聞きたい言葉

髙園アキラ

『聞きたい言葉』

首筋を伝い落ちる水の感覚がゾクリと身体に刺し込み、峻(しゅん)はゆっくりと目を開けた。だが、視界はぼやている。しとしと降る雨の音が、聞くともなしに耳に入ってくる。雨粒が髪の中を抜けて目に入り、さらに視界がぼやける。二、三度まばたきをしたものの、様子は変わらない。手袋をはめた右手で目を拭うと、ようやく見えているものの輪郭が浮かび上がった。

眼下には鬱蒼とした森が広がっている。森がゆらゆらと揺れて見えるのは雨粒のせいではない。自身が崖の中腹にロープで宙吊りになっているからだ。

夢か現か……。峻は頭を左右に激しく振った。意識が次第にはっきりしていくとともに、だんだんと左肩に痛みを感じるようになっていった。

これは現実だ。自分はロッククライミングをするために、ここを訪れたのだ。


* * *


別のクライミングスポットで出会った人に聞いた“穴場”に行ってみようと思い立ったのは昨夜のことだった。

今朝になって日帰りの予定で準備を調え、玄関で荷物の脇に座り込んで靴紐を結んでいた時だ。すぐ横をゴミ袋ひとつ手に提げた父親が無言ですり抜け、置いてあった革靴にすっと足を滑り込ませて出勤していった。

母親が慌てて見送りに出てきて「いってらっしゃい」と声をかけた時には、扉は閉まる直前だった。

峻はその様子を苦々しく見つめながら言った。

「まるで俺なんか目に入ってないみたいだな。言いたいことがあるならハッキリ言えばいいのに」

「あれでも、父さんなりに気を遣っているのよ」

母親はやれやれといった面持ちで言い含めるようにつぶやいた。

「親父、少し痩せたんじゃないか?」

「気になるなら、父さんに直接聞いてみたら?」

「いや……別に」

靴を履き終えた峻は逃げるように外へ出ると、荷物をバイクにくくりつけた。

エンジンをかけて走り出す直前、家から出てきた母親がバイクの音にかき消されないように大声で叫んだ。

「危ないことしないのよ!」

小学生に言ってるのかよ。ロッククライミングに危険は付きものだ。

その時は心の中でそう呟いたが、まさか現実になるとは……。


* * *


峻は痛む左肩に目をやった。Tシャツにパーカーを羽織っていたが、そこに血が滲んでいるのが見えた。

腕は力なくだらりと垂れ下がったままだ。腕の重みからか鈍い痛みが続いているが感覚は弱く、まるで他人の腕のように思えるほどだった。

恐る恐る右手でパーカーをめくってみると、ハッとするような血の塊が目に入った。しかし、それは鮮血ではなく鈍い赤色をしていた。どうやら、すでに流血は収まっているようだ

あれだけの石が降ってきたんだ。不幸中の幸いと言って良いのかも知れない。峻は振り返った。


クライミングの最中、頭上のはるか上でかすかに音が聞こえたような気がした。見上げるとまさに石がこちらに降って来るところだった。

直撃する! 反射的に身をよじったが、20センチはありそうな石がヘルメットの側面をかすめて左肩に直撃した。そして、その衝撃と痛さでそのまま気を失ってしまったのだった。


峻は左手首に巻いた腕時計を見ようと左腕をねじった。途端に鋭い痛みが全身を貫いた。

きっと、これは動かすなってことだな……。

まだ高校二年生の峻は医学の知識など乏しく、そうと察するのが精一杯だった。もっとも、高校にも一年生の二学期から通わなくなっていたのだが。

ようやく覗き込んだ時計は幸いにも壊れておらず、時刻は午後5時になろうとしていた。予定では帰り支度を終えている時間だ。事故から半日が経とうとしていた。


とにかく、なんとかしなければ……。

峻は、身体をよじって崖の下を確認した。

20メートルほど真下に、1メートル四方ぐらいの岩の出っ張りがあるのが見えた。ここまで登る途中に立ち寄って休憩した場所だ。あそこならひとまず落ち着ける。

左手はほとんど使えなくなっていたが、なんとか懸垂下降の準備を調えてゆっくりと下りていった。


数分後、峻は岩の出っ張りに腰を下ろした。腰のクライミングハーネスに加わっていた荷重がゆるみ、下半身に血が巡るのを実感した。「ふう……」と大きなため息をついて、状況の整理を試みた。

