02 - 皇都へ帰還したファルシード

 皇都へ帰還したファルシードを待っていたのは、民衆の歓声だった。

 早くも盗賊捕縛の報を聞きつけた人々が、騎馬隊を幾重にもとりかこむ。

 そこかしこにあがる「ファルシード皇女万歳」の声は、民の安堵と興奮を伝えていた。

 彼女は成人した十五歳、いやそれ以前から国内の治安や人々の暮らしに心を砕き、また幾度も戦の場で武勲をたててきた。

 市民と気安く接し、彼らの日々の不満を聞き解消してくれるとなれば、人気がでるのは当然だった。

 彼女が身軽に動けるのは第一皇子ではないからだが、その皇子の悪評の反動で余計にファルシード皇女が祭りあげられた面が、まったくなかったとはいえない。

 しかし、なにより圧倒的な彼女の存在感は、理屈など必要としない熱狂を生むのにじゅうぶんだったのである。

 祝いにふりまかれる花の雨を浴びながら、一行は皇宮へ入っていった。



 女官がかん高い悲鳴をあげた。

 ファルシードのいる場所まで聞こえてきたので、なにごとかと思っていると、真っ青な顔をした女官が衣をずぶ濡れにしてかけこんでくる。

 「殿下、あの子供は、人間ではないのですか」

 「どういうことだ」

 ファルシードが尋ねても、女官は混乱して口を開けたり閉じたりするばかりでらちがあかないので、彼女を残して悲鳴の出どころへ向かった。

 そこは水場で、盗賊の根城から連れ帰った子供を洗ってやるよう命じていたはずである。

 ファルシードが姿をみせると、女官がひとり腰をぬかしてへたりこんでおり、そばには湯桶が転がって床が水びたしになっていた。

 そして大きなたらいのなかには子供が、牢のなかにいたときのように体を縮こまらせている。

 女官は皇女に気づくと、安堵の表情をみせた。

 「ずっと顔を伏せていたのでわからなかったのですが、目が、銀色なのです。きっと人の子ではありません」

 「恐れずともよい。ただの子供だ」

 ファルシードは女官たちのあまりのあわてぶりがかえっておかしくなり、苦笑をもらした。

 たらいのそばに膝をつくと、子供はぱっと顔をあげた。

 頭から湯をかぶって濡れねずみのようになっている。

 そこで初めて、彼女は目を見張った。

 「そなた、髪も銀だったのだな」

 土ぼこりや泥で汚れきっていて、とても銀色にはみえなかったからだ。

 しかし、目の色彩については牢ではっきりと見たため、あらかじめ知っていた。

 銀の髪は珍しいもののなくはないが、銀眼は人間には発現せず仁族だけがもつ色彩だ。

 仁族とは、人族と言語によって意思の疎通が可能な獣種の総称である。

 そのうちでもディアマトと、人族の隣人とも呼ばれる精霊王アシールの二種族は、世界の頂点に立つ絶対的な主として君臨している。

 人間にとって異種族はあまり馴染みがないが、仁族に対してはよりおそれを含んで遠い存在だった。

 「女官たちより、そなたのほうが驚いただろう。綺麗にするゆえ、おとなしくしておいで」

 ファルシードは温かな湯の満たされた桶をひきよせて海綿を濡らすと、子供の身体を洗ってやった。

 まだあどけない顔だちで髪も長かったので女の子だと思っていたが、少年なのだとそのとき気づいた。

 ファルシードが世話をしているあいだ、子供は彼女の衣をにぎったまま片時も離さず、結局その後も常に連れ歩くことになったのだった。



