきか。ただ、その考えだけが胸を占めていた。何をすれば彼女は喜ぶだろう?何をすれば彼女は楽しんでくれるだろう?その考えは尽きることが無く、そして私はその夜を一睡もせぬまま過ごしてしまった。

 次の日から、私は妻の看病を今までより時間をかけてするようになった。彼女の頼みは断ることなく、何でもした。彼女が食べたいものを食べさせ、彼女が着たい服を買い、彼女がしたいことをさせた。昔のような長い旅行はできなかったが、彼女を車いすに乗せて日帰り旅行に行ったこともあった。よく妻が私に無理をしなくてもいいと言ってきたときもあったが、その度に私は、無理な事じゃない、君が幸せならそれで私も幸せなのだと笑って言った。私は小説家だったが、私が書いた小説は世間で良い評判を得ており、実際お金には特に困ることはなかった。

 そうして一月半過ぎたころだった。私が妻の横で新しい小説を書いていると、妻は唐突に私に言った。

「私は後何日生きられるかしら。」

 ぎょっとして、私は彼女を見た。私は医者の言葉をあれから彼女に伝えていなかった。あの後も彼は定期的に私の家に診察しに来てくれていたが、妻の容態について良い言葉を彼から聞くことはなかった。彼女に伝えれば、きっと不安にさせてしまうだろう。そう思って私は言わなかったのだ。そんなことはない、今の病気もきっとすぐに治るさと私は慌てて言ったが、彼女は首を振った。

「無理して嘘をつかなくて大丈夫よ。私の体は私が良く知っているもの。」

 そういう彼女の言葉には嘘が無いように思えた。彼女は自分の命がそう長くはないことをもう分かっている。そして、私にはこれ以上この事を隠していることに罪悪感を抱きつつもあった。だから、私は言った。

「今まで何も言わなくてすまない。君を不安にさせたくなかったし、私も言うのが怖かったんだ。でも、確かに言うべきだろう。そうだ。君は不治の病にかかっている。もう長くはないとあの医者も言っていた。」

 私の言葉を聞くと、彼女は何も言わなくなった。私は言いだしておいて不安になった。もしかしたら、私はまだそれを言うべきではなかったのではないか。そう悩んでいると、やがて彼女は言った。

「睡蓮が見たい。」

「睡蓮?」

「そう、睡蓮。」

 彼女の言葉に私は困惑していた。なぜ、ここで睡蓮が出てくるのか。

「どうして、睡蓮なんかを見たいんだい?」

 私が尋ねると、妻は私に微笑んで言った。

「睡蓮は仏様が座っている植物に似てるのよ。」

「ああ、なるほど。でも、座っている植物、えっと、蓮か。それの方がいいんじゃないのかい?」

「そうね。でも、家の仏像の仏様は蓮の上に座っていらっしゃるのよ。どちらも蓮華と呼ばれているし、他の花の方にも座ってみたいと思う日もあるんじゃないかしら。その姿を見てみたいと思って。」

 他の花にも座ってみたい?仏がそう思うとは思えないが、でもそれはそれで面白いような気がした。病気で寝込んでからも毎日仏像を拝んでいた彼女だから気づいたことなのだろう。それに、ほかならぬ彼女の頼みだ。彼女が退屈しない様に、彼女のベッドがある部屋から庭が見渡せるようになっていたが、その庭の池に睡蓮を植えればいいだろうか。その話をした後、私はその日は調子が良かった妻とともに、睡蓮を買いに行った。買ったのは花がいまだ咲いていないものだったが、咲く日が楽しみだった。

 睡蓮を植えてから、妻の調子は良くなった。医者が言うにはなんと少しずつ回復しているのだという。信じられないと彼は言っていたが、仏の力でも働いているのではないかと私は思い始めていた。

 やがて半月が過ぎ、睡蓮はそろそろ花を開くまでに成長していた。妻の具合もだいぶ良くなり、杖無しで歩けるまでになっていた。このまま睡蓮が咲けば、妻の病気は治るかもしれないと私はそう思い始め、毎日妻とともに私も仏像を拝むようになった。やっぱり、仏様も別の花に座りたい時もあるのねと妻は笑って言った。誰かに見てもらいたいのかもなと私も笑った。こうして愛しい妻の笑顔をずっと見ていたいと私は思っていた。

 しかし、現実は非情だった。その日の夜、妻は突然苦しみだした。薬を飲ませても症状は治まらず、私の声は聞こえていないようだった。私は医者を呼び、彼女を診させて何が起こったか尋ねたが、彼はこう言った。

「残念ですが、もうどうしようもできません。」

 ガラガラと私の何かが崩れ落ちる音がした。今までの健康な彼女が一気に否定された感覚を覚え、わたしは愕然としてしまった。

「今までの彼女は確かに回復していったのに、今になってどうして?」

「わかりません。人間というのは不思議なもので、本当に死ぬ間際には元気になるという話をよく聞きます。もしかしたら彼女もそうだったのかもしれません。」

 私は彼女に無理をさせていたのか?私があの時言ってしまったから、不安にさせてしまったのだろうか?分からなかった。ただひとつ分かったのは彼女が死ぬ。ただそれだけだった。

そして、夜が明ける前に、妻は息を引き取った。私はその最後まで彼女の手を握りしめていた。

 やがて夜が明けて日が昇り、そして今に至る。私が眠っているように見える彼女のそばを離れ、庭を覗くと、睡蓮の花が池一面に咲いていた。それを見て、私は泣き崩れてしまった。後一日妻が生きていれば。せめて一日前に花が咲いていれば。様々な思いが心を巡る。

 すいれんは咲いたが、妻はもういない。

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