ここから地面まで、まだ数十メートルはある。左手でロープやデバイスを操って下りることは相当な危険が伴うと思われた。救助を呼ぶのが正しい選択なのは明らかだった。しかし……。

峻は改めて左肩を見た。上腕部に巻き付けたアームバンド。その中に自分のスマートフォンを入れていたのだ。

だが、石が左肩に直撃する時、アームバンドも巻き添えにしたのを感じ取っていた。

慎重にスマートフォンを取り出してみると、本体は〝くの字〟に曲がり、画面は蜘蛛の巣状に割れていた。入れていたはずの電源はもちろん落ちている。

薄々勘づいてはいたが、この崖の上から外界への連絡手段が完全に途絶えているのを確認したに過ぎなかった。


遠くへと目をやる。この位置からはバイクで通ってきた林道を見ることは出来ない。それどころか見える道路は一切無い。さすがに穴場というだけのことはある。峻は自嘲気味に少し笑った。

さて、どうする。

着ている服を燃やして狼煙でも上げるか? いや、そもそもライターなど火を起こせそうな物を持ち合わせていない。

峻の選択肢は二つだけ。危険を冒して自力で地面へと下降するか、ここに留まるかだ。


自力で下りることを想像したとき、この身体で適切なロープワークやデバイス操作ができるのか、正直なところ峻には自信が無かった。

左腕にはあまり力が込められず、特に握力はほとんど失われているに等しかった。岩やロープをホールドするのも困難を極めるだろう。それでも運良く下にたどり着いたとして、人のいる場所まで歩いて行けるとは思えなかった。この左手ではバイクのクラッチも握り込めないだろうし、ハンドルに手を掛けることすら怪しい。


では、この場所に留まるのか?

夏とは言え、雨が降っている。防水のパーカーを着てはいたが、このままでは徐々に体温を奪われていくだろう。まもなく日没だ。

峻は、雲の流れて来る方向に目をやった。そう遠くない山の頂に、雲の切れ間から差し込んだ夕陽が当たっているのが見えた。まさに希望の光だった。恐らく、もう少しで雨は止む。


今日は金曜日。普段学校に通っていない峻は、すでに曜日の感覚を失い始めていたが、明日は土曜日だ。

平日の今日、他のクライマーは一人も見かけなかったが、世の中が休みになる明日になれば誰かがここを訪れるかも知れない。

峻はここで夜を明かすことを決意した。

自分がどうするべきかの方針が決まると、なんとなく開き直れたせいか急に睡魔に襲われた。

怪我をすると眠くなるという記事を何かで読んだな。

眠って体力を温存するためか、少しでも治癒するために頭から血を傷口に回すのか……。そんなことをぼんやりと考えているうち、いつの間にか眠りに落ちていた。


……何時間経っただろう。

突然、峻は身体を激しく揺さぶられて目を覚ました。

だ、誰だ!? しかし、周りには誰もいない。誰かに揺さぶられている訳ではなかったのだ。峻自身が震えていたのだ。

低体温症……。直感的にそうだと理解した。

ガクガクと全身の筋肉が震えている。身体全体が硬直して自由が利かない。そして、再び遠のく意識。

このままでは命が危ない。なんとか気力を振り絞り、腕や足を必死に動かした。

震える右手でパーカーのポケットのジッパーを開け、やっとの思いで中からエナジーバーを取り出した。崖下に落としたら終わりだ。震えを少しでも抑えながら、口元へと持って行った。