 首都マハシェの北方には、信仰の重要な拠点である夏の都テル・パルミエがある。

 さらに北へいくとピセ小海と呼ばれる広大な湖があるが、その西方で反乱がおきたという話はファルシードの耳にも届いていた。

 「旧メディナ王国のあった場所ですね」

 「イラジーが討伐に出ているが、戦況がかんばしくない」

 ジャハーンダル帝は娘を前にため息をついた。

 アルバディアは先代、つまりジャハーンダルの父の時代に著しく版図を広げ、帝国と称した。

 先帝は歴代の君主のなかでも四十九年ともっとも長い在位を誇り、その人生のほとんどを領土拡大のための戦にあけくれた。

 とにかく戦場へでずっぱりで玉座を温める暇もないため、ジャハーンダルはあまり父の顔を覚えていないほどである。

 五年前、彼が帝位を継いだとき、すでに壮年になっていた。

 先帝の強引な侵攻の数々は多くの火種を生み、いまも各地で反乱が絶えない。

 ジャハーンダルは先帝ほど苛烈な気質ではなく、ある程度の締めつけはあるにせよ恐怖政治は行わなかったが、残された負の遺産は大きかった。

 成人以降、ファルシードも皇帝の兵を率いて鎮圧のために各地をとびまわっている。

 自身の兵をもたないのは、イラジーによけいな刺激を与えないためだ。

 彼が兄弟に対して小さくない対抗心を燃やしているのは、周知の事実だった。

 「ファルシードよ、援軍を連れてイラジーの討伐に加わってくれぬか」

 「兄上は難色を示されましょう」

 「だが、このままでは戦況は悪化する一方だ。兵の士気もさがる」

 皇帝とて子供たちの仲の悪さを知らないわけではない。

 むしろ、その問題は常に頭痛の種だった。

 同腹の兄と妹である以上、兄が次の皇帝となるのはほぼ決まっている。

 しかし、資質も人望もどちらがまさっているかは誰の目にもあきらかであり、まさにその点が皇帝を悩ませてきた。

 救いはファルシードが兄に対して恭順的であることだ。

 ことあるごとにふっかけられるイラジーからの大小の嫌がらせや挑発にも、彼女は相応の対処はするが報復にでることはなく、波風をたてないよう細心の注意をはらって沈静化をはかっていた。

 不安定な情勢のなかで兄弟間の争いが皇帝の治世を、ひいては国の治安をもゆるがす危険をはらんでいることを知っているからだ。

 もちろん皇帝も、ファルシードの深慮によって均衡が保たれている現状は把握している。

 そして、このまま妹が有能な臣下としてイラジーの片腕となり、彼がその有用性に気づいて和解してくれることを期待していたのである。

 結局のところ、このたびの反乱鎮圧もファルシードが兵を率いるしかなかった。

 ほかの地域も平穏とはいいがたく、皇帝がマハシェを離れるわけにはいかなかったからだ。

 「ただし、兵の運用は私に一任していただきたい」

 「もちろん将はおまえだ。良い考えがあるならそのようにするがよい」

 二十歳に満たない皇女の双肩に課すべき重責ではないと承知しながら、皇帝は戦事という外政とイラジーという内政の両方を託さざるを得なかった。

 それだけの勲功をファルシードはたて続けてきたし、皇家の始祖の再来であり、太陽の神の顕現ともいえる彼女の姿に、皇帝自身が無意識に畏怖し絶対視しているのかもしれなかった。



