ごく一般的な姉弟の会話

 当然のように寝つけなかった。


「ふぁぁぁ……」


 AM七時。大きなあくびを零しながら、俺はベッドから起き上がった。

 ベッドに突っ伏したのがAM二時すぎ。その後時計を見たのが確か三時。

 多めに見積もったとしても、睡眠時間は三時間半である。ちなみに普段の睡眠平均時間は六時間だ。眠いに決まっている。


 正直ギリギリまで寝直したい。

 だが、父さん母さんは揃って海外出張。一緒に暮らす姉さんは生活リズムが不安定。寝過ごした俺を起こしてくれる人材がこの家にいない以上、遅刻しないためには眠いのを我慢して行動を開始せねばならなかった。


 ベッドくんと別れを告げ、体にエンジンを入れるため制服に着替える。

 ブレザーに袖を通し終えたところで、昨日放り投げた携帯端末に手を伸ばす。電源を入れれば、デフォルトの観葉植物をバックに着信履歴の数字が表示された。


「うっわ着信二桁……」


 自分がやらかしたことを棚に上げて軽く引く。爆撃ほんとえげつないなあいつ。

 着信履歴以外にも、メールが同じくらい送られていた。そのほとんどが件名も本文もない空メールだったが、最後に受信したメールの件名には端的な罵倒が書かれていた。


 Title:ヘタレ

 From:猗々冴々

 To:ヨシツネ

 コラボの件は気にしなくていいよ


 そのメールを開けば、本文にはそっけない一言が添えられている。


「ほんと、こういう気遣いをさらっとするんだよなあ……」


 俺が女なら惚れてるところだ。

 返信しようか少し悩んだが、結局何の操作しないまま端末をポケットに入れる。そして、鞄を持って部屋を後にした。

 階段を下り、洗面所で顔を洗ってから台所に向かう。

 冷蔵庫を開け、マジックで「りょう」と書かれた牛乳パックを手にとる。そのまま直に牛乳を飲んでいると、後ろから物音が聞こえてきた。


 口の中のものを飲んでから振り向けば、ぼさぼさ頭の女が台所の入り口に立っていた。

 だるだるのタンクトップに短パン。だらしさなの極みのような恰好で、脱色した頭をぼりぼりと大ざっぱに掻いている。赤の他人なら気まずいとばかりに目を逸らすところだが、あいにくと相手は血の繋がった姉である。


「おはよ」


 代わりに呆れた目線と挨拶を放れば、姉さんはふふっと小馬鹿にするように笑った。


「おはようございます、弟くん。今朝も無駄な努力に精が出ますね」

「うるせえ馬鹿姉。俺の成長期は遅いんだよ」


 朝から貶められたので罵倒を返した。

 自分は隔世遺伝で平均以上の身長だからって、弟の身体的特徴をあてこするな。

 我が姉ながら性格が悪い女は、憤る実弟を見て肩をすくめてみせる。それから流し台の方に向かうと、電気ケトルに水を入れてお湯を沸かし始めた。


「姉さんがこんな時間に起きてくるなんて珍しいな」


 冷凍庫から出したチャーハンをレンジで温めながら、そう声をかける。

 専業作家であるこの姉は、名声を得るや否や健全な生活リズムを投げ捨てたダメ人間だ。俺が帰宅するころに起床していたらまだいい規則正しい方で、俺が寝るころに起き出したくせに朝になったらまた寝ているなんてのはしょっちゅうだった。

 この時間に起きているのは非常にレアい。

 明日は槍でも降るのか?


