06 - 精霊王のひとりクーファ

 精霊王のひとりクーファは、常に放浪し居所の定まらない同胞に比べれば驚くほど行動範囲のせまい暮らしをしている。

 夜明けを森で過ごしていると、珍しい客人がおとずれた。

 空を覆う影に顔を見あげれば、一体の竜がおりてくるところだった。

 体高三パース(約五メートル)をゆうに超える巨体が音もなく着地すると、磨きあげた鉄鉱石のような鱗に鋭い光が反射する。

 竜の王にして仁獣の王ハカーヴァニシュは、前脚をついて顔を精霊王へ近づけた。

 「おまえはさがすのが容易で助かる」

 「おかげで面倒ごとがあると、いつもわたしのもとにもちこまれるのです」

 クーファはそう言って目の前の客人を見やったものの、表情はやわらかい。

 かといって歓迎している様子でもなく、精霊王とは総じて感情のとぼしい種族である。

 「それで、あなたはどんな問題をかかえているのですか」

 人生相談でも始めようかという問いに、ハカーヴァニシュは眼を細めた。

 おもしろがっているのだった。

 「このところ懐かしい気配が絶えず、同胞がおちつかない」

 「誰なのですか、それは」

 「マルヴダシュトだ」

 精霊王は珍しくもわかりやすく怪訝な顔をする。

 「どれほど偉大な方でも、死者はよみがえりませんよ」

 それは先の竜王の名だった。

 永きにわたって竜と仁族を統治してきたマルヴダシュトは没し、ハカーヴァニシュへ世代交代したばかりである。

 「気配だけを感じる。ずっと探しているがみつからない。その気配もいまやすっかり弱くなってしまった」

 「同胞のあなたが探しだせないものを、わたしの手に負えるわけがあるでしょうか……」

 クーファは言いながら、はたと言葉をとぎらせた。

 「そういえば、精霊たちが少し前から封じられた水場があると言っていました」

 いつの間にか誰も立ち入れない場所になっているのだという。

 「行ってみよう」

 ハカーヴァニシュは首をもたげると、巨体からは考えられないほどたやすく空へ舞いあがった。

 同行した精霊王と向かったのは、東西世界を分断する緑帯域にある滝つぼだった。

 精霊たちの言葉どおり周囲には結界が張られており、内側はかすんでよく見えない。

 誰も立ち入れないという話だったが、ハカーヴァニシュは竜の自分だけが通れるのに気づいた。

 「他種族を警戒しているようですね」

 「わたしだけで行こう」

 クーファをその場で待たせ、竜王は目に見えるがなんの抵抗も示さない障壁をこえて滝つぼへ近づいた。

 まさに求めていた気配がそこにある。

 しかし、予想に反しマルヴダシュトの姿はなかった。

 代わりに人間が浮かんでいたのだ。

 それも胸から剣先の突きでた、ただならぬ様相の若い女である。

 ハカーヴァニシュはこの人間から懐かしい竜の気配をはっきり感じとった。

 限りなく死に近い肉体を守ろうとしているのだった。

 竜王は慎重に剣を引き抜くと、生命わずかな身体に回生の法術を施す。

 青白い顔に苦痛の色はないが、まぶたはかたく閉じたままだ。

 しかし強靭な人間には違いなかった。

 人族の肉体はもろく、心の臓を貫かれればまず助からない。

 先代の竜の王の遺志が死をくいとめていたとはいえ、常人でないことは確かだ。

 ハカーヴァニシュの念入りな施術で、弱々しくも鼓動を打ちはじめた身体はゆっくりと体温をあげていく。

 「巨人族イラブラトにもみえますが、それにしては小柄ですね」

 竜王に手を貸すでもなくながめるクーファが言った。

 「最近、人族エタナのむくろがときどき緑帯域まで流れつくそうです。西方では同族内の争いがひどくなる一方だとか。さすがに竜に守られた人間が流れてくるのは初めてでしょうがね」