 ファルシードが戻るとケイヴァーンが待っていた。

 「やはり出なければならなくなった」

 「先日、南方への出征から帰還したばかりです。物資は整っても兵馬の回復にはもうしばらくかかります」

 「いまは父上の腹心の将らは動けない。うちの騎馬隊がつかえないなら、私とおまえだけで出るしかないな」

 「それは容認できません」

 ケイヴァーンが厳しい口調で言った。

 ファルシードは皇帝の兵を率いるときも、子飼いの騎馬隊はいつも身近においていた。

 にわかの兵団を統率するために調整として必要だという理由のほかに、彼女の護衛としての役割があったのである。

 民衆の支持が高かろうと皇宮内で同じとはかぎらない。

 イラジー皇子派からの刺客の危険も常にあった。

 しかし、先だっての遠征で兵も馬も疲弊しており、このたびのイラジーへの支援も急を要するため、ファルシードとケイヴァーンだけで兵団を率いなければならなかった。

 「皇帝の目の届かない戦地へ単身でとびこむなど、狙ってくれといっているようなものです」

 「だが、こちらの準備が整うまで反乱兵が待ってくれるわけではないからな」

 ファルシードは肩をすくめて言った。

 「できるかぎり対策は講じる。私とて背後から味方に斬られたくはない」

 度胸があるのか無謀なのかわからない主の態度に、ケイヴァーンはいっそう表情を険しくした。

 皇女は昔からなにに対しても、恐れやおびえといった気構えがない。

 といっても、彼が知っているのは成人してからの皇女だ。

 十四歳のとき、彼女は一度こつぜんと姿を消し、行方知れずになったことがある。

 皇宮は大騒ぎになったが、数か月後なにごともなかったかのように戻ってきたため、さらなる騒動になった。

 精霊にさらわれたとか、本当に太陽神の化身なのでは、などと噂されたものの真実は知れないままだ。

 そんな事件があり、皇女個人の護衛としてケイヴァーンが仕えることになったのだった。

 成人をむかえてすぐの皇女に初めて拝したときの衝撃を、彼は鮮明に覚えている。

 それまで遠目に見たことしかなかった皇女が、なぜ暁姫と呼ばれるのかはっきりわかった。

 沈みゆく夕日の茜とは明確に違う、夜明けの緋色の髪と金眼の圧倒的な輝き、彼女自身から発せられる灼熱のような覇気を前に、彼はただ膝を折った。

 あのころからファルシード皇女はゆるぎない王者であり、一貫して成熟した意思の持ち主だった。

 単純に身体能力もずばぬけている。

 大柄なだけでなく膂力は大人にまさり、大剣を片手で難なく振るう。

 十五歳の皇女と手合わせをして引き分けにもちこまれたときは、少なからず剣の腕に自信をもっていた二十歳のケイヴァーンの自尊心が打ち砕かれ、しばらく立ち直れなかったものだ。