ガチガチと激しく音を鳴らす前歯でなんとか包装を噛みちぎると、中身を口の中へと押し込んだ。

口の中とて自由は利かない。噛んでいるのか舐めているのか、ともかくチョコレートの味を感じながら、少しでも体温が上がるのを祈った。

一本食べきる頃、震えは少しだけましになった。

空を見上げると雲はすっかり消えていて、月明かりが目に映る世界を照らしていた。

「夜明けまでもつだろうか……」

うっかり口に出した弱音が、追い打ちをかけるように自身の心の中で重く反響した。


それから、数時間。

エナジーバーで少し収まりかけた震えは、また元の状態に戻っていた。日の出は近づいていたが、すでに呼吸は浅くなり、意識の混濁が始まっていた。消えかけている自我を保つように、峻は何故こんなことになったのかと自問していた。


なんで、俺は山なんて登り始めたんだったかな。

サッカーやってたじゃないか。みんなで、ワイワイやる方が好きだったじゃないか。

それなのに一人で、誰もいないこんな山に登って。

自分の限界を確かめたかったのか?

なぜ山に登る? そこに山があるからか? 馬鹿馬鹿しい……。

誰が俺に山なんか教えたんだよ。

なんで、俺は山なんか登ってんだよ……。


太陽が昇り始めた。近くの山肌に陽が当たり、辺りが明るくなって来たのが分かった。

しかし、明るくなっていく周囲の風景とは対照的に、峻の視界はだんだんと暗くなり始めていた。もうまぶたを持ち上げることすら難しくなっていたのだ。

遠のく意識の中、峻はなんとか答えを探そうと自問を繰り返していた。


なんで山なんか登ってんだよ、俺……。

なんで山なんか……。

なんで……。


「しっかりしろ!」

突然、右肩を揺さぶられて峻は目を覚ました。

今度は低体温症の錯覚ではない。身体が温かい。毛布らしき物で身体をくるまれているのが分かった。

飲み物が注がれた水筒の蓋を口元に宛がわれると、ずっと欲していた温もりを感じた。湯気が目の前に立ち上るのが見えた。

一口飲むと、それはことさらに甘い紅茶だった。懐かしい味だ。

やけどしない程度に冷まされてはいたが、今の峻には十分な温かさだった。

少しだけ意識がはっきりしてくる。

それを感じ取ったのか、優しい笑顔が峻の顔を覗き込んだ。

見覚えのある顔に峻は呟いた。

「……父さん?」

「がんばったな、峻」

峻はさっきまで頭の中で繰り返していた自問の答えを聞いた。

「父さんの……その言葉が聞きたかったんだな、俺……」

峻はうつむいて、静かに泣いた。


* * *


峻は病室のベッドの背もたれを起こし、すぐ傍の椅子で繰り返しまくしたてる母の小言を聞き流していた。

低体温症にまで追い込まれたものの、幸いなことに後遺症はなさそうだった。しかし、主治医からは念のため今日1日の入院を言い渡されたのだった。

母は言いたいことをすべてぶちまけたのか、ふうとため息をついて言葉を止めた。

母によると、あの場所を突き止めたのは父だという。

高校に通うのが嫌になり、家に居続けるのも嫌で始めた山登り。思い起こせば基礎を教えてくれたのは父だった。“峻”という名前も、山好きの父が付けてくれた。高くて険しい山という意味だ。

山登りの記録を残すためになんとなく始めたSNS。フォロワーなんて百人にも満たないが、その中にいつの間にか偽名の父がいたようだ。そのおかげで、今朝登る前に撮影した写真と記事を頼りに場所を探し出すことが出来た訳だ。

「あんた……お父さんが痩せたって言ってたでしょ?」

母親が再び口を開いた。

「ああ……うん」

「あんたが、高校に行かなくなって山登りを始めた頃から、お父さんも鍛え直していたみたいよ」

峻は白い病室の天井を見上げて呟いた。

「かなわねぇな……。全然かなう気がしねぇ」

その言葉は悔しさを表すようなものではあったが、込められていた感情はもっと温かい別の何かだった。


【完】

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聞きたい言葉 髙園アキラ @AkiraTos

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