避けては通れない道
@takahashinao
イツカノアノヒト
子供のころ、学校からの帰り道。
毎日ではないが、たまに、なんだか奇妙な人物に遭遇することはなかっただろうか。
毎日ではないが、同じような時刻、同じような濃い影がにょっきり伸びる夕暮れどき。
公園に伸びる坂道で、通学路にある歩道橋で、小学校のプール脇の石垣で。
その人物は子供らの間では有名で、「追いかけられたことがある」や「友だちになろうと声をかけられた」など、妖怪の話のように語られたものだ。
仮に《アノヒト》と呼ぶとしよう。
《アノヒト》は夏場でもモコモコの大判セーターを着ていた。必ずピンクやカナリアブルーのような派手な色で柄はない。細身の黒いパンツを履き、髪は量の多い黒のソバージュ。長さは腰まで伸びている。ファッションだけならパンクロッカーのようだった。
異質なのは前髪と歩き方。
前髪は腰位置まである後ろ髪と同じ長さ、そして同じ量。つまり、目鼻はもちろん顔がまったく見えないのだ。子供らの一説には「その目はいつも血走っていて瞬きはしない」や「すげー太っていてあごがないことがコンプレックスで顔を隠している」などと言われていたが事実はわからない。子供の言いそうな失礼が先行する噂話だ。
そして、歩きはひどく速い。いつも前のめりで、伸びた前髪を足先に揺らしながら、ザクザクと歩く。運動会の練習中、学校のグラウンドから見える通学路を《アノヒト》が歩いているのをみて、そのスピードに、かなり大柄な人物なんだなということと追いかけられたら逃げられないだろうなとぼんやり思った記憶がある。
社会に出てから同僚と酒のつまみに子供の頃の話をしていたら、全く違う地域に暮らしていたはずの彼が《アノヒト》のような、解けない謎のような思い出をもっていて驚いたことがあった。
どこの地域にも違う世界に住んでいる人はいる。
大人になった今、それは悪いことではなく、誰にでも可能性のある話であることがわかり、怖がる必要は全くなかったのだと、今さらながら《アノヒト》に同情してしまうのだった。
ひとつ気味の悪い点があるとするなら、学校の友だちも同僚の彼も、必ずしも1人のときに《アノヒト》に遭遇するわけではなかったという点だ。
僕は絶対に1人のときに《アノヒト》に遭遇した。通学路の一本道の遠くに原色がちらりと見えたときの絶望感は今も心にうすら寒さを感じさせる。
そして、その帰り道はあきらめ、遠回りして家路に着くのだった。
そんな小さな敗北感を持っていたランドセルの僕も、今は社会人になって5年目だ。コツコツと努力して大学に入り、大学ゼミの先輩の紹介で、小さいが確かな実績のある製紙会社に就職することができた。まだまだ知らないことだらけで勉強の日々だが、仕事にやりがいも出てきた。
職場に彼女もできた。目が大きいが全体的にこじんまりした可愛い後輩だ。一緒に仕事をしていく中で、2年前、彼女から僕に好意を告白してくれた。結婚を前提に真剣にお付き合いしているが、ご両親への挨拶はまだだ。
まずは先輩のお父さんとお母さんに会ってみたいな、と言っていたから、折を見て実家に連れていこうと思っているが、日々なんだか忙しくて実現していない。
今日は就職と同時に始めた一人暮らしのマンションで、先に仕事を終えた彼女が晩ご飯作ってくれている。仕事を早めに切り上げ、いそいそとマンションのオートロック玄関を通り、部屋のある3階のボタンを押した。
ふとスマホに目をやると圏外の表示になっていた。このエレベーターの中って圏外になったっけ。いや、今朝遅刻しそうで慌てて部屋を出て同じエレベーターに飛び乗ったときに彼女から今夜のことについてLINEが来たから、これは回線の不具合かな。
最近はメンテナンスやアップロードが多くて、回線が微弱になることが増えているような気がする。端末が単に少しの期間どことも繋がらないだけで心細くなる。スマホやPCというマルチな武器を手に入れているだけで、自分は非力な子供の頃から何も変わらないのではないか。
苦笑いをしながら到着した3階に降りて、ギクリとした。
僕の部屋はエレベーターから降りて右側、廊下のつきあたりにある。目線右端にショッキングピンクが。いる。
チン。
僕を乗せてきたエレベーターは音を立てて下の階に戻ってしまった。
冷や汗がじわりと背中を覆う。
右を向けない。直視できない。
なぜ。
《アノヒト》は架空の妖怪でも都市伝説でもない。同じ時代に同じだけの子供たちが出会ってきた人物だ。15年前の懐かしい思い出だ。
なぜ。
なぜ今。
なぜ僕にだけ。
そして、僕はまた1人だ。
回れ左して非常階段を降りていきたい。
だが、《アノヒト》の立っている場所、ドア一枚を隔てた向こう側に僕の彼女がいる。
ニゲタイ、イエニカエリタイ。
だが、その家からもう僕はずいぶんと遠くに来てしまった。
今がそのときなのかもしれない。
部屋からは母もよく作ってくれたホワイトシチューの匂いがしていた。
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