 それがいまやアルバディアの知将、勇将の名声を得ているのは彼自身の努力と、皇女が彼を甘やかさなかったからだった。

 ファルシードはより多くの鍛錬を求めたほか、一兵卒で終わらせる気はないといって兵法のみならず学問全般を彼に学ばせた。

 そして彼女は他者に要求する以上に自らに対しても厳しく課したのである。

 さらにいえば、彼らは名声を得るための勲功をたてる機会に恵まれていた。

 それだけひんぱんに戦にかりだされていたからだ。

 「――ところでソルーシュはどこにいる」

 ファルシードはふと気づいて言った。

 保護している銀色の子供のことである。

 自分の名もわからないようだったので、月の神の神殿にある使徒の彫刻に似ているのを思いだして『ソルーシュ(天使)』とファルシードが仮名かりなをつけた。

 子供は昼夜にかぎらず彼女について離れなかったが、さすがに戦場へ連れていくわけにはいかず、遠征に出ているあいだは女官に世話を任せていた。

 先の戦からもどってからというもの、沐浴にもついていきそうな勢いだったが、少しは離れているのも慣れてきたのだろうか。

 「女官が面倒をみています」

 ケイヴァーンは新たな問題に頭痛をおぼえながら答えた。

 実際、盗賊のもとから保護した奇妙な子供はやっかいな問題だった。

 外見がすでに普通ではないし、盗賊に拾われた経緯も法術を扱える理由も謎のままである。

 そもそもしゃべるのがおぼつかないうえファルシードにしか口をきかないので、知りたい答えはいっこうに得られなかった。

 皇女の一存で皇宮においており、いまのところ周囲に害もないが、不気味な子供にはちがいない。

 イラジー皇子からの攻撃材料になるかもしれず、ケイヴァーンとしては早く遠ざけてほしかった。

 子供に対して恨みなどないが、彼の判断基準は常にファルシードであり、彼女の弱みになり得るものは早急に排除するのが役割である。

 「あの子供をどうするつもりです」

 「街の養護院へいれるわけにはいかない。私の管轄の神殿へ事情を話してうけいれてもらおうと考えているが、まだしばらくはここで保護することになるだろう」

 「なぜ殿下にだけ、あれほど懐いているのでしょうか」

 「私の考えだが、あの子はおそらく精霊エアかなにか、異種族の影響をうけている。逆にそうでなければ、緑帯域に子供ひとりでいることなどできない」

 「異種族との接触と殿下に懐くことと、なんの関係があるのですか」

 「さて、もしかすると私が異種族の仲間にみえたのかもしれないな」

 ファルシードはからかうような笑みをみせると、いぶかしげな顔の男を残して室を後にした。



 ソルーシュのために用意した部屋に本人はおらず、外へ出てみると案の定、木陰でまるまって眠っているのをみつけた。

 すぐに掛布をもった女官がやってきてファルシードに気づいた。

 「目を離すと、すぐに外へ出てしまうのです」

 困ったように言いながら顔は笑っている。

 最初はソルーシュの姿におびえていた女官たちだが、ただの無口な子供だとわかってしまえば、猫の子をかまうように世話をしている。

 ファルシードが月の神の使徒像に似ていると言うと、本当に月の神の天使かもしれないなどと信じる者まででる始末だ。

 きらきら輝く綺麗なものが大好きな女官たちにとって、銀髪銀眼の愛らしい子供はかっこうの玩具になってしまった。

 しかし猫がそうであるように、ソルーシュもかいがいしくかまわれるのが嫌なようで、隙をみつけては人けのない中庭へ逃げだした。

 女官をさがらせると、ファルシードは掛布をそっとかけてやる。

 しかし少年はすぐに目をあけてしまい、彼女の姿を認めるとあわてて抱きついた。

 またおいていかれてはたまらないとでも言いたげである。

 「少し見ないうちに、肉がついて重くなったな」

 子供をかかえて膝の上へのせると、ファルシードは小さな背中をなでてやった。

 以前に比べれば、ずいぶんと腕や顔はふっくらして、肌も血色がよくなった。

 「ファル、ずっと、ここにいるの」

 もごもごと舌足らずに言うソルーシュの表情は不安げだ。

 保護されてからというもの、彼女と一緒にいられた時間はあまり多くない。

 皇女はとにかく多忙で、戦地へ出ればなおさらだった。

 「そばにいてやりたいが、またすぐに遠方へ行かなければならない」

 ファルシードの言葉に、子供はすんと鼻をならした。

 泣きだしたわけではなかったが、わずかに目がうるんでいる。

 「顔を見せて声をきかせてやるわけにはいかないが、手紙を届けさせよう。鷲を知っているか。雄大で勇ましい、私の大切な友人だ。きっとそなたのもとへ便りを運んでくれる」

 「字、よめない……」

 「女官が代わりに読んでくれる。それとも、私のいないあいだに文字を覚えてみるか」

 子供はやっと顔をあげて表情を明るくした。

 文字を覚えるというひとことに、興味をひかれたらしかった。

 しゃべるのもおぼつかず読み書きもできずに法術を扱えるという矛盾は、ファルシードに内心混乱をもたらした。

 両者には密接な関係があるからだ。

 皇宮に来てから、ソルーシュはまったく普通の子供のようにすごしてきた。

 超常の力をつかうわけでもなく、食べて寝て、遊ぶ毎日だ。

 ファルシードのみたところ、東方世界の異種族とは違う。

 ただ珍しい容貌の、正真正銘人の子だった。

 このまま問題がおきなければ、いずれおだやかに暮らしていける日もくるだろう。

 誰からも愛され豊かな人生を送ることを、ファルシードは心から願っていた。

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