「今日は担当に会いに行かないといけないんですよ」

「ああ、なるほど」

「がんばって起きた姉を褒めたたえてください、弟くん」

「はいはい偉い偉い」


 適当に流しつつ、温め終わったチャーハンを取り出す。

 片手に紙皿、片手にスプーンを持って椅子に腰を下ろし、今日の朝食を食べ始める。何口か食べ進めたところで、コーヒーカップを持った姉さんが正面に座った。


「後はですね」


 胸焼けがしそうなほど角砂糖をカップに入れながら、真面目な顔を向けてくる。


「弟くん、昨日は二時過ぎまでゲームをしていましたね?」

「あっ」

「成人するまでは、外せないイベントがない限りゲームは深夜一時まで。それが日本に残る条件だったことを、まさか覚えていないとは言わせないですよ」

「忘れてました……」


 昨日は色々ありすぎて、我が家のルールが完全に頭からすっぽ抜けていた。

 どうして昨日の時点で思い出さなかったんだ。恨むぞ昨日の俺。

 それにしても、こういう時に限って起きているのも、タイミングが悪いというかなんというか。自分が迂闊だったのを棚に上げ、間の悪さをひっそり呪う。


「間が悪いなこの野郎とか思っていません?」

「オモッテイマセンヨ、オネエサマ」


 片言で返した。心を読むのやめてほしい。


「まあ、いいでしょう。弟くんも血気盛んに盛った犬のようなお年頃、ついつい夢中になってしまうということもあるでしょうからね。色々と」

「反省してるからその言い方はよせ」

「でも弟くん、今は二次元の女の子に夢中なのでしょう? 相手の中身がAIなのをいいことに、許可のない見抜きプレイをして背徳感に浸ったり耽ったりなどしないので?」

「しねえよ!」


 実の弟をなんだと思っていやがる。

 だが、完全にプラトニックなのかと言われたら目を逸らさざるを得ない。悪いか、こちとら健全健康な男子高校生なんだぞ。

 意識すまいと努めれば努めるほど、連想ゲームの要領で頭の中が桃色に染まりそうになる。


「……しねえよ。できるかよ」


 しかし、昨晩のできごとを思い出した瞬間、能天気な色は一気に陰鬱な灰色に変わった。

 自己嫌悪がこみ上げてくる。皿の上にスプーンを置いた俺を見て、おや、とばかりに姉さんは目を丸くした。


「何か悩みがあると見ましたが。どうです? この姉に相談してみるというのは」

「姉さんだしなあ……」

「姉であることが全ての障害であるような言い方をしてはいけませんよ、弟くん。今すぐ役所に行って、貴方の姉であることを止めることができるんですからね」

「そういうことを言い出す姉だからこんな言い方になるんだが?」


 そんな理由で籍を動かそうとするな、父さんたちも役所の人も困惑するだろうが。

 これみよがしに溜息をついてから、少しだけ思案する。

 とはいえ、答えは決まっているようなものだ。

 この厄介な姉は、一度気になることが出てくると、もっと他に興味が惹かれるものが現れない限りはてこでも動かない。興味をより惹くものが現れるまで、姉さんは生活リズムを正してでも俺に粘着し続けるだろう。それがうざいことは、身をもって知っている。


(……それに)


 吐き出したい気分ではあるのだ。

 RTNプレイヤーでは、何を言われてもバイアスがかかる気がする。ゲームをプレイしていない第三者の意見を聞いた方が、ごちゃごちゃした思考もまとまる気がした。

 さっきは難色を示してみせたが、姉さんは相談相手に適任ではある。

 ルー・ガルーのことは何度か話したことがあるし――彼女関連で深夜一時縛りを解いてもらう時に話した――、何よりゲームと同じ小説きょこうで飯を食っている人なので。


「実はさ……」


 ありきたりな前置きをしてから、悩みをぽつぽつと話し始めた。

 余計な茶々は入れず、姉さんは黙って俺の話に耳を傾ける。そして、俺があらかた話し終えると、なるほど、と小さく頷いた。


「好きな女の子を他の男に寝取られたくはないけれど、かといって自分が処女を奪うのは躊躇ってしまう。つまりはそういうことですね?」

「姉さん、俺かなり真面目に話してるつもりなんだけど」

「真面目に回答をしていますとも。命も破瓜も、散ってしまえば失われるのは同じことです。それが虚構のキャラクターというならなおさらですね」


 そう言ってから、姉さんはカップに口をつける。ぬるいですねとなぜか楽しげに零した後、俺の方を見て笑みを深めた。


「虚構の命に対して真摯な弟くんのことは、好意的に思いますよ。でもね、弟くん。本物のように想っているからといって、本物のように扱ってはいけないんですよ」

「現実と虚構の区別はつけろって?」

「現実の流儀を虚構に押しつけてはいけないということです」

 虚業さっかを生業にしている姉は、言い含めるようにそう言った。

「虚構を現実のもののように愛でるのも、虐げるのも個人の自由です。ですが、現実のルールを彼らに適用してはいけません。動物愛護団体が、ゲームのモンスターを倒すのも動物虐待だと言い出しても困りますよね? つまりはそういうことですよ」