 「彼女は巨人族を先祖にもつ人間族だ」

 ハカーヴァニシュは前脚で器用に女をすくいあげると、静かに休める寝床を用意してほしいと精霊王に頼んだ。

 竜らしからぬうやうやしい接しかたの人の子をわずかに興味ありげに見やって、クーファは森の奥へ彼らを導いた。



 自分の名を呼ばれるだけで心が震えるような喜びを感じたとき、唯一の伴侶なのだとわかった。

 その相手が初めて出会った竜だという事実は、なんのさまたげにもならなかった。

 相手の命脈がほどなく尽きると知ってもそれは同じだった。

 ――ファルシードがまぶたをあけると、目の前を小鳥の群れがあわただしく飛びまわっている。

 しかしよく見ると鳥ではなく、背から羽がはえた人に似た半透明のものたちだった。

 昔はいつも周囲にいた小さな隣人、精霊である。

 懐かしさをおぼえながら身をおこすと、全身が岩のように重く、かたくこわばっていた。

 胸に疼痛もあり、思わずうめき声がもれる。

 「目覚めましたか」

 不意に声がふりそそいできて顔をあげると、精霊たちに導かれて近づいてくる者がいた。

 あきらかに人間とは異なる雰囲気をまとうその存在を、ファルシードは実際に目にしたことはなかったが、何者なのかすぐに理解した。

 「精霊の王よ、私はいつの間に人ならざるものたちの領域へ入りこんでしまったのだろうか」

 しゃがれてかすれた声でようやく言葉を発する彼女に、精霊王は水がそそがれた水晶の杯を与える。

 ひとくち口に含むと、思いだしたかのように渇きがおしよせてきて、息をつく間もなく杯をからにした。

 すると胸の痛みが消え、きしんだ節々は軽くなり、身体じゅうに力が満ちて命をふきかえしたように感じられた。

 「あなたはしばらくのあいだ、緑帯域の滝つぼで生と死のはざまをさまよっていたのです。偉大な竜の遺志と若き竜王の意志が、あなたを生かしました」

 ファルシードは立ちあがると、淡々と説明するクーファへ、自分の右手を胸にあて敬意と礼節を示した。

 「精霊王たる御身にも多大な慈悲をいただいたようだ。深く感謝申しあげる」

 「わたしは竜王の望みに添うただけです。謝意を伝えるなら竜王へ」

 精霊王の言葉と同じくして、風が巻きおこった。

 竜が飛来してきたからだ。

 巨大な翼の皮膜を折りたたみながら地におり立ったハカーヴァニシュは、意識を回復したファルシードを見て顔を寄せた。

 「再び会うときがくるとは思わなかった、ファルシード」

 「ハカーヴァニシュ!」

 ファルシードは驚きをあらわにして竜の鼻先に両手で触れる。

 「まさかあなたに助けられるとは、なんという偶然だろう。本当に感謝する」

 「偶然ではない。先の王がおまえを守り、わたしのもとへ連れてきた」

 「マルヴダシュトが……」

 声をとぎらせて、ファルシードはしばらく目を伏せる。

 誰からも偉大な王と称えられた先代の竜王マルヴダシュトは、永い生の晩年ついに自らの伴侶をみつけだした。

 しかしその相手は同胞ではなく、巨人族の血を色濃くうけ継いだ人間、ファルシードだったのである。

 彼らは互いを深く愛したが、子を残すことはできなかった。

 最後の時間をファルシードと過ごすのがマルヴダシュトの唯一の望みであり、彼女もそれを望んだ。

 特別な法術でつくられた美しく穏やかな場所で数十年をともに過ごした後、ファルシードは伴侶の最期を看取ったのだった。

 その死によって幻想の楽園は消え去り、彼女が現実世界へ戻ってくると、不思議なことに数か月しか経っていなかったのである。

 「死してなお、マルヴダシュトは私のそばにいるのだろうか」

 「魂は大気と混ざりここにはない。おまえを守っているのは先の王の想いだ」

 彼女を助けてくれた若い竜王も、いつかそんな伴侶を得るのだろう。

 ところで、と口をはさんできたのはクーファだ。

 「あなたは巨人族といってさしつかえない容貌と資質をもっています。精霊にも好まれていますから東方で生きるには困らないでしょうが、これからどうするのですか」

 気遣いというより、いつまで自分の領域に居座るつもりなのかと問うような素っ気ない言いざまに、しかしファルシードはただいぶかしげに眉をひそめた。

 「そもそも、私はなぜここまで流されてきたんだ」

 「おぼえていないのか。おまえは剣で胸を貫かれ瀕死だった」

 「自ら命脈を絶とうとしたのでなければ、何者かから怨みや憎しみをうけていたのではありませんか」

 事情を聞かされても判然としないファルシードへ、ハカーヴァニシュが凶器の剣を見せると、彼女ははっとして手を心臓におしあてた。

 儀礼用途のような華美な装飾の剣には、皇家の紋章が刻まれている。

 「そうだ、私は兄上に刺された……」

 竜王と精霊王は顔を見合わせた。

 血をわけた者、いや同胞のうちで命を奪いあうことなど、彼らの種族にはあり得ないからだった。

 「ファルシードの身を害する者はわたしが除く。おまえの安寧が同胞の願いだ」

 「人間同士のもめごとにこれ以上竜のあなたをわずらわせはしない。私は西方へ戻る。仲間たちの安否を確かめなければ」

 竜王たちも反対はしなかった。

 ファルシードの望みによってたくましい野生馬を一頭譲りうけると、彼女は旅立った。

 それは穏やかな静寂の寝床から、動乱の世界へ身を投じることを意味していた。

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