「……俺は、他のプレイヤーに倒すのをやめろだなんて言わない」

「ええ、そこの一線は正しく見極めているようで何よりです。当然のことではありますが、この姉が頭を撫でて褒めてあげましょう」


 えらいえらいと言いながら、身を乗り出して俺の頭を撫でようとしてきた。

 当然避けた。姉さんは不満げに頬を膨らませるものの、大人しく伸ばした手を引っこめる。そして、あまりうまくないはずのコーヒーを一口飲んでからまた口を開いた。


「るーがるーさんを倒すこと。彼女と二度と会えない可能性もあいまって、弟くんは現実での殺人行為を重ねてしまっているのでしょう。でも、よくよく考えてみてください。虚構の世界で敵として存在している女の子にとって、死は案外救済かもしれませんよ?」

「……それは、倒す側の都合のいい想像だろ」

「ええ、公式の明言がない以上、虚構の立ち位置は全て受け手の想像です」

 俺の反論に笑って頷いてから。

「でもそれなら、死ぬことが不幸というのも弟くんの想像ですよね?」

「ぅ……」


 意地が悪く、けれどある意味正論ではある言葉を返された。

 ぐうの音も出ず、苦虫を噛み潰したような顔になる。そんな俺を心底楽しそうな顔で見つめながら、姉さんの手が皿の上に置いたままだったスプーンに伸びた。

 米粒がくっついた銀色の匙が、俺の鼻先に突きつけられる。


「どれだけ思いの丈があろうとも、虚構に捧ぐ愛は自慰に過ぎません。自分の手で殺したくないから何もしない、それが救いだと思うから自分の手で終わらせる。どちらも等しくただの自己満足で、どちらも等しく都合のいい想像です。優劣も貴賤もありません」

「……」

「同じ自己満足なら、ストーリーテラーの端くれらしく、結末が他人任せにならない方をおすすめしますね。それに貴方は、やった後悔よりやらない後悔を引きずりそうですから」


 そう言い終えると、俺の手元にあった皿を自分の方へ引き寄せた。


「やった後悔よりやらない後悔を引きずる、か……」


 チャーハンを食べ始める姉さんを止めるのも忘れて、今さっき言われた言葉を繰り返す。


 やらずに後悔するより、やって後悔する方がマシ。

 それは間違いなく、源良おれという人間の気質を言い当てていた。

 鈍器で容赦なく殴られた気分だったが、おかげで思考はだいぶまとまった気がする。やっぱり姉さんに相談してみてよかったと、心の中でそう思った。

 口に出して感謝するつもりはさらさらない。絶対に調子に乗るので。

 ……とりあえず。


「俺の朝飯食うなよ」


 正当な抗議を口にする。冷凍庫にまだあるんだからそっち食べろよ。


「でも弟くん、食べる時間がないのでは?」

「は?」

「貴方の語りが長かったから、コーヒーがぬるくなるくらい時間が経っていますよ」

「ぎゃああああ遅刻!」


 気づいていたなら言ってくれよ!

 ろくに満たされていない胃袋を抱えて、俺は慌てて席を立った。


「良くん」


 台所を出ようとする俺の背中に、空気を読まない呼びかけが投げかけられる。

 無視してしまいたかったが、真面目な呼称がそれを妨げる。足を止めて振り返ると、姉さんはスプーンをタクトのように揺らしながら口を開いた。


「一つ質問なのですが。良くんは、るーがるーさんのどこが好きなんでしょう」

「どこって……可愛いところだけど」

「なるほど。可愛いと」

「?」

「いえ。気にしないでください」


 質問の意図を図りかねて首を傾げるも、姉さんは俺の疑問に答える素振りも見せない。

 はぐらかし方として下の下だろ、それは。


「そういうこと言われると気になるんだけど」

「それより時間、大丈夫ですか?」

「いってきまーす!」


 しかし、あいにくと問いただすだけの時間がない。

 叫ぶように言いながら、俺は今度こそ台所を後にした。

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